番外編 その心の行方 弍

 緑省 省都ワノエ 

  

 花柳界の裏通り。

 薄暗い街並みの中、彩華が祝融の前を歩き提灯で足元を照らしながら、表通りの華やかな世界から遮断された街を通り抜ける。背後では彩華と同じく提灯を手にした燼が、辺り全体に感覚を研ぎ澄ます。

 気を抜いたところでどうって事は無いのだが、主人曰く、出来る限り揉め事は起きない方が良い。と言う。確かに、下手に絡まれるよりはずっと良い。

 そんな不穏な街並みで、不成者達は暗闇から目を光らせて覗いていた。

 外套を纏っていても、それなりの身分には見えるのだろう。目敏い者達にはあまり意味は無いのかも知れない。だからと言って、不成者達が不用意に近づく事はしない。

 彩華と燼の背には、堂々と獲物がこれみよがしに掲げられており、特に燼は大刀と、見た目にも迫力がある。二人の貴族の御付きを前に、不成者達は、暗闇で指を咥えて見ている事しか出来なかった。


 その薄暗い裏通りで、三人は目的の店を探していた。探すと言っても、店らしき建物はあるにはあるが、どれもうらぶれているか、邪な雰囲気を醸し出しているかのどちらかだ。

 祝融は、目的の人物を一切語らなかった。とりあえず、目的の場所まで行くと、場違いな裏通りを端から端まで歩き回っている。こんな所に祝融の知り合いがいるとも思えず、燼は鼻に付く嫌な匂いに耐えながらも、それらしい店を探し回った。

 そして、祝融が一軒の店の前でピタリと足を止めた。


「此処ですか?」

「あぁ、そうみたいだ」


 店と言えるかどうかも怪しい雰囲気の其処は、かつて酒楼が営まれていたのか、店構えだけはそれらしい様相を残しつつも、今にも屋根は崩れ落ちそうな程に家は傷んでいた。

 祝融に躊躇いはなかった。扉に手をかけると、勢いよく扉を開ける。中に人がいるかも分からないそこで、祝融はずかずかと入り込んでいく。燼と彩華も慌てて続くが、そこで漸く、一人の人の気配が店の奥にあると気付いたのだった。

 祝融も気付いたのか、それとも最初からその人物が此処にいると知っていたのか、迷いなくその人物の前に歩み出ていた。


りょう絮皐か?」


 椅子の上で、膝を抱え疼くまる人物は祝融が声を掛けても、何も返さなかった。肩が揺れているのだから、生きてはいるのだろうが、死人の様に動かない。

 燼と彩華も、祝融に並びその人物を見た。燼は、これと言って反応は無かったが、彩華には見覚えがあった。


「貴女、確か……」

「あぁ、あの時の女だ」


 あの時、燼は記憶の中で、一度だけ遠目に見た二人の男女が浮かんでいた。その時だろうか、なんて悠長に考える程度の記憶しかない。


「聞こえているかどうかは知らないが、お前の兄から手紙を預かった」


 祝融が懐を探っていると、何に反応したのか、掠れ声と共に女が顔を上げていた。


「……魯粛ろしゅくが……手紙?」


 死人の目、生気を失った女は、僅かに体を動かすのも億劫なのか、ゆっくりと祝融を目に映していた。


「あ……」


 女にも、祝融の姿に覚えがあったのだろう、気まずそうに目を逸らし、再び俯いている。


「祝融様、用事はこの子ですよね」

「あぁ、そうだ」

「とりあえず、先に何か食べさせないと」


 とても、話を聞ける状態では無い。頬は痩け、目は虚ろ、提灯の灯りでも分かるほどに土色と化した顔色。彩華は女を心配して、食べ物はあるか、水は飲めるかを聞くが、女に気力がないのか、ぼんやりとした様子で何も答えない。


「彩華、後で良い」

「でも」


 反論を見せる彩華に、祝融は後ろに下がっていろと指示をする。衰弱した相手に何をすると言うのだろうか、と思いながらも祝融の命令を無視も出来ずに、彩華は仕方なく少し離れた所で様子を見るしかなかった。


「燼、お前に言い分は?」

「さあ、良く知らない相手なので」

「それなら良い」

 

