二十四

 皇宮は広い。馬車や馬で内部を移動するなんて事は晒で、それぞれに急ぎの馬の厩舎を持っている。要人ならば志鳥を持っているが数が限られている為、限られた人物のみが持つ事を許された代物だ。所有する権利の無い者は、龍人族を配下に置くか、やはり早馬を育てるしかない。

 静瑛は、姜家とあってその苦労を知らずに育っている。常に側に龍人族が待機し、何かと用立てしてくれたのだ。朱家が馬と言われる所以でもあるのだが、隠さずに行って仕舞えば妬ましいのだろう。

 龍人族が配下にいる。それは権力者として上位に立つ存在とも言えるのだ。

 そして、朱家を連れているとなると目立つ。明らかに姜家の誰かが来訪して来たと言っているも同然だ。


「緊急の所用で陛下にお会いしたい」

 

 皇孫静瑛の姿を見た文官達は慌てた。幾ら孫とは言え、面通しも予定も約束も無い。姜家がそういった強硬手段とも言える行為に出る事は珍しく、下手に門前払いも出来ない。

 取り敢えず、面通しの書簡を持っているかと聞けば、忘れたと惚ける。一度出直されては、と然りげ無く聞くも、急いでいると宣って帰る気配も無い。ちらりと、静瑛の背後に立つ従者を見ても素知らぬ顔をしている。

 さてどうしたものかと、文官達は思い悩んだ。

 皇帝は確かに執務室に御座る。静瑛が押し切ろうとしているのは見るも明らかで、文官達にも理解出来ているが、そういった事に対して前例が無く手をこまねいている。

 そうやって、騒いでいると更に別の文官が顔を見せていた。


「何事ですか」


 皇帝側近の白亮藺はくりょうい

 束ねた白髪を靡かせた白龍族の女文官は、目を細めて微笑んでると見間違う程のおっとりした人柄を見せながら、静瑛へと近づいた。


「これはこれは、静瑛殿下。夜更けも迫るこの様な時間に何お用で御座いましょうか」


 穏和に見えるが、態とらしく恭しさを見せて、静瑛の腹を探っている。

 狸がいたか。まごついた文官程度ならあしらうのは簡単だったが、そういった手合いとなると話は変わる。


「陛下に急ぎ面会を要請したい」

「申し訳御座いませんが、殿下と言えど手順を踏んでいただかなくては」


 頭を上げて女の顔は貼り付けた和か笑みを絶やさない。それ故に、その下の表情は一切見えない。無表情よりも厄介だ。それ故に、静瑛は好都合とも考えた。この女ならば、事を知っている可能性もあると。

 

「……ふむ、では、伝言を伝えていただけないだろうか。それでも会って頂けないのであれば、申請を出そう」

「伝言ですか?」

「新しい針子は、お元気かと」


 ピクリと眉が動く。気づいたのは静瑛だけだろう。僅かな反応だったが、十分だった。その場で、その言葉に反応したのは、白亮藺だけ。


「……分かりました。急ぎ陛下にお伝えしてきます。それ迄、此処でお待ち下さい」


 慌てる様子は無い。だが、確信はついていたのだろう。思い当たる節があるからこそ、僅かだが反応を見せたのだ。静瑛は、白亮藺が戻っていくのを静かに眺めて待った。

 そして――


「静瑛殿下、此方へ」


 白亮藺が再び現れるまで、そう大して時間は掛からなかった。そう言って、白亮藺は案内を始めた訳だが、行き先は白亮藺が来た道とは違う。


「(何処へ向かっている?)」


 本城の中で更に上階へと上がっていく。静瑛も、本城を訪れた経験はあまり無かった。文官にでもなれば、関わりがあったかも知れない程度の認識のそこは、静寂に呑まれている。刻限を考えても、あまり人も居ないのだろう。

 三階まで上がり、暗闇にも等しい回廊を歩いていく。何処まで連れて行かれるのか。廊下にはぽつりぽつりと、蝋燭が灯されているが、心許無く足下を僅かに照らす程度だ。三人分の足音ばかりが響く中、最奥の部屋が進路を塞いでいた。

 そこが目的の場所だったらしく、扉の前に立つなり白亮藺が声を上げていた。


「陛下、静瑛殿下をお連れしました」


 返事は無いが、白亮藺は迷いなく扉を開けて静瑛に中へと入る様にと促していた。背後を振り返ると、飛唱は此処で待つと既に背後に下がっている。

 静瑛は扉が閉まる音共に一歩、前に進んだ。

 蝋燭の灯に照らされたそこは、煌びやかとは遠く、立ち並ぶ書棚に書簡が溢れ、紙と墨の匂いが充満している。そして、少々埃と黴の匂いが鼻に付いた。

 その匂いに埋もれて、隅の机に腰掛ける大男が一人。調べ物をしているのか、書籍を一項一項捲っては、別の書籍を手に取っている。

 はっきりと祖父として接した記憶は、七生の儀と成人の儀のみで、高徳なる人物を前に、静瑛は時が止まったかの様に動けなかった。

 

