十七
鸚史は、引き受けた面倒事……もとい、頼まれ事を早々に片付けるべく動き始めた。
手の内に探らせると、役人の容姿は多くの者が目撃していたため、容易に割り出せた。二人の役人を辿り、馬車を割り出し御者も探す。はっきり言ってしまえば、簡単に行き過ぎたのだ。槐は恐らく、絮皐を連れて行ったとなるとそれなりと予想して鸚史に依頼したのだろう。あまりの呆気なさに、鸚史は頭を捻っていた。
そう、呆気なさ故に、問題も浮上したのだ。
下級役人に御者、どちらも九官府に勤める者で、しかも同じ丞相府。更には、その三名は鸚史を前にしても尚、何も知らないのだと訴え続けている。御者はともかく、二名は鸚史も顔を知っていた。同じ丞相府なだけに何度かすれ違った程度だが、見覚えがあったのだ。
左丞相の子息を前に、内心は気が気でないだろう。気まずさから、三人の顔は脂汗が滲み蒼白としていたが、それでも話さない。
それはつまり、鸚史よりも上の者が口止めをしているのだ。鸚史などよりも、もっと恐ろしい誰かが。
鸚史は客人ではないが、執務室の隣の客間で目の前に大人しく座る件の三名を前にして、ぎろりと睨む。どうにかして口をわらせたいが、口が硬い。
金で釣るか……そんな邪な考えに行き着きそうな頃だった。許可もなく扉が開いたのだ。鸚史は思わずそちらに目が行く。扉の前には、栄補佐を立たせて置いた筈なのに、何故。
現れた人物を前に、鸚史の思考は一瞬、止まってしまった。
「鸚史、この件から手を引け」
降り注いだ声と共に、その三名を庇う様に部屋に入ってきたのは、左丞相だった。三名が知らぬ存ぜぬを決め込めたのは、指示した者が鸚史よりも上と分かっていたからだ。
いつもと変わらぬ無表情、というよりも、冷淡に心情を微塵にもその目に表さない男は、まるで感情を生まれ持って来なかった様だ。その男……父親は、右丞相の奥方の件があり、右丞相が感情に引っ張られている今、激務に追われている筈なのに微塵に疲れている様を見せない。
この男が手の内を探られたとなれば容易に気付くのも頷ける。だからといって、鸚史も引き下がる訳にもいかなかった。
「……捕らえられた女は、私の友人の妻です。父上は何処にいるかご存知で?」
「知っている。だが、今、お前が知る必要は無い」
腹の立つ言い方だった。既に事は決まっていると、入り込む余地すら与えない。
鸚史は父親には絶対服従であると幼い頃より教わってきた。情のない言い方に含みを探るのも無意味だ。何とかこの男に追いつこうともがいても、蹴落とされる。後継に選ばれても尚、父親の存在は遠かった。
「では、女は無事でしょうか」
「危害を加える予定は無い。これは保護だ」
それは、誰かが絮皐に危害を加える恐れがあり、先回りに保護をしたという事……なのだろう。
「……先手を打ったと?」
鸚史は見下されながらも、思考は止めなかった。既に誰かが動き始めている。だから、父親は動いているのだと。ただ、その先の利益が見えて来ない。
「風家で保護する理由は何ですか?そもそも、初めから槐に、一言告げれば済んだはず」
あまりにも、分かり易い。まるで、風家が主導していると言っている様なものだ。その思考が浮かんだ瞬間、鸚史は目を見開き、父を見た。
「(目を、此方に向けさせるのが目的か)」
あたかも、左丞相が保護している様に見せかけ、実際は全く別の人物が保護をしている。誰かと共謀しているのは確かだが、その誰かを左丞相が口にする事はないだろう。
「(右丞相ではないのは確かだが……)」
鸚史は、ちらりと父親を見るも、相変わらず冷淡な男は、眉一つ動かさず息子を見下ろすだけだった。
――
――
――
