番外編 その心の行方 壱

 これは、一年程前の話。

 冬も終わりに近い、春がそこまで迫っている頃合いだった。

  

 ――

 

 あの女、鸚史は自身の妻を語るときは、必ずそうやって憎たらしさをこめて話す事が癖がある。実際に憎たらしいのか、言い方からして、悪意しかない。

 その話口調ですら、本当に夫婦かどうかも疑わしい程に、鸚史は自身の妻を嫌っていた。ただ、何故その妻と結婚したのかと問うと、とんでもなく最低な言葉が返ってきたのだ。

 ただ一言、「都合が良かった」と。

 政略の問題で都合が良かったのか、どう考えてもお互いが好感が持てる状況でも無いのだろうが、夫婦仲は最悪な状況と窺い知れる。

 皇都の騒がしい酒楼の一角で、燼は鸚史と向かい合って呑んでいた。今日は無性に飲みたいのだと、無理やり家から連れ出されたのだが、その呑みたい理由は自身の女房だったのか、その関連の愚痴ばかりだ。

  

「……はあ、夢を無くすなぁ」


 鸚史の話を聞きながら、燼がぽつりと呟いた。結婚なるものの予定はないが、祝融を見る限りは、夫婦と言うのは幸福の形なのだと思い込んでいたものだから、真逆の鸚史の話は燼に現実を突きつけてきたのだ。


「はっきり言ってやる、上手くいく奴の方が少ないぞ」

「それって、持論ですか」

「女房が従順な場合はうまくいくみたいだな、俺の両親はそうだった」

「……つまらなさそ」

「貴族なんてそんなもんだ。家同士で結婚が決まる。祝融だって、何だかんだで政略結婚だぞ」


 そういえば、そうだったと、燼は二人の姿を思い浮かべる。とても、政略で結婚したとは思えぬほどに二人は仲睦まじい。

 少し前に祝言を上げたばかりの彩華と雲景は、政略では無いが普段は夫婦らしくているのだとか。


「まあ、予定無いんですけどね」


 からからと笑う燼は、ぐっと酒を流し込む。何となしの動作だったが、不注意にも首が上がっていた。ピリリとした痛みが燼を襲い、思わず首へと手が伸びる。

 包帯は取れたが、今もまだ、首には火傷の痕が残っている。喉元全体を覆う火傷は、鎖骨あたりまで広がりを見せる。鸚史の目から見ても、痛々しい事この上無い。

  

「誘っておいて何だが、大丈夫なのか?」


 燼は首から手を離すと思わず目を逸らした。大丈夫ではない。医者には、完治するまで酒は控える様にと言われていたのだ。


「まあ、そのうち治りますよ」


 適当な事を言っては、更に酒を注いでいた。見た目こそ若いが、歳も歳だし自己判断だ、と鸚史も更に酒を煽っていく。そうして、何杯かを飲み干した鸚史の目が途端に真っ直ぐに燼を捉えていた。

   

「そろそろ、また外に出る時期だな」

「えぇ、今の所、知らせは届いていないみたいですけど」


 燼は、変わらず楽観的だった。ぐびぐびと酒を飲み、空になれば注いでいく。鸚史が真剣に話をしようとしているというのに、一片の変化も無い。


「新しい人材でも育てねぇとな」

「いるんですか、そんな人」


 軒轅様みたいな人は珍しいでしょ?と悪意なく、さらりと現実を突きつける。が、的を射ている事も事実だった。無理やり連れて行かねばならない人材など不要だし、だからと言って、中途半端な志願も要らない。


「昔、名誉がどうのって志願した奴がいたな、そういえば」

「へえ、初めて聞きました」 


 それは、若く勇猛果敢な男ではあった。あったのだが……


「親が全力で反対したからな、結局話は無しになった」

「あぁ、どこかの家紋だったんですね」

「親が祝融に関わると、姜家を敵に回すと考えたらしくてな」


 その言葉で、燼の瞳の色が薄らと紅を差す。


「おい、抑えろよ」

「大丈夫ですよ、少し、苛ついただけです」

「過去の話さ。ま、黄家ぐらいの家紋でもないと、姜家は怖いんだろうよ」


 何と言っても、皇帝の血筋だ。はっきりと目に見える権威が玉座にあるからこそ、皆、怯えるのだろう。鸚史は、過去にも経験した苦い思い出が蘇りそうになると、話題を変えよう、と鸚史は最初に話をしていた愚痴を思い出した。

