三十六

 ぐすん、と涙ぐむ。

 絮皐の姿は、幼子そのものだった。一度、大切な存在を失って、二度目の可能性に精神が退行している。それでも、燼は、絮皐をただ抱きしめた。

 居間には絮皐と燼の二人だけ。絮皐の様子に黎は静かに席を立ち、別の部屋へと移動していた。

 長椅子の上で、燼は絮皐を膝の上に乗せ、あやし続け、絮皐が会いたかったと言えば、うんと小さく頷く。

 絮皐が寂しかったと言えば、ごめんと謝る。


「御免な、俺の所為で。嫌だったろ、こんな所に押し込められて」


 頭を撫でる、燼のごつごつとした温かみのある手の感触を感じながら、絮皐はもっと、もっとと顔をすり寄せる。絮皐は燼の首に回す手を緩める事はない。不安で、寸分も離れると、恐怖が込み上げた。完全に甘えで、良い歳の女がする事じゃない。それでも、絮皐は今だけは燼を独り占め出来る時間が必要だった。

 ただ、燼から一番欲しい言葉が出てこない。

 帰ろう。ただ、その一言が欲しかった。  


「燼、家に帰れるの?」


 絮皐涙ぐみながらも、思い切って訊いてみたが、燼は、何も言わずに背を撫で続ける。たった一言、家に帰ろう。それが出てこない。

 その様子が返事でもあった。


「帰れないの?」

「ごめん、今は、まだ無理だ」


 絮皐は、燼の首から腕を離していた。お互いの顔に距離を作り、絮皐は燼の顔を見つめる。眉を歪ませ、渋い、苦悶に満ちた顔がそこにあった。気まずそうに目線を下げ絮皐の両の手を取るも、気を紛らわせる為か、親指で優しく摩る。


「……燼?」

「俺、絮皐に言わないといけない事がある」 


 絮皐にとって、燼の暗い表情は珍しかった。

 夫婦といえど、全てを知るのは無理があるというものだ。燼の仕事を考えても、一つ二つの隠し事があっても、仕方がない。何日も前に、朱黎から勅命とやらを聞いても、そういう事もあるのかと、簡単に自身を納得させられた程だ。

 

「燼、言いたくないなら、良いよ」


 絮皐の言葉に、燼は無理に笑って見せる。言わなきゃ駄目なんだと。


「これから、俺は人として扱われなくなる」


 燼は絮皐の目が見れず、その肩に頭を乗せる。体温を感じ、吐息を身に受け、自身を落ち着かせた。


「これから、俺といると真っ当な生活は望めない。だから、離縁した方が良い」


 燼の言う真っ当な生活は、恐らく二人で過ごした普通の日々の事だ。日々を、真面目に生き、仕事に打ち込む夫の帰りを待つ。もう、その生活に戻れないと言うのだ。

 

「何言ってるの?」

「一緒にいても、巻き込むだけだ。現に今も、俺の所為でこんな所にいる」


 燼は顔を見せてはくれない。悪い冗談を言うような人物でないし、嘘を吐く事すら想像できない人。その口から出る言葉は、恐らく全てが真実だ。


「祝融様に御相談して、何処かで良い相手を……」


 まるで兄の手紙そのものだった。


―俺じゃない誰かと、好きに生きろ


 その言葉通り、絮皐は好きに生きている。

 不成者でなくなり、真っ当に生きる道を選んだ。それでも、絮皐が燼と居る為に選んだ道だ。

 絮皐は思わず燼が遊んで摩っていた手を払い除けた。

  

「何で、勝手に決めるの?」

「……俺と居るべきじゃ無い。絮皐の為だ」

「そう思うなら、理由を言ってよ。魯粛もそう。好き勝手に全部決めて、私に何も言わないの。私が愚鈍だから理解できないと思ってるの?」

「そんなんじゃ無い!」


 燼は思わず顔を上げた。

 一瞬、感情的になってしまったが、今も苦々しい顔が燼の身の内の苦慮を示している。その顔を見ても尚、絮皐は続けた。


「燼は、私が魯粛の変わりに燼といると思ってるんでしょ?私が好きと言っても、何の言葉も返さない。都合の良い時に側に居てくれる人が欲しかったの?」

「……否定は出来ない」


 彩華が、雲景を選んだ。祝福は本心だったが、物寂しさも感じたのも事実だったのだ。

 そして、一人の生活が始まろうとした矢先、絮皐が目の前に現れた。兄の死を嘆き悲しみ、今にも命を絶ってしまいそうな姿に、手を差し伸べる。それは、純粋に燼の優しさだったが、同時に都合が良いと思ったのも事実だった。


