三
古い建物ではあった。皇宮の最奥、人工池の向こう側にある誰も寄り付かない離宮は、皇帝の離れとも、皇帝の客人を招く為に建てられたとも言われている。実際に使われたかどうかも定かではなく、何の為に建てられたかを知っているのは、皇帝その人ぐらいだろう。
道托は、その建物の存在こそ昔から知っていたが、中に入った事は一度も無い。ただ、目にした事はあった。
まだ、道托が幼かった頃。子供とは無邪気なもので、入ってはいけないと言われる程、駄目と言われる程に、足を踏み入れてみたくなる。
皇宮には、見えない道が幾つもある。子供だけが通れる、壊れた壁の穴。壁の隙間に、木の影。
そうやって、秘密の道を見つけ出し、大人の誰にも知られないという高揚感に取り憑かれた遊びを繰り返していた。そんな時、偶々橋の下を通ったその先の水路を沿った道を行くと、見た事もない庭園に出た。皇子宮ではないそこの東屋には、見知った顔がゆったりとお茶を飲んで過ごしていたのだ。
滅多に会う機会の無いその人に、驚いた。まさか、祖父に会えるとは。
道托は、こっそりと除くだけのつもりだったが、ほんの少し顔を出しただけで、直ぐ様に祖父に見つかってしまった。気まずく、勝手に皇帝宮へと侵入した事を咎められるかと考えながらも祖父の前に出るも、祖父は叱ったりはしなかった。
「あまり、奥深くへは行ってはいけない」
とだけ言って菓子を一つ手渡すと、父には内緒だと言って柔らかい表情を見せていた。あまり、表情が変わり映えしないと思い込んでいたその人の柔らかい表情が、道托には印象的だった。
それから、道托は何度も祖父に会いに東屋を目指した。会える日もあればえがらんとした東屋を眺めるに終わる日もあったりと、都合良くはいかなかったが、秘密の道を通って祖父に会いに行く事が楽しみになっていたのだ。
その日も、道托は祖父には会えず、第二皇子宮へと帰るはずだった。その時、何となしに、祖父が言った言葉を思い出した。
『奥深くへ行ってはいけない』
その言葉は、更に深い場所への道案内でもあった。道托は、誰もいない庭園の中、どこか抜けられる道は無いかと探し回った。
自分だけが通れる道。誰も知らない秘密の道。道托は、垣根の小さな隙間を潜り抜け、更に奥へ奥へと進んで行く。皇宮の庭園を抜けたその先に、また違う離宮を見つけた。
人工池のその向こう。池の上に設置された朱色の橋を渡って行く。近づくにつれ、古めかしいが管理され状態を保ったままの宮が姿を現した。皇帝宮や皇子宮の宮程大きくはないそこは、豪奢とは言えない建造物だった。洗朱色ばかりの建物で溢れる皇宮の中で黒漆で統一されたその宮は、煌びやかな皇宮の中で異彩とも言える簡素な造りだったが、独特の美しさを持ち合わせ、今にも消え入りそうな程に儚い様相を放っていた。
皇帝宮の敷地も外れた其処に、一体、誰が住んでいるのだろうか。
道托は、門兵すら居ない、その離宮に一歩足を踏み入れようか迷った。
だが何と無く、入ってはいけない。そんな気がして、そのまま来た道を戻って行ったのだった。
今、その宮には客人がいる。その宮に主人にでもなれそうな程の権威を手にした人物だったが、今は如何にも不機嫌な空気を身に纏って、広々とした応接間で道托の上位に座っていた。
正確には、道托自身に敵意を向けられているだろうか。まあ、その男の元主人が誰かを思えば当然かもしれない。
道托も、今手にしている案件が無ければ、わざわざ此処には居ない。
睨み合っているのかと勘違いする程に、場の空気は研ぎ澄まされている。その二人の様子が、周りを困惑させていた。
どちらも、背後に護衛官やら従卒やらを引き連れているが、無表情が崩れそうな程にハラハラと内心恐々としている事だろう。今にも一触即発しそうな空気に飲まれぬ様に、気を引き締めるばかりだ。
張り詰めた空気の中、ゆっくりとだが、仕方が無いと口を開いたのは、この宮の仮の主人に方だった。
「それで、御用件を伺いましょうか」
嫌々だが、時間が勿体無い。不遜な態度がまざまざと現れ、いっそ怒らせて帰らせようとでもしている。
何も、道托が初めての来客では無かった。皇宮の最奥とは言え、先触れさえ出して返事があれば、対面は出来る。深層の姫という、隠された存在でもない為は何かしら肖ろうとする者が後を絶たなかったのだ。
燼の元の身分から考えての行動か、適当に振る舞う者、これ見よがしに遜る者、横柄な態度で見下す者と様々だった。神子だからと言って、正式に神殿が発表しないからと考えて誰か協力者を作ろうとするだろう。力になって欲しいと乞い願うだろう。慣れない立場を勘違いに下手に出る事もあるだろう。
其々の思惑を胸に、六人目の神子に対面してはみたのだが、悉くその野望は潰えることとなる。
誰も彼もが、自分の思惑を口にした後、神子は一言言うのだ。
『それで?』
と、有益な話を持ってはいるが、其方の望みばかり優先しているのだろう?愚かとでも思っているのだろう?
