二十三
行燈の薄明かりの橙色が自然と視界に入ると、見慣れてしまったその色が、鬱陶しくて堪らない。
絮皐の心中など露の程も知らない温かみのある色合いは忌々しいが、灯りを消して暗闇に独り身を投げ出す勇気はないのだ。
帯が、完成してしまった。端から端まで、蔦が描かれ、その時々に鳥が蔦に止まっていたりした、飛び立ったりと様々だ。その鳥をまじまじと見ては見たが、完成した嬉しさは然程湧きあがっては来なかった。
これが完成する前には、燼が気付いて助け出してくれるかもしれない。そんな浮かれた気持ちで作り始めたそれが完成しても、絮皐の状況は何一つとして変化しなかった。抜け出す術も、外部と接触する術も無く、遂にはやる気も削がれてしまった。
枕を濡らしてこそいないが、起き上がる気力も無く寝台に身を預けたまま、見慣れてしまった橙色に変化が訪れるのを待っている。
仕事はどうなったのだろうか。ランは心配していないだろうか。槐様は、この状況に気づいてくださらないのだろうか。
最初の頃は他人の事ばかり浮かんだが、億劫になるばかりだと気づいて、考える事はやめてしまった。
「燼……」
掻き消えてしまいそうな声。幼児の様に身体を丸め、自分自身を抱き締める。だが、その手に力を入れれば入れる程に、身体は小刻みに震えていた。
寂しい。
毎日、世話をしにやってくる女官達には、絮皐の存在は見えていないも同然だった。視界の端に映る、
女官達は命じられているだけかもしれないし、下賎な市井の女と思われているのかもしれない。どちらにしても、その行動が、絮皐の寂寥を際立たせていた。
―まるで、自分は見えていない存在に戻ってしまったのでは無いのか。
絮皐が幼い時に感じたままの事が起こっていた。違いは、此処には父親は居らず、殴られはしないという事ぐらいだ。
七つになって、右目が金色へと変化したあの日……父親が化け物へと変わってしまった日。
―思い出すな!
記憶が呼び覚まされそうになった瞬間に、絮皐は瞼を強く閉じて、その手に持っていた帯を握り締めた。
「燼……」
呟いても現れない男の名前を何度口にしたのだろうか。それでも絮皐にとって、その男を思い出す事と男を想いながら作業に勤しむ事だけだ囚われている事実と苦痛を和らげる薬だった。しかし、薬とは服用を続けると効果が薄くなる。
想いだけで、寂しさを紛らわすのも限界だった。
「燼……早く帰ってきて……」
――
――
――
「見つからないってどう言う事だ」
空は薄暗く、夕陽が沈んだ頃合い。荒だった声が行燈に照らされた執務室に響いた。人手不足の上に父親の警告を無視して面倒事に足を突っ込んだままの鸚史の剣幕は、今にも怒りを曝け出しそうな程だ。栄補佐を除いて皆目の前の書簡に取り組むふりをしていた。
栄補佐官も内心気が気でなかったが、その怒りのままに暴れる人物でない事だけは重々に承知していた。
だからといって、業魔を相手どれる人物を前に恐怖が芽生えない訳では無い。
出来る限りに平静を装いながら、鸚史へと言葉を返していた。
「……私が立ち入れる範囲で怪しい場所は確認しました。ですが、それらしい人物は見当たりません」
「牢に囚われちゃいねぇだろうな」
「念の為調べましたが……」
栄補佐が入れない場所。それは皇宮の奥深く、皇帝宮や六仙や皇族だけが立ち入れる場所……という事にもなる。そうなると、鸚史には手も足も出ないのだ。
この件に関わった三人が絶対に口にしないのも頷ける。
「(祝融に報告しようにも、絮皐が居なくなった事実しかない)」
報告した所で、問題は解決しないだろう。場所が場所なだけに、粗探しも出来ないのだ。
頭を掻き毟り、思い通りにいかない事が鸚史を苛立たせていた。
外の仕事が無くなったが、その分、中の人員は減っている。その上、面倒事を抱え、その面倒事が更なる問題を呼ぶ。栄補佐の目から見ても、鸚史の疲労は溜まっていくばかりだ。それが更なる苛立ちに繋がっているのだから、栄補佐もこれ以上、問題に首を突っ込んでばかりもいられなくなっていた。
「左丞相の言葉通り、今はそっとしておくべきでは無いでしょうか。事を荒立てるだけやもしれないのですよ」
栄補佐は出来る限りの言葉を選んでいた。問題の中心人物に危害を加える事はないのだからと、諭しているつもりでもあったのだ。鸚史もそれは理解しているのか、栄補佐に向ける目線は落ち着いたものへと戻っていた。
ただ、納得はしていない。
「……赤の他人ならな」
妹が気に掛けている。鸚史が動く理由としても十分だったが、友人が大切に扱っている伴侶なら尚の事だった。これで嫌悪していない相手なら、もっと良かったのだが。
それ以上に、『夢見の女房を匿う』という皇宮の誰かの行動が気に掛かったのもあった。
確かに人質としては有効だろうが、それなら皇宮が保護していると大っぴらに発言すれば良い所を、密かに保護したというのが気に食わなかった。
「(皇宮が燼を利用する為に動いている可能性も捨てきれん)」
その可能性排除出来たのなら、鸚史も目の前に積まれた書簡に勤しんだ事だろう。
徐に、溜息を吐いた時だった。
「鸚史、問題が起こったとか……」
扉を開けるなり、優男の顔が鋭い剣幕で立っていた。背後に見慣れた赤髪の男を引き連れ立っていたが、書簡に埋もれた部屋を見るなり、頭を右へ左へと動かしては部屋全体を眺めて言葉を失っている。
