第七章 祝炎の英雄 前編(水神編)

 夜が明けると、眩しく照らす太陽の光に安堵し、その光が闇夜の世界から守ってくれる。そんな御伽話を、信じていた頃はいつだっただろうか。朝が来ても、雲が太陽を隠して仕舞えば、薄闇は続くのだ。その薄闇は、人の心を曇らせ、陰を創る。

 もし、その雲を祓う事が出来たのなら、世界は希望で溢れかえるのだろうか。

 それとも、何事も無かったかの様に、時が進むだけなのだろうか。


 御伽話であれば、きっと英雄なる者が雲を祓い褒め称えられるであろう。

 英雄譚として後世まで語らり継がれるであろう。

 実際、経典もその役目を負っている。誰も彼もが、その存在を忘れぬ為に、名を知りもしない英雄が居たのだと皆が崇める。

 その英雄に力を与えたのが、誰であるかを思い出しながら。


 英雄には無死なる力があった。異なる力は、神より授かりし贈り物だ。しかし、無死は果たして祝福と呼べるだろうか。

 その身に魂を閉じ込め、永遠たる時間を約束するが、決して黄泉の国への見つける事叶わず、我が子、我が孫を見送り生きて行かねばならぬのだ。

 ただ一人取り残され、永遠とうつつ彷徨い孤独に生きる。

 

 それは最早、呪いだ。


 ――

 ――

 ――


 皇宮 皇帝の執務室

 

 神農しんのうは新しく神学者が解説した経典をパタリと閉じた。

 解説というよりも、自身の思い込みが強く描かれ、これでは新訳だ。解説は、あくまで経典の理解を深めるものであって、新たな考えを生み出す為のものでは無い。神農は、その書籍を他の書籍と一緒により分けると、販売を許可しない為に、墨で印をつける。そう言った書籍の山が、神農の目の前の机の上には幾つも出来上がっていた。今日で、三冊に目を通したが、どれも承認出来ず、皇宮預かりとなるだろう。

 神学者達が、新たな試みを抱くのは結構な事だが、信仰が疎かになるなどあってはならない。通達も出さなければと、書籍の山を退け、白紙に筆を下ろそうとした時だった。

   

「これは、面白いですね」


 同室で、神農から少し離れて同じ書籍を手にしている男は、ヘラヘラと笑っていた。客人らしく、行儀良く椅子に座るが、他に客も無いからと、いつも同じ椅子を選んでは占拠するその姿と発言は、少々太々しい。

 何より、男の言葉は懐疑的だった。

 これが、面白い?

 真面目な男では有ったが、信仰心が薄いのか、信仰の一環でなく、今では知識に一つとして、解説を読むのだと言う。

 生まれこそ卑賤であるが、獣人族でありながらも皇孫の一人の従者を務めたとあって、勉学には勤しんだのか、知識は豊富だ。

 特に神学は主人に強く勧められた為、今でも真面目に学んでいるらしい。

 それでも、信仰心なるものは一向に目覚めないのだとか。


「これでは独善的な物語でしかない。何が面白いと言う」

「良いじゃないですか、この方には経典がそう見えたと言う事でしょう?実際英雄譚は物語調に綴られているのです」


 経典を物語と勘違いした言葉に、男への不審は募るばかりだ。その経典の一端に、自身の立場が明白なまでに記されているのも知っているだろうが、お構いなしに不用意な言葉ばかりが飛び出してくる。


「所詮、経典が伝えているのは過去の記録です。それを目にした事の無い者にとっては、それは物語と変わりないのでしょう」


 抜け抜けと軽口で持論を語る姿に、神農は呆れて男を見た。若々しい姿を保ち、未だ青年の様相だが、その実、神子として君臨しているからこそ、神農と当たり前に同席し、言葉を交わしている。

 ほんの少し前までは、恐れ多いと、どうにも腰が低かった姿が懐かしくなる程に図太くなってしまった。

 横風にならなかっただけ良かったのだろう。それぐらいの分別は弁え、今も一人の男には忠実なのだ。

 だからと言って、立場を自覚はして欲しい。

 