「お前と会うのは、久しいな」


 それ迄、書籍に向かっていた神農は、机の前に置かれた椅子へ向けて、静瑛に手を拱いていた。その姿は、幼い頃に何度か感じた姿だった。干渉に浸りそうになる程に懐かしい記憶が呼び覚まされそうになる中で、静瑛は静かに椅子へと座った。

 来客用に用意されているのか、はたまた、読書の為だけに用意された長椅子なのか、そこら中に乱雑に書籍が置かれたままになっている。

 ただ、部屋の中の埃と黴の匂いと違って、人が使用するであろう身近な場所は掃除が行き届いていた。


「して、お前の用事は、羅燼の妻の事であろう」


 静瑛が核心に迫る必要もなく、神農の口から言葉がこぼれ落ちていた。


「……何故、陛下が匿われているのか。教えて頂けないでしょうか」


 直球だった。目的何だと聞いているも同然で、静瑛も自信が焦っているのだと認めざるを得ない状況だ。それでも、静瑛は止まらなかった。


「羅燼は兄上の従者です。彼の妻を匿うのであれば、風鸚史か皇妃槐に命ずれば良かった筈」


 神農は、反応を示さない。静瑛を真っ直ぐに見据えては、その表情は険しい。考えているのか、既に答えを決めているのか。それとも、静瑛が核心を口にするのを待っているかもしれない。静瑛は、先程感じた懐かしさなど掻き消えた空気の中、唾を飲み込む事すら、億劫になりそうな程の緊迫感を感じていた。

 そう大した時間は経っていないが、神農の次の言葉を待つ時間が恐ろしく長く感じていた。


「匿っている理由に関して言えば、単純に我の勅命で羅燼が夢見であると露呈したも同然だ。こちらで手筈を組むのは当然だ」

「当人の意思も伴わず……ですか?」


 神農はそれまで腰掛けていた椅子から立ち上がると、静瑛が座っていた来客用の長椅子の対面へとむか。姜一族の中でも、特に上背のある神農は、静瑛と比べても大柄と言っても過言では無かった。皇帝として、玉座に座る姿しか拝見する事の無かった姿は、物々しく長椅子に腰掛ける。

 ただの祖父と孫ならば、ここまで重圧を感じる事もなかったのだろうか。度々訪れる緊張に静瑛は、小さく息を整えた。


「羅絮皐は、一年前に兄を亡くしたばかりで精神が衰弱したままの恐れがあります。出来る限り、普段通りの生活に戻してやりたいと考えております。何分、平民に皇宮は負担が重すぎるかと」

「成程、羅絮皐の素性は殆ど出てこなかったが……兄が居たのか」


 絮皐は戸籍を持っていたが、りょう家とは既に縁は途絶え、存在しないも同然だったのだ。


「確かに、あそこは孤独やもしれんな。人を送ろう」


 解放するという言葉だけが無視され、神農の中で完結している。

  

「何故、羅燼に拘るのです。確かに羅燼は夢見として優秀かもしれませんが、兄上の従者とはいえ平民です。陛下ならば叔母上がおられましょう。これ以上、羅燼を深みに招く事は……」

「深みならば、とうに嵌っているだろう」


 静瑛の言葉を遮った神農の目は、鋭さを増していた。


「では、聞くが。お前達は何故、羅燼に拘る」

「友人だからです。兄上は、自らの従者を身近に置きます。私も、その方針にしたがっているまでです」

「それだけが理由か?」


 静瑛の心の臓が跳ねた。

  

 ―陛下は、知っている。


 どこから、漏れた。誰が、話した。どうやって知った。静瑛の頭の中で、様々な考えが駆け巡るが、答えが出るよりも早く、神農は物々しくも言葉を続けていた。


「新たな神子だそうだな。だとすれば、東王父をも凌ぐ夢見である事も頷ける」


 神農は、確信を持って話していた。信じるに値する者からの言葉。そう考えると、神農に燼が神子であると話した人物は、一人しか浮かばない。だが、そんなことはどうでも良かった。誰が話したかなど重要では無くなっていたのだ。

 夢見の妻でなく、神子の妻として皇宮に連れられた絮皐。そうなると、思考は悪い方向へと傾く。


「その神子の妻をどうされるつもりですか」

「何もしない。保護をしているだけだ」


 その言葉の是非も、真偽も、静瑛に判断はつかない。


「羅燼が戻るまで、此方で保護するとだけ言っておこう。他言は無用だ」

「……承知しました」

「人は送る。推薦できる人物はいるか」

「……では、私の従者の妹。朱れいを」

彪豪ひょうごうの孫か……良いだろう」


 朱家と姜家の関係は懇意にある。静瑛は、出来る限り神農にも信頼のあり、静瑛自身も信用できる人物の名を挙げていた。

 静瑛に出来る事は何も無かった。せめて、燼が戻るまで絮皐が無事だと解っただけだ。それ以上の話も出来ず、静瑛は戻ります、と小さく呟くと立ち上がった。

 頭を下げ、無礼を詫びる。扉の前に立ち、今まさに扉を開けようとした時だった。


「……次は、出来る限り手順は踏みなさい。周りが困惑する」


 最後に、何とも祖父の様な言葉を吐いた男は、先程と一転して穏やかな顔をしていた。

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