「静瑛、戻ってたのか。其方で話す」
そう言って、来客用に用意された部屋を指差していた。
「忙しいから、茶は出ねぇぞ」
「構わない」
鸚史が静瑛と飛唱を連れ立って隣の部屋へと移動し、椅子に腰掛けるなり鸚史は姿勢を崩していた。
「酷い有様だな、大丈夫か」
疲れた様子の鸚史に静瑛は思わず吹き出し笑いそうになって軽く口を抑える。背後に立つ飛唱も慣れた人物だからと気を抜いて顔を背けて笑っていた。仕事は真面目に取り組むが、不真面目姿も知っている静瑛からしたら、着崩し身嗜みも気にしていない様子の鸚史の姿からも仕事に忙殺されている様が見てとれる。その姿が、妙に琴線に触れてしまったのか、珍しくも真面目な男が肩を震わせている。
「そう思うなら手伝ってくれ。お前なら出来るだろ」
笑いを堪える男を前に、笑えない状況を抱えた男は、役に立ちそうな男を逃すまいと本音を述べた。静瑛は教養がある。元々文官になる事を望まれた男だ、これ以上の人材はいない。
獲物に狙いを定めた男を前に、静瑛はこれと言った予定もないため、軽口に答えていた。
「左丞相の許可が降りればな」
言質は取れた。鸚史は崩していた姿勢を戻すと、これ以上無い協力者を得られた事で少々やる気も戻るが、その前に、問題が先だ。
「……それで、どこまで知ってる」
「燼に勅命が降った話と、絮皐が行方知れずという話は槐から聞いた」
話は十二分に伝わっている。となると、足りないのは鸚史が抱えている情報だけだった。
「居所も誰が中心人物となっているかも分からん。だが、居るとしたら探れん領域だ」
「それは、私にも入れない場所だろう?」
「あぁ……」
静瑛は顎に手を当て考え込む素振りを見せながらも、その目に迷いはなかった。
「鸚史、お前は誰が主犯か分かっているな?」
その問いに、鸚史は答えるか迷っていた。迷ったところで、静瑛も同じ人物が浮かんでいるのだ。
「……正直言って、六仙の誰が相手でもお手上げだが……左丞相に命じる事ができ、尚且つ左丞相が何の迷いなく行動を起こせる人物など一人だ」
その解答に、静瑛は目を伏せ悩むも、何かを決意したかの様に再び目線を鸚史に向ける。
「……相手が陛下なら、手段がある」
静瑛の決意は聞かずとも鸚史は察した。だが、無謀にも程がある。
「おい、身内だからって、容易に会える相手じゃないだろう」
皇帝宮は、外宮とは繋がっていない。皇孫は皇族と認められてはいるが、成人すれば、孫と言えど面会には手順を要求される。拒否されたなら、それで終わりだ。何より、時間が掛かる。
「面会請求して何日掛かる」
「……早くて、一日。遅くて、三日。だが、手順を踏むつもりは無い」
「は?」
真面目で、礼儀作法に何かと煩い男が、普段なら踏襲する様な事を軽々と言っている。鸚史も、流石に返す言葉を失っていた。
「皇宮にいるのだ、直接会いに行ってくる」
「馬鹿か、いくら皇族でも処分が降る可能性もあるぞ」
「内密に事を進めたいのなら、面会に応じてもらえる可能性もある」
「博打かよ、らしくねえな」
その言動は、兄を思わせる。勢いで、事を進めようとする男を、いつもなら弟が諌めるはずなのに、その弟が無謀を率先して行おうとしている。
止める者が居なくなってしまった。
「おい、飛唱止めなくて良いのか?」
背後で控える従者だが、静瑛が何を言おうとも落ち着いている。
「この様子ですと、止めても行ってしまわれるのでしょうし。それに、私も気になる事がありまして……」
少々、言い辛そうではあったが、この場で迷いを生む発言は出来ない。鸚史が言ってみろと言うと、飛唱は、以前燼に質問された事を思い出していた。
「絮皐です。どういった様子かは知りたく思います」
「理由は」
「以前、燼に聞かれたんですが……泣きじゃくる人物を慰める方法を聞かれまして。誰かを慰めた経験が無いから、どうしたら良いか分からない……と」
ある意味で、燼らしい問いだった。燼は、幼い頃から周りに大人ばかりで、燼自身もそう言った経験がないのだろう。実際にそういう人物に出会ってしまった時に、何をしたら良いかは想像がつかなかったのだろう。
ただ、その相手が絮皐と言われても、今一つ納得は出来ない。
「それが、絮皐だって?」
「かもしれないという話です。もしそうなら、精神状態が気に掛かります」
「……成程な」
あくまで、飛唱の憶測だ。が、ある日突然皇宮に連れていかれ、軟禁状態になっているならば、元々精神が不安定でなくても平民として過ごしてきた絮皐に耐えられるかは疑問だ。
「なら、迅速に動くべき……か」
「そうだな、行ってくる」
「今から行く気か!?」
既に、
「まだ、本城の執務室にお見えかもしれない。最悪、皇帝宮に面会を申し込む」
言葉を口にした瞬間に、静瑛は立ち上がった。
迅速に動くと言ったのは確かだが、些か勇み足にも見える。
「本当に大丈夫か?」
「偶には、私も役に立たないとな」
そう言った男は、従者を引き連れ颯爽と客間を後にしたのだった。
静瑛には見送る事しか出来ず、そうなると、後は任せるしかなかった。
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