「……貴方は、自身が神子である事をお忘れか?」

「いいえ、忘却の彼方の片隅にでも送って、妻と慎ましく暮らしたいくらいに消し去りたい事ではありますが、それなりに自覚しておりますよ。それが何か?」

「出来れば、信仰を貶める発言くらいは避けていただきたい」

「それは無理ですね。貴方との会話でくらい嘘をつかずに話させてください。でなければ、退屈で死にそうなんですよ」


 不躾な発言だったが、男にはそれが許される。そして、その本音が全てなのだろう。

 男は今、殆ど身動きが取れないのでいた。


「まだ待て。神殿から真っ当な返事が無い。西王母も、沈黙を貫いたままだ」


 神子五人が認めた、六人目の神子。

 その神子として明かされたじんの存在は皇宮どころか、神殿まで揺るがしていた。

 その身姿、その言動、そして妻君がいると言う事実。その全てが神殿を混乱させる事柄だったのだ。

 神子とは、神の顕在化であるが、これが、燼には当てはまらない。

 その姿は、一介の青年でしかない上に、色も平凡で、彼を神子たらしめるのは、白銀の神子達の言葉だけなのだ。

 そして、更に文句を垂れるならば、羅燼は婚姻しており、更にはその相手と肉体関係まであるという。これでは、今までの全てが覆されてしまうが、神子達は言葉を撤回出来ないし、しないだろう。神殿はさぞ頭を悩ませている事だろう。

 だからか、神殿がとった行動は、単純だった。


『妻君と離縁し、即刻、神殿へと入られたし』


 燼が神子である事は認めるが、その存在を隠したくてたまらないという回答だったのだ。恐らく、皇宮が神子をしている事も気に食わないという事も含まれているのだろうが。


「言っておきますけど、離縁はしませんよ。仙籍も不要と言っておいて下さい。俺は、頂いた名前で十分ですので」

 

 燼の主張は、言うが易し……では済まされなかった。そもそも、神子とは文字通り神の子だ。人ならざる存在が、人籍じんせきに属するなどあってはならないと神殿は騒ぎ立てたのだが、燼は『羅』という姓が気に入っているし、妻と離縁する気もないから、このままで良いと言うのだ。

 拒否された神殿は、神子である燼に直接文句を言うわけにもいかず、現状神子燼を保護している神農に当て付けの書簡を何通と送り付けていたのだ。

 その山が膨らむ度に、神農は溜息が漏れた。神殿が如何に体面を気にするかが露見し、呆れて、返事が書く事が億劫で筆を走らせる手が何度も止まるのだ。

 そして止まる度に神子の減らず口が飛ぶ。


「俺に直接送れば良いのに」


 と、神農の心情を知ってもなお軽口を言う男にも、呆れていた。


「貴方に送った所で、薪の足しになるか返事は不要の一言だろう。紙が勿体無い」

「確かにそうですね」


 ははは、と軽薄な笑を見せる姿が、一瞬、見知らぬ他人に見える。

 日に日に、燼は様変わりして行った。最初こそ皇宮での生き方を模索しているのかもと考えたが、性格そのものが変じている。

 謙虚が消え、目紛しく口が回る。まるで、別人だ。

 環境に合わせて変化しているとも取れるし、人に合わせて人格を変化させているとも取れる。

 それ程までに、神農が最初に捉えた印象とは異なる青年が、そこにはいた。


「さて、今日は戻ります。お忙しいでしょうし」


 読み掛けの書籍をいくつか抱えては、燼は立ち上がる。長く椅子に腰掛けていたからか、遠慮もなく腰に手を当て背を伸ばす姿は自然だった。 

 

「……あぁ、結果は追々送る」

「明日も来る予定ですので、必要はありません」


 その一言だけ言い終えると、燼が颯爽と部屋を出て行った。

 執務室に静寂が訪れ、燼が出て行ったその気配を察してか、執務室に白髪の女が姿を現していた。


「神子様がお帰りになられたので……」


 そう言って、盆の上に幾つもの書簡を神農へと差し出していた。


「此方が神殿から、此方が左丞相からにございます」

「あぁ」

「それと、此方は東王父君から」


 広い机の上に雑多に並べられた書簡。検閲の終わった書籍を側近に渡したところで書簡だけでも机の大部分を占拠している。

 その中で、神農は、東王父からの書簡を手に取っていた。

 他の書簡は署名が必要な書状ばかりだが、東王父となると話が違ってくる。神農は、ゆっくりと封を開けると、その手紙の中身に、神農は乾いた笑いを見せていた。

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