二十五

 ぐつぐつと鍋の煮立つ音だけが厨房で鳴っていた。

 いつもならそこでは、厨房を任されている料理人が慌ただしく動く場所だ。今は、使用人は寝静まり、月明かりを頼りに釜戸に火を起こした男は、大鍋一杯の熱湯を無言で見詰めている。

 殴られ続けて気力など失せ消えた少女は、その男を厨房の床で転がりながら見ている事しか出来なかった。竈門の明かりが、少女に温かみを持たせるが、同時に恐怖も呼ぶ。パチパチと燃えたぎるその上で、ぐらぐらと煮立つ鍋の中身は、一体何に使うのだろうか。

 動かぬ身体では逃げる事も出来ない。

 少女は、その鍋を無言で見つめ続ける男が、何を考えているか……想像したく無いのに、恐ろしい事ばかりが浮かんでいた。

 そうして、男は熱され続けた鍋の取手を素手で握る。

 肉の焼ける音と匂い。

 それの出処である男は、無言で鍋を掴み続けている。そして、その鍋を持ち上げると、男は少女へと近付いていた。


 鍋の中の熱湯は、火を離れても尚、ぐらぐらと煮立っていた。


 ――

 ――

 ――


 身体が揺れている。いや、揺すられている。肩に力強い手が当てられ、強引な程だった。

 その揺れが、絮皐を夢から引き戻していた。無理矢理起こされると、夢から意識を現実に戻すのが遅れてしまい、絮皐は状況が掴めていなかった。

 燼が起こしてくれたのだろうか。一瞬、そんな考えがちらついたが肩に当てられた手が少々小さい。どちらかといえば、女を思わせる手に、絮皐は薄らと目を開けていた。


「起きた?大丈夫?」


 ぼやけた視界に、赤髪が映った。見覚えのある色だが、聞き慣れない声に、不明瞭だった視界が次第にはっきりとしていく。


「……えっと」


 完全に目覚めはしたが、矢張り赤髪の女に見覚えがなかった。


「すごい汗ね、取り敢えず着替えた方が良いかな」


 そう言った赤髪の女は、勝手に箪笥や衣装棚を漁っている。小慣れているのか、動きやすそうな衣を取り出しては、起き上がりはしたものの呆然と寝台端に座り込んだ絮皐に当てては楽しげだ。


「これにしましょ」


 そう言って、何も言わないのを良い事に、上から下まで、色合いから髪飾りまでの全部を決めていた。


「あ、着方分かる?」

「……分かります」


 絮皐よりも身の丈が低いが、幼くは無い。身体付きはしっかりしていて、話し方も軽い人物は、それ着てねとだけ言って、寝所を出て行った。

 自己中心で自分本位に動く絮皐から見ても、いっそ清々しい姿だった。寧ろ、気兼ねなく接してくれるその様が、心地良いくらいに。


「(こんなのがあったのか……)」


 絮皐は汗を拭うと、赤髪の女の言う通りの服へと着替えた。まだ陽は昇ったばかりで少々肌寒い。肌を摩りながら寝所を出ると、赤髪の女は既に客間で寛いでいた。そこら辺にあった書籍手に軽く読んでいるのかと思えば、絮皐の姿に目を上げた。


「うん、似合ってる」

「えっと……」


 状況は分からないままだった。絮皐の戸惑う姿に、赤髪の女は、取り敢えず座ってと長椅子の隣を叩いていた。が、流石に初対面で隣に座るのは気が引けると、向かいに座ると、これといって赤髪の女は気を悪くする様子もなく、朗らかな顔をして見せていた。


「私は、朱黎と言います。今日から暫く此処に居ることになった……で納得してくれるかしら?」

「朱家って……雲景様とかの?」

「そう、雲景は私のまた従兄弟。飛唱は兄ね」


 そう言って、満面の笑みを浮かべる顔は、名を挙げたどちらにも似ていない。ただ、彩華を思わせるしっかりとした身体つきから、武官を思わせた。

 

「でも、急にどうして?」

「貴女を此処から出そうとしたんだけど、手が出なかったみたい。で、せめて心細く無いようにって事で私が来たの」


 絮皐は思わず目が潤んだ。立場を考えても、誰かが手を貸してくれないのではと浮かんでいた。だが、違った。勿論、燼が積み上げてきた物があるからこそ尽力してくれたのだろうが、その一員として考えられている事が、素直に嬉しかったのだ。

 