「燼が誰にでも優しいのは知ってるし、好きになったのも私の勝手。でも、優しいって理由だけで、燼は此処にいるの?」

「……家族が、欲しかった」

「家族ごっこ?夫婦ごっこ?」

「違う」

「でも、そうでしょ?都合が悪くなったら、私を捨てる?」

「違う」

「じゃあ、燼にとって、私は何?」


 燼は、再び絮皐の肩に顔を埋めた。違う、そうじゃないと呟き続ける。押し固めた不安が溢れ出し、絮皐を強く強く抱き締めた。


「私の事、嫌い?」


 燼は首を横に振る。


「私は今も都合の良い伴侶?」


 燼は、再び首を振る。


「言葉にしないと、私は分からない」


 燼は、うん、と小さく頷いた。


「俺は神子だ。今日、皇宮で、その正体が知れ渡ってしまった。これから何が起こるかもわからないんだ」

「神子って……あの神殿にいる?」

「それとは少し違う。可笑しな事言っている様に聞こえるかもしれないけど、俺はそう言った類の存在だ。これからどうなるかも決まってないんだ」


 そう、皇帝が燼の存在を詳らかにしたとは言え、神殿が、皇宮が燼をどうするかなど、何も決まっていない。


「俺は何一つ権威を持っていない。祝融様も、第二皇子の様子から少々危うい。だから、絮皐は俺から、離れた方が良い」


 神子の妻という立場でいる限り、絮皐にも魔の手が伸びるだろう。だが、一度戸籍から外れてしまえば、滅多な事も無いと燼は考えていた。


「……燼は、神子だから私に何も言わなかったの?」

「……それとは……違う」


 燼は言葉に詰まりながらも、続けた。


「俺は、もう時期、時が来る。俺は、その時、死ぬべきなんだ」

「何それ……」


 神子だから、死ぬのか。その時とは何か。何故、死を迎えなければならないのか。絮皐は内心腹が立った。置いていく事が分かっていたから、言葉を残せない。

 絮皐は自分は身勝手だと知っている。でも、それは燼もだ。神子なんて御大層な存在でも、勝手に自分の役目をでっち上げ、演じ、自己満足で、役目を終えるのだ。

 兄と同じではないか。兄は、何かに蝕まれ、何も相談する事なく、兄の役目を終えた。

 燼の胸を手で押し退け、むかむかと苛つく胸を押さえ付ける。


「絮皐?」

「そんなに私が邪魔なら、助けに来なければ良かったじゃない。放っておけば、役立たずと思われて私は放り出された筈。何で助けに来たの?」


 優しいから?と、絮皐は今にも泣きそうな、その上怒った様な目を見せる。危険な目に遭わせたくないと言うのであれば、皇帝から告げられた時に突き放せば良かったのだ。

 行動こそが、本心だった。


「……はは、絮皐は凄いな」


 顔を突き合わせた燼は、静かに笑っていた。反対に、絮皐は怒ったままだ。

 泣いたばかりで、目は赤い。今にも、また涙を流しそうだが、今は怒りで全てが引っ込んでいるのだろう。

 

「私は燼と一緒にいたい」


 怒りながら、言う事だろうか。燼は、眉を顰めながらの愛の告白に、つい吹き出して笑ってしまった。

 

「……ふふ」

「私は真剣なんだけど」

「うん、分かってる」


 燼は、微笑んだまま絮皐の頬に手を伸ばす。そして、絮皐の頭引き寄せると、静かに口付けた。そうして、お互いの吐息がかかる距離まで一度唇を離す。名残惜しそうな絮皐の表情に、燼は額を合わせた。


「俺は、後どれだけ一緒にいれるか分からない。それでも、出来る限り、俺の傍に居てほしい」


 そう言って、絮皐の目を見れば、今度は絮皐が燼の頬を両の手で包み込み、返事の代わりにとでも言う様に再び唇を重ねていた。

 

―好きだよ、絮皐。

―俺なんかを、好きだと言ってくれたお前が、愛おしい。

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