壁がある。玄関口の入り口を開け扉の向こうへと抜け出そうとしても、見えない壁が絮皐の目の前にはあった。ペタペタと手のひらで触ってみるも、冷たいとも暖かいとも言えず、目に見えない壁としか表現出来ないものが、絮皐を遮っている。
それは、玄関口だけの話では無かった。窓も、別の入り口も、外へと通じるものは全てが、見えない壁によって閉ざされていたのだ。にも関わらず、外から人が入ってくる。そして、用事が終わると出て行く。
絮皐だけが、その宮に囚われていた。
適度な衝撃にと殴ってみるが、びくともしない。ならばと、そこらの家具を使ってやろうかとも考えたが、脳裏に見当も付かない家具の価値がチラつくと恐ろしくなって手は出なかった。
そして、それが何日も続くと諦めがつくが、暇だ。書棚に本は並んでいるが、絮皐は余り文字を読むのが好きでは無い。並んでいる文字を読み入る事の何が面白いのか。それよりも、人と話したり、触れ合ったりする方が余程楽しいのに。
だから、絮皐は孤独と感じていた。最後に話したのも、大男だった。女官は話しかけて良いのかも分からず、頼み事をするだけだ。
体を拭きたいから、外で水を汲みたいと頼むと、沐浴が用意され、針仕事をしたいと言えば、適当な布と裁縫道具を渡された。
食事は三食贅沢な品々が用意され、衣服も上等なものを渡されている。初日に着てきた麻の衣服は、着てはならないと捨てられ、仕方なく宮で用意されたものを着ていた。綿素材の中流貴族が着るそれに、心地は良いがむず痒い。
これでは、囚われているというよりは、隠された姫の方が正しい様にも思える。
「(昔を思い出しそう)」
絮皐は、他所ごとを考えない様にと仕事同然に布に針を通していた。渡された布地も、同じく綿だ。柔らかい素材に針は通しやすく、思ったままの刺繍が描ける。
このままでは、自分が燼の衣の刺繍を完成させるのは無理だろう。そう感じて、せめて帯を作る事にした。大帯は、皮革で金属金具を使うが、帯留は布地だ。そう考え始めると、楽観的な性格が全面に出てくる。
絮皐の目の前には好きに使って良いと言われた布地と糸が様々な色合いで並んでいた。深く染まった色合いばかりで、どれも高価だ。
好きにして良いと言うならば、好きにしよう。絮皐は、いっその事こと開き直る事にした。
高級と言われる、真っ黒に染まった
龍の紋様が許されるのは、皇帝のみだ。だから、絮皐が描くのは、鳥。見えないのだからとは思っても、燼は地味な柄を好むと思うと、派手な物は控えた。
黙々と、針を通して行く。時間だけはある。体力もある。絮皐は自分の立場も忘れ、黙々と作業を続けていた。
――
気付けば、部屋に灯りが灯っていた。既に、木窓は閉ざされ、隙間を除けば外は日が暮れている。皇宮は良く鐘の音が響くのに、その音すら聞いた覚えも無い。
集中し過ぎていたのか、絮皐は誰かが入ってきた事にも気づいていなかった。
食堂に向かえば、既に食卓の上には豪勢な食事が並んでいる。
食べ切れた事は一度として無い。食べ切れないと分かっていても、毎日毎時同じ量の食事が並ぶ為、見ているだけで腹が満たされそうだった。
仕方なく、適当に箸をつけ、ある程度満たされると、箸を置く。暫くすれば、また女官たちがやってきて片付けるのだろう。
そう思うと、絮皐は再び作業していた部屋へと戻って、針を手に持った。が、流石に一度切れた集中力で、薄暗い部屋の中では黒地に灰色の模様を描くのは無理があった。
「(今日は……ここまでかな)」
まだ、半分も出来ていない。
それでも、完成した時を思うと、絮皐は胸が高鳴っていた。
「燼に……会いたいな……」
宮に連れられて五日が経って初めて、絮皐の口から弱音が溢れていた。
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