十九

 丹の夜は、寒い。春と言っても、皇都の冬を思い出す寒さの中、阿孫は一人与えられた客間で一人椅子に座っていた。赤を基調としたその部屋は、阿孫には馴染みがあり、居心地は悪く無い。

 窓を開け放ち、月明かりと共に冷気までもが入り込む部屋の片隅、窓辺に置かれた卓を二対の椅子が置かれていた。阿孫の向かいに座るのは、共に軍命でついてくる事になった従卒の朱浪壽ろうじゅ。朱家らしく大人く従順な男だが、今は静かに酒とつまみに舌鼓を打っている。

 良い酒だと諸侯の賢俊が言っていたのだから、その味に間違いは無いだろう。だが、阿孫は久しぶりの丹の酒だと言うのに、あまり進んではいなかった。

 小さな杯を手のひらで転がしながら、阿孫は数日前に見たものを思い起こしていた……正確には、を見た日から思い出さない日は無かった。

 悍ましいものを見た。阿孫は、燼の夢を見たあの日から、玉繭の姿が頭から離れなかった。その姿と言うよりは、その気配だ。

 陰の気配と言ってしまえばそれまでだが、妖魔とも業魔とも違う気配。


「(俺は、あの気配を知っている)」


 記憶の中の、何処かにある。

 幼い頃の朧げな記憶、二百年を超えて生きてきた中の曖昧な記憶。そういった感覚とは少し違う。何処かで感じた気配の感覚だけは覚えていて、その時の記憶がすっぽりと抜けているのだ。

 あれだけの悍ましい感覚を忘れる事など無いだろう。初めて業魔と戦った時も苦心こそすれど、恐れは無かった阿孫にとって、有り得ない事だった。

 記憶が消え去る感覚に、阿孫は手で遊んでいただけの杯に酒器を傾けた。満たされた中身を見つめるだけで口にはしない。


「(俺は、どうなっている)」


 ただ杯を見つめるだけ。誰が見ても、その姿に違和感を持っただろう。阿孫の目の前に座る浪壽も又、その姿に不安を覚えていた。


「阿孫様、どうされました」


 月明かりの中、阿孫の表情は暗がりに翳っている。


「いや、何でもない」


 そう言って、ただ見つめるだけだった酒を舌で味わうこともなく喉へと流し込む。気を紛らわせる様に、もう一杯と杯を満たすが、また感覚が戻って来る。


「何か悩みでも?」


 従順な浪壽に不安は募るばかりだった。弱々しくはないが何かに迷い思い悩むばかりで口にしない。


「(祝融様と久しぶりに顔を合わせられたからか?それとも神子?それとも……)」


 思い当たる節は幾つもあった。兄弟仲は最悪だ。浪壽の記憶にも祝融の幼い頃こそ弟として可愛がっていた記憶があったが、祝融の業魔討伐意向は一歳関わろうともしなくなった。浪壽も側でその様子を見ていた。歳は離れていたが、仲の良い兄弟が一変した姿が今でも心苦しままに浪壽の中には残っている。

 浪壽は酒を飲みながらも、今も杯を見つめるだけの男を見た。どう見てもおかしい。


「(明日は不周山。特に何も無いとは思うが……)」


 羅燼の勅命は、あくまで調査だ。そして、軍務は、事が起こった場合の対処と羅燼の動向の監視。

 神子と同等にも近い力を持つ夢見を引き抜く話もあるが、お目付役を連れてきた上に、神子も羅燼の側にいるか、狙っているとなると、まあ上手くはいかないだろうとは考えていた。がどうにもその通りになったのか、阿孫はけろりとした表情の上に、きっぱりと断られてしまったと阿孫は平然と言ってのけたのだ。


「(燐楷りんかい様への報告を悩んでいるだけなら良いのだが)」


 太尉、姜燐楷。軍の最高責任者であり、阿孫の伯父でもあるその男は、右丞相である弟の桂枝が庇えば庇う程に、甥出る祝融を敵視する傾向にある。以前にあった、郭彩華の引き抜きも、嫌がらせに近いものだった。今回も、半分はそれだと思うが、神子に次ぐ夢見の力を欲しているのもまた事実だろう。祝融のその割には、断られた事に関してあっけらかんとしていた。そして、今も悩んでいると言うよりは、身が入っていないという方が正しいと思える程に、茫然としている。