「私が此処に居る理由は、知ってますか?」

「ごめんなさい、私に詳細は伝えられていないの。聞いている事は、私も此処から出られなくなるって事ぐらい」

「……じゃあ、此処が何処かは?」


 その言葉に驚いたのは、朱黎だった。目を見開き、自らの立ち位置を知らないにしても場所が分かっていない事が、あまりにも不自然だった。  

  

「……此処が何処か、知らないの?」


 絮皐は、素直に頷く。


「此処は皇帝宮の最奥。何に使われていた建物かは知らないけど、客人を迎える離宮ってところかな」

「皇帝……宮って……要は……」

「皇帝の住んでる家。正確には、此処は皇帝宮の敷地の中にある離宮ね」  


 皇宮の何処か程度には理解していたが、自分が皇帝の宮にいるなどと思っていなかったのか、唖然としていた。


 ――   


 久しぶりの誰かとの食事だった。女官達は、朱黎の姿に驚く事もなく相変わらず無関心に仕事だけをこなし、食事の用意だけ済ませるとそそくさと出て行ってしまう。朱黎がいなければ、絮皐には虚しい光景だったが、今日ばかりはただの景色と化していた。


「すごい量ね」

「本当に。この一皿ぐらいで良いのに」


 絮皐が指差したのは、饅頭まんとうが三つ乗った皿だった。まだ蒸し上がったばかりで、湯気が上っている。中身は何も入っていない。    


「せめて、この野菜炒めはつけて。朝から肉はいらないけど、訓練があるからそれだけじゃお腹空いちゃう」


 他愛もない会話だったが、絮皐には仕事場を思い出させる。明朗な人物は、今居る場所と状況を忘れさせてくれていた。

 だが、完全には忘れる事は出来ない。朱黎も、自分が出れないと言った事が気に掛かった。女官と、自分達の違いは何だろうか。そんな疑問が、絮皐の中に浮かんでいた。

 そうして食事も終わると、女官と顔を合わせないように、お茶と饅頭だけ持って居間へと移動する。どうせなら、好きにしようと、朱黎が先導していた。

 小さな二人がけの円卓に、二人が腰かけると絮皐は浮かんだ疑問を口にしていた。

  

「何で、出れないんだろ……」


 その答えは、あっという間に返ってきた。


「この宮が、封じられているから」


 独り言にも近く、朱黎が答えてくれるとは考えてはいなかった。朱黎の答えは淡々としたものだった。さも当たり前と何気無しに答えている。

  

「封?」


 平民として生きてきた絮皐には、耳慣れぬものだった。

  

「……貴女は、見た目人だけど……龍なのよね?」


 絮皐は頷いた。絮皐に自らの正体を明かしてはならないと言った人物も、朱家の者だ。  


「封印術の事はよく知らないけど、対象を限定できるのかも。貴女が龍なら、私と貴女だけが出られない理由も納得出来るし」


 朱黎は、絮皐にも解る様に説明しようとしてくれているのだろうが、矢張り何を言っているのか、小難しい。とにかく、出れないという事なのだろう。

  

「他に聞きたい事ある?」


 もう何日も、閉じ込められたままの絮皐にとって、何よりもありがたい申し出だったが、最初に浮かんだ事は、矢張り夫の事だった。 

  

「……燼は、帰ってきたのでしょうか」

「まだだと思うけど……今回は勅命を受けたって話だし、いつ帰ってくるかも分からないんじゃないかしら」

「勅命って?」

「皇帝陛下から直々に命令が下る事」

「……知らなかった」


 絮皐は一瞬止まってしまった。皇都に住んではいるが、皇帝と言う言葉を一日に何度も聞く……それどころか、関わっているという話をする機会も無い。平民には遠い世界の住人でしかないのだ。 

 

「朱黎様が選ばれた理由は?」


 皇帝の命令なのだろうか。何気無く呟くと、朱黎も何気無く返していた。

  

「静瑛殿下の御命令なの。私を指名してしまったから行ってくれって」


 絮皐は、てっきり槐が主導していると思い込んでいた。静瑛という名が、祝融の弟であり、皇孫殿下であるとは知っているが、その程度だ。


「正直言って、丁度良かったの。姉様の相手が嫌になってた所だし」


 まるで、家で少女の様な事を言う。

 むすっと膨れ面を見せるものだから、余計にそう感じるのだろう。その膨れ面の主は、明朗な顔に戻ると、


「せっかく時間もあるんだし、おしゃべりしましょ。こんなに時間があるなんて、私も久しぶりなの」


 と、まるで、この時間を楽しむ様に悪戯に微笑んでいた。

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