三十五

 出口で燼を待つ者があった。高齢に差し掛かった金色の髪色の文官と、その背後に控える女官が二人。 用意周到に手配された人物達は最初から皇帝の掌の上だったのだと思い知らせてくる。

 懇切丁寧に恭しく首を垂れるその姿に、燼は嫌悪感しか抱けななかった。こうも、違うものなのか。

 腹の中をぐるぐると駆け巡る何かがある。思わず腹に手を当て、摩ってみるが、実際にそこに何かいる訳じゃ無い。

 悶々とした思考に取り憑かれ、燼は素通りがしたかったが、妻という存在が出た時点で、燼に拒否権は無かった。


「羅燼様、皇帝宮へと案内する様仰せつかっております」


 どうぞ此方へと、頭を下げる人物達は、燼の許しを待っている。


「祝融様、絮皐が心配です。行って参ります」

「……あぁ、俺達は宮へと戻る。お前も後で来い、いい酒を用意しておいてやる」


 少しばかり硬い表情がそこにある。祝融も多くの事柄が重なり過ぎて余裕が無い。異母兄を殺し、更には母も自害してしまった。そして、永く祝融の後ろ盾であった筈の父の変貌。

 それでも、少なからず燼に気を遣おうと必死だ。


「そうですね、今日は最後までお付き合い出来そうです」

 

 燼は笑った。祝融がどれだけ飲もうと付き合おう。その苦しみが消える事無く留まろうともお支えしよう。

 口にはしない誓いを胸に、燼は文官達と共に、皇帝宮へと向かって行った。


 それを見送り、騒めく扉の向こうを今一度睨め付けると、祝融もまた、歩き始めたのだった。


 ――


「妻は今、何処にいる」


 祝融と別れて間も無く、燼の表情は強張った。当然と言えば、当然だ。燼は自分の身は大して気にも留めないが、それ以外となると途端に箍が外れる。それが傷つこうものならば、より凄まじい怒りとなって現れる。

 本当に神子だろうか。文官の心中に穏やかでは無いだろう。特に、殺意などと言いう曖昧な気配から程遠い場所で生きている者でも、燼のそれはひしひしと背に伝わってくるものだから、額から汗が流れ老齢の身体は僅かながらに震えている。

 それは、女官達も同じだろう。まるで、背後に恐ろしい異形でもいる様だ。

 そう感じる程に、恐怖が募り募っていく。


「御妻君は、現在皇帝宮の離宮にて匿われております。夢見の妻と言うだけで、彼女を狙う者もおりましょう。陛下自らご指示なさったのです」


 陛下の見立てで、お前の女房は無事なのだ。燼は、頷ける部分もあったが、皇帝宮に匿う意味は、同意出来なかった。


「妻の事は調べたのだろう。ならば、祝融殿下との関わりも掴んでいる筈。奥方を頼れば済んだ話だ」

「その分は解りかねます。どうか、今は怒りをお鎮め下さい」


 文官は必死だった事だろう。何せ相手は神子に見えなくとも、神子達と皇帝が認めてしまった男なのだ。下手をすれば、自分の首が飛ぶ。

 神子が暴虐たる話は聞かないが、燼の殺意を前に、文官は思わず首に手が伸びる程に怯えるしかなかったのだった。

 早く、早くと年老いた自らの足を急かす。本当に、この男は神子なのだろうか。文官は、何気なく神事の時に遠目で見た覚えのある姿を思い出しても、どうしても背後を歩く男とは当て嵌まらなかった。

 

 そして皇帝宮を抜け、更に奥まった離宮へと向かっていく。

 燼に、景色など見えてはいなかった。斯くも優美な池や草花で埋め尽くされた庭園が、その眼前に広がるも、全くと言って良い程に視界の片隅にも映らない。

 それ程の怒りを抱えたまま、漸く辿り着いた。

 文官と女官達の安心しきった顔と言ったら、桃源郷にでも辿り着いたかの様だ。胸を撫で下ろし、ほっと息を吐いていた。


「(これは……)」


 燼は、そんな文官達を尻目に、離宮全体を眺めた。何処かで感じた事のある感覚。目の前の建物は、そこにあるのに、閉ざされているのだ。


「(封印術……逃げられない様に……という事か?)」


 そうとしか、考えられなかった。

 兎にも角にも、中に入らねば。


「この封印は、誰が解呪する」


 背後で安堵している者達を振り返るが、燼の言葉に女官達はぽかんとした表情を見せていた。しかし、老齢の男は関わりがあるのか、僅かながらに目を逸らしている。


「……羅燼様は、入る事が出来ます。私は入れません」


 老齢の男は髪色からも、黄龍一族だ。

 龍は、閉ざされている。絮皐の正体は既に知られている。その上で、燼の女房として、離宮に置いているのだ。

 燼は文官から目を逸らすと、離宮へと更に近づいた。扉を開けると、目の前に境目が現れる。聖域で境目を通り抜ける感覚を知らねば気付かなかっただろう。

 どの道、絮皐はあちら側だ。燼は、躊躇なく一歩を踏み出した。


 誰もいないのでは無いかとすら錯覚する程に、宮の中は静まり返っていた。広い宮の何処から探せば良いのかも検討がつかない中、燼の耳に微かに女の声らしき声が届いた。

 楽しげに、会話をする様子に燼の顔が僅かに弛んだ。足が声の方へと自然に動く。

 少しづつ、少しづつ足が早まる。声を辿りながら、回廊を足速に進んで行く。

 そして――


「絮皐」


 居間と思われる一室、女の声が響くそこで、燼は中にいる者達に何を問いかける事も忘れて扉を開けていた。


「燼……」


 呆気に取られた顔で、燼を見る。

 今の今まで絮皐は黎と二人でお茶をしながら、布地に針を通している所だった。

 夢だろうか。

 絮皐の手から、布も針も全てこぼれ落ちる。全てを放り出し、燼へと向かっていた。


「燼!」


 其処に黎が居る事も忘れて、絮皐は飛びかかりながら、燼へと抱き着いていた。あまりに勢いに燼は仰け反りそうになるも、何とか耐える。


「絮皐、危ないよ」


 燼は優しく微笑むと、絮皐を抱き締めて、頭をゆっくりと撫でた。

 大丈夫、大丈夫と繰り返し囁く。まるで幼子のあやし方だった。燼の肩に顔を埋め、顔の隠れた絮皐からはぐずぐずと正に子供が泣きじゃくる声が燼にも、黎にも届いていた。


 ――

 ――

 ――


 陽が落ちる。

 茜色の日差しが飾り窓の細工を床に映し出し、刻の移ろいと共に姿を変えていく。

 神農は、誰も居なくなった玉座の間で、刻の流れを眺め続けていた。

 静寂の中で、神農は広々とした全体へと目を移す。玉座の間に残されたのは、広間を埋め尽くした憎悪だけだ。

 その、憎悪の根源が自身の一族が放ったものだった。それまで、背後で祝融の立場を守り続けていた桂枝すらからも、その憎悪で満ちていた。

 もう、終わりだ。

 神農は、天を見上げ、「はあ」と深い深い息を吐く。ゆっくりと立ち上がると、玉座を離れ、諦念を手に歩き始めた。

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