何も言葉を口にしなくとも、神子が発する威圧に、誰しもが逃げ帰っていた。
神子と目が合うと、恐怖に呑まれる。
面会を果たした者達は、そう言って二度と手紙すら送る事も無い。
しかし、今日の客人は違うらしく、はっきりとした目的と、堂々たる姿は、用事が終わるまで帰らないと言っている。
燼の態度も言葉も気にする事なく、道托は身構える様子もなく口を開き始めたのだった。
「此度は、面会の機会を賜り感謝致します。早速ですが、どうか協力願たい事案が御座います」
流石、皇族なのか姜一族なのか、はたまた将軍だからなのか、真っ当な礼儀ある姿を真摯に向ける。その姿勢に気が抜けそうなのは燼だった。元とは言え、嫌っている男の従者をしていたからと言って、態度に微塵も出さないのは彼の精神力だろうか。
「はあ、貴方に敵意を向けた俺が馬鹿らしくなりました」
「……神子様と
芝居でも打っていそうで、何処まで信ずるに値するかも悩ましい所ではあるが、道托の目的は企みも何も無いものだった。
「ここ一月の事ですが、皇都で不審死が続いております」
将軍という立場の風格に似合わず、礼節を保った姿で話続ける道托。彼の弟を思えば、姜家として教育を受けた結果なのだろう。その生真面目さは、やはり兄弟で、演技ではなさそうだ。
単純に仕事に来た。それならば、燼にとっても無駄な時間には当たらなかった。
「死に様はどういった様子で?」
「自害、老衰、突然死が主な原因です」
「突然死は兎も角、特に自害も老衰も不審でも何でも無いのでは?」
「一日で若々しい姿から老衰するまで老いる人物を見た事はありますか?何の前触れもなく、突如自身の首を斬り始める者は?恐怖の顔色のまま死に絶える者は?これら全てが、只の偶然だと?」
確かに、不審だ。老衰は普通は前兆がある。自害も、武官の一人が突如剣を抜いたかと思えば、自らの首を斬ったのだとか。
更に突如死に関しては、朝、起床時に発見されていると、道托は言った。
「道托殿下のご意見は?」
「……只の人には不可能でしょう。人で出来るとすれば――」
「夢見の可能性が高い……と」
燼は、礼節は保つも物怖じも遠慮もしない男を前に、くつりくつりと笑っていた。
「もしかして、俺を疑っていますか?」
その様子にも、道托は一切の表情を見せない。やはり、
「神子様の存在が知れ渡ってから事が起こっています。まあ、神子様が実行犯だったとしても神子を罰する法はありませんが」
「協力と言ったのは、俺に調べろ……又は自白しろ……と」
「どちらかを選択して頂けるのであれば、幸いですが」
真顔で戯言でも抜かしているのか、恐れを知らぬ男の言葉は、本来であれば冗談では済まないだろう。
「信じるかどうかは知りませんが、俺はやってませんよ。それに、調べるにしても、俺は動けません。陛下も何とか神殿を言いくるめようと必死なのですが」
お互いに、腹を割って話す間柄とは遠く、無縁だ。燼も道托の仕事振りこそ関心したが、手を尽くしてやろういう考えには至らなかった。
だから、敢えて皇帝の名を出す事で、話を区切ろうとした。
「では、陛下の言動次第では、ご協力下さると?」
「えぇ、陛下のご依頼でしたら、聞き入れましょう」
二言はありません、と燼は微笑む。道托は、その言葉に納得したのか、ではその時は、とだけ言って挨拶をすると、宮を出て行ったのだった。
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