 都合の良い女が、何の価値も無くなったという話。


「そういや、あの女の家紋もそう恐れちゃいねぇな」

家でしたっけ?」

「ああ、そうだ。碌な家じゃねぇがな」


 すり替わった話に、燼も乗っていた。酒楼で重苦しい話題を避けたいのは、燼も同じだったのだ。だからと言って、すり替わった話も何やら思惑が蠢いている様にも見えるが。

 そもそも、都合が良いとは何だろうか。

 何かしらの思惑があったからこそ、都合がある。知らない方が身の為と思いつつも、燼は会話のついでに、うっかり口から声が漏れていた。


「何の都合が良かったのですか?」

「そりゃ、人質だろ」


 聞かなければ良かった。あっさりと言い放つ鸚史は、大した事じゃないと平然とした表情を見せる。


「よくある事だ」


 政略結婚と見せかけて、牽制の為に娘を差し出させる。鸚史は、最初から夏家を押し付ける為だけに、あの女と罵り続けているのだ。


「まあ、本人に自覚が無くて困るがな」

「……ただの政略結婚だと?」

「風家に見初められたとでも思ってたのかもな」


 燼は思わず、一度会っただけの女性が頭に浮かんでいた。

 そう、思い起こすと今にも鮮明に蘇る、あの日――


 ――

 ――

 ――

 

 外宮で祝融が酒を飲む名目を増やすためか、飲みの席を用意する時がある。労いと言わず、本音がだだ漏れだが、燼としても単純に飲みたいからと言ってもらった方が気楽だ。

 祝融は皇都では飲み歩いたりはしない。妻、槐の前では完全なる良い夫を演じている為、鸚史の誘いを全て断っている。まあ、皇族がそうそう出歩くものでも無い、というのもあるのだろう。意外にも、皇都に戻った途端に祝融は大人しくなるのだ。

 だからといって、呑まない訳じゃ無い。誰かと飲みたくなった時は、祝融はそういった場を設けるのだが、大抵が鎮まる冬だ。

 皇族の宮に呼ばれたからと言って堅苦しい催しではなく、燼にとっても顔見知りばかりの気楽な場だった。

 

 燼の記憶では、婀璜も一度だけ呼ばれていた。

 見た目からも、高位貴族の佇まいの綺麗所だが、穏和な印象の槐とは違い、きつい目つきと他人を寄せ付けない雰囲気が常に醸し出されていた。

 要は、近寄り難い。更には、その近寄り難さを助長させたのが、終始その場に同席していた薙琳を睨んでいた事だった。


「(仲が悪いのだろうか)」


 ぼんやりと浮かんだが、どうにも敵視しているのは婀璜だけだ。どれだけ睨まれようが、薙琳は見向きもしていない。

 そんな薙琳はと言えば、席に着くまで一歩下がって鸚史に着いていた。それが、何気なくいつも通りに用意された席に着くと更に不機嫌な様子になっている。

 ある程度の順番は決まっているが、祝融の宮では皆同じ席に着く。

 主人だろうが、従者だろうが、気にせず同じ卓を囲む長椅子に座るのだ。鸚史の隣に婀璜が座るが、薙琳はと言うと、珍しくも端に座る燼の隣を選んだ。まあ、鸚史の連れ合いがいるのだから、妥当な位置だろう。

 しかし、婀璜は薙琳がどこに座ろうが何をしようが気に食わないのか、その歪んだ目が全てを物語っていた。

 気の強い女性ぐらいにしか考えなかったのだが、どうにも不機嫌極まりない。鸚史の妻という想像とは異なる人物を前にしても、燼は慣れた祝融の宮で、いつも通りに過ごしていた。

 そして、宴会が始まった直後に、彼女の突然の発言が最も恐ろしい男を怒らせてしまったのだ。


「平民風情が、礼儀を弁えれないの?」


 婀璜の瞳はぎろりと薙琳を睨んでいた。忌々しい物でも見る様に、その目は悪意で一杯だ。その目線の先には間違う事ない平民の姿がある訳なのだが、婀璜が発せられる言葉からは、その隣の人物も同様に平民であるなどとは思ってもいないだろう。凍りつく場の空気は最悪で、それに気づいていないのはただ一人だけ。

 

「貴族と平民が同じ席に着くなどあってはならないでしょう?」


 薙琳を邪険にしているが、その鋭い目に薙琳が怯える様子は無い。が、婀璜の言い分も、まあそう言うものかと飲み込んだのか、それともこの場で揉め事を起こしたく無かったからか、素直に立ちあがっていた。そして、それに釣られて燼も、隣に立ち並ぶ。

 その様子に目を丸くしたのは、婀璜だろう。薙琳一人を追い出そうとしたのにも関わらず、なぜかもう一人立ち上がる者がいる。

 婀璜が驚きで何も発言出来ずにいると、二人を止めたのは宮の主人である祝融だった。


「二人共、気にするな」

「でも、今日は……」


 燼の目が、横目に婀璜を捉える。鸚史の奥方も客として来ているならば、彼女の言い分も通すべきでは無いだろうかと考えていたのだ。が、燼が口答えに開いた口は、祝融の怒りの睨みによって遮られていた。