 だが、三杯目の酒を喉へと流し込んだ阿孫は杯を置くと静かに言葉を溢していた。


「浪壽、明日は雨でも降らない限りは移動だ。いつまでも俺に付き合っている必要はないぞ」

 

 そう言った男は、今も満たされた杯を見つめている。


「では、阿孫様も早めにお休み下さい」

「あぁ、そうしよう」


 話をしてくれないのなら、此処に留まり心配していても、明日に影響するだけだ。浪壽が出来ることは、明日以降、何事も起こらぬ様に願うだけだった。


 ――

 ――

 ――


 そして、翌日。

 紅砒城を立ち、一行は不周山山頂付近にいた。


「ここも同じです。他と何も変わらないな」

「同意です。不変性が無く、まるで同一体にも見えます」

「一個体だと?」

「あくまで可能性です」


 二人の会話は変化を求めている様にも見える。


「一個体って言うけど、元々夜の異形は一つだろ?」


 そんな二人に割って入ったのは、燼の横で見ているだけだった軒轅だった。思ったままを口にしただけだったが、燼は頷くも、あくまで可能性だと返した。

  

「それでも、五つに分かれたのなら、別個体の可能性もあるだろ?」


 さっと答えた燼に加え、鋭い目つきの神子華林も続いた。

    

「封印が邪魔して、夢の側からこれらは見れません。出来る限りの可能性を上げなければ我々が此処にいる意味は無いでしょう」

「まあ、そうなんですけど」

「夢の側から見れたなら、四体を同時に見る事が可能でした。今できる事は、四つの封印の地で同一現象が起きているか、同時に、今ある可能性を列挙する事ぐらいです」


 神子華林の口調は、その目と同じく鋭い。棘のある言葉に、邪魔をするなと言っている様にも聞こえる。白銀の髪色があるお陰で神子とわかりやすいが、その眼光だけ見ていると、女武官すら思わせる。

  

「あと一箇所……この調子だと、同じものがいるだけでしょうか」

「現段階では、恐らく」 


 二人が次に移動を開始しようかと話し始めた頃、阿孫に僅かな変化があった。二人の話し声が遠くに聞こえ、今ひとつ集中できていない。辺りは、静かで木々が揺れる音がやたらと耳に響く。葉が擦れる細かい音までが聞こえ始め、それは次第に騒音になる。徐々に、徐々に音は大きくなり、音に変化が生まれる。変化した音は、太く重い音へと変わり、次第にそれは鼓動にも似た音になっていた。

 その瞬間に、再び脳裏に、あの玉繭の姿が浮かぶ。


「(の気配がする)」


 夢で見た、玉繭の気配。目では見えないが、確かに足下に何かいる。姿を思い出したからか、気配を感じた気でいるのか、ただの記憶を呼び覚ましただけなのか、鼓動は耳の中で気配の存在を明示し続けているかの如く、未だ鳴り続けている。


「……さま……阿孫将軍!!」


 鳴り響く鼓動に混じって、浪壽の声が届いていた。阿孫の中でだけ、聞こえていた音は消え、木々の音も元に戻っていた。呆然とする阿孫の前に、心配げな従卒の顔だけがある。


「阿孫様、どうかされましたか?」


 浪壽が大きな声を出したからだろう。周りの全ての目が阿孫へと向いていた。


「すまない、少々考え事をしていた」

「阿孫様、矢張り……」 


 そうは言っても、浪壽は心休まらない。昨日からの様子が、に影響を受けているとしか思えず、浪壽は口にしようとするが、阿孫の形相に思わず息を飲んだ。


「俺は問題ない。後は高麗山だけだ」


 その目は、暗く深い闇でも宿しているかの様に冷たく、信頼する従卒へと向けられていた。 

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る