二十一
しとしとと雨が降る。
雨雲が本格的に空一面に広がってからというもの、移動がままならない。燼は、宿の三階の木窓から外を除いていたが、次第に本降りになると雨が部屋に入り込んだ。
皇都を思わせる都。丹省端、丹省、雲省、柑省、菫省の四つの省境付近にある為か、其々の省の影響を受けつつ、交易も盛んとあって街並みは華々しい。
この街は、四つの省を行き交う商人達の手によって作られた街とも言われている。各省の貴族が支援し、段々と大きく皇都程に成長した街。その一角にある楼閣は、上級貴族向けの宿がいくつかある。街を一望できるその宿は、本来なら露台から見える見晴らしは格別だろう。
しかし、向かう先の山を見ればカツラを被った山の上は嵐と見間違う程の雨量に、視界は途絶えている。
急いではいるが期限が決められてはいない旅程だ。暫し、足止めとなった。
「こんな時は、鸚史様となら博打に行くんだけどな」
行燈の薄明かりが照らす宿の一室で、貴族の子息がとんでもない発言をさらりと述べる。同じく雨で暇を持て余していた同室の軒轅だが、寝台で寝そべり天井を眺めている事にも飽きたのだろうが、流石に勅命の最中に博打なんて度が過ぎている。
燼に賭博の経験はなかった。鸚史に連れていかれそうにはなったが、妓楼よりも面倒事が待っていそうで徹底して断りを入れていた。
その断りを軒轅も知っている筈だが、横目にちらりと燼を見ている。
「……行きませんよ」
「なんだよ、固いな。嫁さんがいても行く奴はいるぞ」
鸚史本人の話だろうか。彼に関しては、妻を大切に扱っている場面すら見た事も無いのだから、何の当てにもならない話だ。
「絮皐は関係ありません。嫌いなんですよ」
窓を閉め、燼はもう一つの寝台に腰掛けると、軒轅をじっとり見ている。その目は、失望の眼差しだ。聖人だから、真面目だから、どの経緯が邪魔をしているかは知れないが、軒轅が燼を賭博に誘うと必ず見せる顔だ。断られる事が分かっていても、軒轅は引き下がらない。
「それに、こんな雨で歓楽街まで行く気ですか?」
「言ってみただけさ。そんな睨むなって」
軒轅が天井に目を戻すと、燼も同じく寝台に転がった。寝るにも早いが、やる事が無い。雨でも降らなければ、ゆっくりする時間も無いのだが、気にかかる事がある今、余計な事を考える時間が苦痛になる。気を紛らわすか、愚直に正面切って腹を打ち明けるか。軒轅が取った手段は、気を紛らわす手段だったが、持ち掛けた相手に簡単に打ち砕かれたのだ。
気休めの手段が消え、沈黙が続くと雨音が次第に煩く感じる。そうしていると、次第に空の彼方から雷鳴まで轟き始めたのだ。本格的な嵐の始まりに、思わず二人の目は見えない外へと向いている。
全ての雨戸は閉めてしまったのだから、隙間のないそこには、雨音がぶつかる音だけだ続いているだけだ。
「(こりゃ、駄目だ)」
先に根を上げたのは、軒轅だった。身体を起こし、寝台の上に座ると燼の寝転がっている寝台に身体を向けた。
「なぁ、燼。阿孫殿下の様子……どう思った?」
真摯な眼差しを前に、燼は寝そべったままだった。ただ、小さく「あぁ」と反応を示しただけで、反応は薄い。
「……それは、心配しなくても問題無いって事か?」
適当な反応しか示さない燼に、軒轅はただの勘違いかと、念の為に今後の支障を聞いただけだった。
「本人次第じゃ無いでしょうか」
意図の読めない言葉に、軒轅は喰って掛かった。燼の口調の冷淡さが、不安を煽り立てている。
「そりゃどういう意味だ」
「……経過観察ですかね」
そう答えた燼の目は、雨音が響く窓へと向けられていた。真面目に答える気がない反応に、流石の軒轅も苛つきが露わになる。今にも青筋だちそうな表情のままに、燼が寝そべる寝台へと近づいた。その間も、燼は軒轅に目を向けない。まるで、夢見の目で別の何かを見通そうとしている最中の様だが、楼閣の三階でいったい何処の何を見通せるのか。高級な綿の入った布団に浮かれる柄でも無い筈だ。貧乏性、無欲、凡そ聖人と讃えられる者達が、そう称されるかは知らないが、燼は正しく、聖人だという事を軒轅もよく知る。
だが、今はどうだろうか。軒轅は、燼の口から「問題ない」という言葉が返ってくる事を期待していたのだ。たった一言、その聖人らしき人物が、他の聖人と讃えられる人物と同じ能力で安心させてくれたなら、どれだけ良かった事か。