 死にたがってる様ですし、と燼が小さく溢した。

 辛辣な言葉にも聞こえるが、燼は死にたいのなら死なせてやれば良いと考えていた。

 意外にも辛辣な姿は珍しいが、ある意味で燼の優しさとも言えた。

 死も、人にとっては救いなのだと。


「さてと、お前は字は読めると手紙に書いてあった。こちらが、俺に届いた手紙で、こちらがお前に宛てたものだ。俺は読んでいない」


 そう言って、祝融は二通目の手紙だけを手渡した。

 それまで、死人同然だった女が勢い良く手を伸ばし、手紙を奪い取る。手が震え、上手く開けないのか、手紙がぽとりと床に落ちた。


「あ、」


 それを、燼が拾い上げ、折り畳まれた手紙を開く。中身は見ずに、そっと絮皐に渡した。

 薄暗い中で、絮皐は燼に感謝する間も無く手紙に食い入った。そして――


「……魯粛は……死んだの?」


 絮皐の掠れ声が震え、聴き取り難くも、兄に死を理解した瞬間だった。


「何と書いてあった?」

 

 ぐずぐずと涙ぐみ、うまく声が出せないからだろうか、絮皐は二通目の手紙をそっと祝融に見せていた。


『俺じゃない誰かと、好きに生きろ』


 簡潔に書かれた文章は素気ないとも取れるが、これも兄なりの愛情の形なのかもしれない。


「それでだ、お前の兄は貴族を騙ってまで俺にお前の保護を頼んできた。だが、はっきり言って、死にたい奴を助けてやる程俺も暇じゃない。どうするかは自分で決めろ」


 絮皐は泣きじゃくったままだった。兄が死んだ事に加え追い討ちをかけ、死にたいなら死ねば良いと同義の言葉を掛ける。


「……どう……」


 絮皐は、何も決められなかった。魯粛が帰ってこない事で薄らと死は覚悟していた。ただ、もしかしたら……そんな思いが、僅かに残った絮皐の生きる気力だったのだ。

 それも潰えた。


「生きる気が無いなら、其れ迄だ」


 冷たい口調だが、仕方が無い。知り合いですら無いのだ。

 絮皐は、目の前に立つ男を見た。正直、そう大して視界に入れたくも無いが、その顔は、数ヶ月前にあった頃とは違い、これと言った表情もない。

 絮皐に向けての同情も侮蔑も何も皆無だ。

 それは、隣に立つ男も同じだった。

 同情をされたくは無い。かと言って、何を指針として生きれば良いかも判らない。

 何が正しくて、何が間違っているか、目の前の人物は信用に足る人物か。

 絮皐には、何一つ判断が出来なかった。

 魯粛がこの世に居なくなった今、手紙で好きに生きろと言われたが、生きたいのか、死にたいのか、それすらも判断出来なかった。


「わからない……何も……わからない……」

「今まで、全て兄の言う通りに生きて来たのか?」

「だって……魯粛以外誰も……助けてくれなかったもの……」


 また、絮皐の目から大粒の涙が溢れた。溢れて、溢れて、嗚咽と言葉足らずに話す仕草は子供同然だった。


「だって、魯粛以外、誰も、私が見えていなかった……」


 そこから、救い出してくれたのだと、絮皐は語った。ゆっくり、ゆっくりと、多くを語る。

 父親から暴力を受けていた事、使用人も親族も見て見ぬふりをしていた事、熱湯を浴びせられ死にかけた事、痛みと、心の叫びと、孤独と、絮皐は祝融に叫びながらも、誰も生き方も、死に方も教えてくれなかったのだと。


 そして、力一杯に叫び終わると、絮皐は再びぐずりぐずりと子供の様に泣きじゃくり始めた。

 子供だ。絮皐と言う女は、子供のまま、彷徨っている。


 祝融は、どう声を掛けて良いかも解らなかった。ただ、誰も、自分が見えていなかったという、自身にも覚えのある事が、祝融の胸にぐさりと刺さって見捨てられなくなっていた。

 だが、どれだけ情が湧いたところで、死にたがっている者を生かす言葉だけは、浮かばなかった。

 そんな時、燼が、絮皐へと近づいていた。

 そっと近寄り、絮皐が膝を抱える椅子の前に跪き顔を覗き込む。

 はっきりと表情も見えず、絮皐も顔をあげはしないが、燼はそっと話しかけていた。


「俺は、あんたが見えてるよ」


 絮皐の肩がピクリと揺れた。


「あんたの兄貴は、あんたが生きていける道を作った。後は、あんた次第だ。それでも死にたいなら、好きにすれば良い」


 優しいようで、突き放しているよう。結局は自分で選ぶしかないのだと、燼は言った。

 絮皐は、もう一度、手紙を見た。変わらない、兄らしい文がそこにはある。

 その手紙の主は遠回しに、出会ったばかりの男に手紙を託した。そうでもしないと、絮皐は死ぬと知っていたから。 


「あたしの事、嫌いだと思ってた……」


 絮皐は涙を拭うと、手紙を大事に懐へと仕舞い込んだ。顔を上げると、目の前の男は無表情では無くなり、朗らかな顔を絮皐に向けていた。

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