「燼、薙琳、座ってろ」


 あぁ、とんでもないくらいに怒っている。

 燼は、薙琳の袖を摘んで座る様に促しながらも、自身もするすると長椅子に腰を下ろしていた。


「(本気で怒ってる)」


 その怒りの矛先は、言わずもがな。婀璜だった。


「それで、夫人。俺の友人と従者に何の不満があるかお聞かせ願おうか」

「……それ、は……」


 誰が見ても、その怒りははっきりと見て取れる。婀璜は先程までは風家時期当主の夫人として、堂々と姿を現した訳だが、その自身が消え失せる程に祝融に怯えていた。


「夫人の一族の獣人嫌いは噂で知っている。それに関しては、問題ない。好き嫌いは個人の自由だ。好きにしたら良い。俺も、わざわざ醜悪なる様を見せびらかす輩はいけ好かないしな、お互い様だ」


 口調は滑らかで一聞には、説教程度にしか聞こえないだろうが、所々に棘どころか鋭い刃物を仕込んでいる。言葉の節々を隠しもしないものだから、婀璜の顔色は目まぐるしく青やら赤やらに変化していた。


「そもそも、此処は俺の家だ。誰を呼んで、誰と肩を並べて酒を飲もうが、俺の自由だ。それとも、今日は俺の従者を貶める為に此処に来たのか?」

「そんなっ、滅相も有りません!」


 殿下の従者の一人が平民であるなど、知らなかった。婀璜は怯えながらも、夫を見るが、素知らぬ顔をしている。口を閉ざし、静かに酒を啜っていた。


「では、友人を貶めに来たのか?」

「そ……それは……」


 婀璜の目が、薙琳に向いた。薙琳は祝融と違って、怒りは無い。代わりに、ただただ、婀璜を憐れんでいるだけだ。

 それが、婀璜は嫌いだった。


「……夫人、俺は、鸚史の奥方ならば、良い関係が作れると思って此処に呼んだのだ。が、俺の思い違いだった様だ」


 二度と、会う事は無いだろう。と、さらりと述べた祝融の勧告に、婀璜は応じるしか無かった。一人、立ち上がるとすごすごと歩いていく後ろ姿は、寂しいものだった。

 パタンと扉が閉まる音が、静寂を遮ると同時だった。それまで一切口を挟まなかった男が、軽快な口調で話し始めた。


「だから言っただろう、呼ぶ必要は無いと」


 初めからこうなる事が判っていたとでも言うのだろうか。鸚史は酒を注ぎ足しながらも、けらけらと笑っている。自身の妻を嘲り笑う姿に、頭を押さえて項垂れたのは祝融だった。


「あそこまで酷いとは思わないだろ……」


 祝融と鸚史は戸籍上、義理の兄弟だ。だから、鸚史が婀璜と婚姻関係を結んだ事で、祝融にとっては一応親族となる。

 折角繋がった縁なのだから、と鸚史の忠告を聞き流した事を此処まで後悔する事になるとは。項垂れる祝融の横で、妻の槐が兄を睨むが、本人は至って気にも留めていない。

 祝融は、顔を上げると正面に座っていた二人を見た。


「燼、薙琳、悪かったな」

「いえ、事実でしたのであまり気にしておりません」


 あれでも今日は控えていた方ですよ。と、薙琳が恐ろしい事を言う。


「過激な方でしたね」


 と、更には燼がのほほんと言ってのける。

 侮辱された当人達が、一番動じていないのだ。

 

「はあ、呑まないとやってられないな」


 そうして、漸く宴会が始まったのだった――


 ――

 ――

 ――


「あの時会ったきりですけど、どうされるんですか?」

「あぁ?不満垂れてるよ、家を取り仕切る権利もねぇしな」


 話の区切りか、さてとと鸚史が立ち上がっていた。


「博打でも行くか」

「だから、行かないって何回も言ってるじゃないですか。軒轅様を誘って下さい」

「つまんねぇ奴」


 つまらなくて結構、と燼が颯爽と返すと二人は勘定を済ませると店を出た。

 歓楽街の真ん中の酒楼とあって、夜が更けても騒がしい。覚束無い足取りの中を切り抜けながら、二人は貴族街をめざし歩いていた。


「そういや、明日は暇か?」

「いえ、祝融様が用事が出来たとかで……」

「用事って、何だ?」


 さあ、と燼が軽く答える。祝融の様子からして、面倒事が舞い降りた事だけは確かで、一枚の手紙を眺め、はあ、と溜息を吐く主人の悩ましげな様子だけが、今の燼に知るところだった。


「で、何処に行く」 

「えっと、確か……」


 燼は、何気無く思い出す仕草をして見せる。大した用事じゃないと言われたものだから、あまり真剣に聞いていなかったのだ。

 三歩、四歩歩いたところで漸く思い出したのか、あぁそうだと声を上げた。  


ろく省です」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る