軒轅は、ただ燼を見下ろした。
燼が真の神子ならば、その言葉は神言である。何も言わない事、それにもまた、意味がある。
「(知らない方が良い、それとも、知る必要は無い……どちらだ)」
燼の主人ならば、命じるだろうが、軒轅はその立場にない。黄家という立場を使えば、燼は従ってくれるだろうが、それは軒轅が嫌悪するものだ。お互い友人と口にした事こそ無いが、良い関係を築けている状態を瓦解させたくもなかった。
「軒轅様、不審を感じたのなら、警戒は怠らない方が良いでしょう。俺は、そう教わりました」
意味は、自身で考えろという事なのだろう。
『常に思考を止めるな』
これは、鸚史だけでなく、祝融、静瑛共に口にする言葉だ。誰かに判断を託すだけでなく、自らも考え続けねば、何が異常かが判断出来なくなる。
燼の言葉と、先達の言葉。軒轅に求められるのは、考え続ける事だった。燼に助言や答えを求めるのではなく、違和感を感じた今、何かが起こっていると考え続ける事。
それが必要なのだと。
軒轅は、静かに息を吐くと再び自分の寝台に寝転んだ。燼は、自らの口から言葉をする事を避けている。
そこに意味を求めるなら、神子としての言葉に力を持つ事を恐れている……それが可能性と考えた。
今出来る事があるとすれば、事が起こる可能性を憂慮して休養するぐらいだった。
だとしても、暇は消えてはくれないのだが。
軒轅は、上等な綿布団に転がしていた両手に力を入れると、もう一度上体を起こした。
隣の寝台え寝転ぶ男の目線は、矢張り、外に向いたままだ。寝息は聞こえない。眠ってはいないのだろうが、一体何を考えているのだろうか。
「……嫁さんの事でも、思い出してるのか?」
沈黙に飽きた軒轅が、冗談混じりに投げた言葉だった。暇潰しの会話程度にしか考えていなかったのだが、思いもよらず、燼の肩がピクリと揺れた。
これはもしや。軒轅の顔はニヤつくと、先程の怒りなど忘れて、口は滑らかに動いていた。
「なんだよ、手、出したのか?」
面白半分の言い方に燼は何も返さない。「出す訳ないだろ」という答えが、返ってくると考えていたのだが、燼の肩が再び小さく跳ねる。
そして小さく、「出した」とぼやく様に白状した。そうなってくると、聖人は何処ぞかへと消えて行く。
「いや……だって……」
「だって、何だよ。手、出さない約束だったろ」
軒轅は絮皐と、鸚史の事がある手前、極力関わってはいない。ただ、燼から聞く人柄に、悪人では無い事だけを認識していた。
記憶の中の女は火傷の痕は目立つが、器量は悪くなかった。ただ、龍ではあったのだが。
「(戸籍上は人だから燼と結婚できた筈だけど、肉体関係は良しとしないのでは……)」
それで生まれた人物と考えられている訳だが、それにより母親は死んでいる。行為自体というよりも、その結果に事を知っている龍達が恐れているのだ。
「……燼、一応聞くけどさ……」
聞き辛い事ではあるが、手を出したという事を考えると可能性もある。しかし、軒轅が言い終わるよりも速く、燼は何気なく言葉を返していた。
「大丈夫ですよ、俺は子を残せませんから」
「……え?」
思いもよらない解答に、軒轅は固まった。
「(……神子は戸籍がないんだったか)」
本来なら、神子は婚姻関係を結べない。その存在が見つかると同時に、神殿へと招かれ戸籍を取り上げられてしまう為である。
神の子と人が、同じ籍である筈が無いのだと。
だからと言って、神子も人から生まれる。経典の通りならば、
『神は人の胎を介して、子を現世へと送り出す』
となっている。要は、人だ。その見目と特異な能力によって、神格化を示唆されているが、人から生まれるならば、その肉体は人という事になる。
なのに何故、燼は、はっきりと言ってのけたのか。
「神子の戸籍は、本来、仙籍と言うらしいのですが……あまり使われる事はないのだとか」
戸籍が別れている。それは、人と龍にも言える事だ。龍と人の戸籍が別れている事には意味がある。
龍と人は子が成せないという事が前提としてあった為だ。絮皐は珍しい例として隠匿される事となったが、本来ならあってはならない事だ。
それが、仙籍というものにも当て嵌まるのなら……。
今も、寝台で転がる男は身動ぎ一つせず、見えない外へと視線を向け続けている。
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