三十七
燼は、真新しい衣に袖を通していた。離宮に急遽届いた衣は、確かに絮皐が途中まで針を通していたものだ。心地の良い生地の感触が、少し前に借りた静瑛の衣を思い出す。
衣の地色を見て適当に灰色と言ったら、絮皐が矢車附子染だと、言い返されてしまった。その手の事では、絮皐には叶わない。
『私は途中までだったの……』
そう言った絮皐は、一本の帯を差し出した。黒い帯に、光を当てると浮き出る刺繍が入ったそれに、燼の顔が思わず綻ぶ。
衣も途中までは絮皐の手が入っている。細やかで、燼の好みに合わせた、目立たない刺繍を見れば、絮皐の想いが目に見える様だ。
そんな他愛も無い事を、衣に目を落とす度に思い出す。
燼は今、皇帝宮の一室で皇帝を待っていた。しっかりと綿の入った椅子だが、ずぶずぶと沈む身体に座り難さを感じては、幾度となく座り直す。
恐らく、客間なのだろうが燦々と行燈に照らされた金細工で囲まれた部屋は、皇帝の権威を現す。目が眩む程の輝きに、暗い地色が丁度良い。衣の肩の辺りから、帯に指び滑らせ刺繍の感触を辿っていく。
絮皐の想いに指で触れる事が、今の燼にとって心を落ち着かせる手法だった。
それでも視界の端に金色が映り込むたびに、溜息が出た。皇帝相手に失礼な話だが、燼の頭は、祝融と交わした約束と、家に帰りたいという想いで一杯だった。
羅燼という殻が剥がれたからと言って、ある日突然、神子という役割の殻を被れるはずもなく、六仙と対面した時の重圧がじわじわと蘇ってくる。
「(俺、これからどうなるんだろ)」
聖域と皇帝が行動に出始めた事が、混乱を生んでいる。その先にある、不確かな未来の中に、燼は自身の使命を感じていた。
今日、玉座の間で知れ渡った神子であるという事実が、燼という存在が現世ではっきりとした形を持ったのだ。その形に、皇帝は真っ先に、存在意義を見出した。
「(一千年を超えて生きてる男の思考なんて読めやしない)」
燼はふうと息吐くと、もう一度椅子に座り直していた。その時だった。
「此処はお気に召さないだろうか」
玉座の間で聞いた声が、再び燼の前に現れた。
入口に目を向ければ、皇威を脱ぎ捨てた、武官にすら見える男が立っている。その男は扉が閉まると同時に扉に手を当てると、扉と部屋が仄かに光を放った。
封印だ。一時的に、部屋を閉ざしたのだ。
聞かれたく無い話をするのであれば、有効手段なのだろう。祝融達がそう言った手段で使用している姿を見た事は無い為、内心驚くも、見慣れていると、何でもない顔を取り繕う。
「いえ、慣れていないだけです」
その取り繕った顔は、不慣れな椅子を無理やり押さえつけている。祝融殿下の宮の長椅子ですら、もう少し硬いのだ。とは言えず、燼は腰を何とか落ち着かせていた。
神農は、何食わぬ顔で燼の眼前に座る。神子と皇帝は同等と言っているのだろう。何を言っても罰せられないが、悉く反論はしなかった。
もう、受け入れるしかない所まで、来ている。
「妻を保護した理由を伺っても」
開き直ったわけではない。だがいっそ、聞きたい事を聞いてしまおうと細々とした精神を精一杯太くしてみる。
「それに関しては、此方の勝手だ。夢見の妻の保護は、本来なら槐皇妃に命じれば終わっていた事だ。だが、私が欲しかったのは、今こうやって貴方が目の前にいる状況だ」
要は、面と向かって話がしたかったと。遠回しだが、逃げ場がない。神子と知れていなければ、会話は成立しなかっただろう。
対等な立場である神子燼という役が、神農には必要だったのだ。
「……実に手の込んだ手段ですね」
「実際、貴方の妻君を付け狙う輩は何名か処分した。これも此方の勝手な判断。礼は不要だ」
「その事に関しては感謝します。ですが、俺に恩を売ろうとは考えていらっしゃらないでしょう?」
「……言っただろう。この時の為だったと。もし、妻君に何かあれば、貴方の精神は歪み会話は成り立たなかっただろう。最悪の事態を想定していただけだ」
何処まで予測していたのだろうか。実際、燼がいない間に問題が起これば、槐が対処していたか、神農が言う様に最悪の事態になっていただろう。
燼は、また溜息が出そうになった。思い切り、嫌味になる程に息を吐けたらそれだけ良い事か。流石に、そこまで失礼な態度は取れない。ただ、矢張りと言うべきか、燼は神農の掌の上で転がされ続けていたのだ。
溜息を飲み込んで、一度落ちた目線を戻すと、より険しい顔をした神農がいる。
その表情は、死んだ阿孫を思わせた。悲しみは見えては来ない。まるで、感情を何処かへと置いてきたかの様に。
「……羅燼、一つ伺いたい」
「何でしょう」
「阿孫は、何を見た」
僅かだが、神農の瞳が揺れたような気がした。気の所為にも思える程度。
「聖域に封印されている
それだけで、何か影響があるとは、到底思えない。ただ、恐怖を感じる。それが正常だ。その答えに、神農は、そうかとだけ呟く。
「それだけか?」
本当に、それだけに反応したのか?と、神農の目は威圧を感じる程に燼を押していた。
「……祝融殿下の姿を見た瞬間です。夢はあくまで、種を深い眠りから呼び覚ましただけ。それを完全に開花させたのは、祝融殿下の存在です」
あの時、阿孫の感情が濁ったのは、祝融の存在を視界に捉えた瞬間だったのだ。その瞬間に、陰に囚われ、姿は完全に異形へとて変じていた。
神子の言葉は神農から感嘆の溜息を吐き出させていた。
神農は、孫の死を嘆いていない訳ではなかった。ただ、表面に出さないだけだ。出せないと言った方が、正しいのかも知れない。
「どう影響するか、分からないと言ったな。もし、玉座の間で大多数に夢を見せていたらどうなった?」
答えるべきか。燼は、自らが感じていた憎悪をどう表せば、神農の気に障らないかが分からなかった。
その苦い顔を見れば、大凡の予測は着くのだろう。そもそも、神農の中では既に結論に近いものは出ていた。
「気にするな、最早、手遅れという事は理解している」
「……手立てが無かったが、正解なのでは?」
燼の指摘に、神農は失笑を零した。
「笑えん話だ。私が守らねばならん一族は、とうの昔に呪われ、その呪いが目覚めようとしている」
「……もう、誰の仕業かは気づいていらっしゃるのですね」
「神々で、人を呪うのは、人から生まれた神だけだ」
その目には、憎悪と共に、懐旧の情も映し出されている。
「だからこそ、神々は、祝融に力を授けた……そう、考えている」
神農は、再び大きく息を吐いた。深い深い、ため息。
神の計略こそ、人の手に余る。
「……羅燼……いや、神子燼と言った方が正しいか」
神農は、目線を落とす。燼に語りかけながらも、僅かな迷いか、一向に目を合わせない。
燼は、待った。神農の画策と決意が、今、自分が此処にいる理由だ。それには、白銀の神子達の思惑も重なっているのだろう。
そして、神農は重い決心と共に、顔を上げた。その目は、鋭く力強い。
不死は、人だ。どれだけ永く生きようとも、その心は人と何ら変わりない。
神農もまた、人だった。強固な意志で決意しなければ、その決断は下せなかったのだろう。
「どうか、私に力を貸して欲しい――」
神農の言葉は続く。その決意の先は――
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