十六

 皇宮 九官丞相府


 皇宮の中、九つに別れた府庁の内の一つ、丞相府。

 皇帝宮に一番近く、皇帝の補佐である右・左丞相の他にも多くの官吏が勤めている。その中に、風鸚史も左長史の補佐として部屋を頂戴し、日々、終わらぬ仕事に励む。ここのところ、一人補佐が不在で、その文句を誰かに言いたくてたまらないと、やや不機嫌な様相だが、それでも落ち着いたものだった。言いたくても、その補佐が勅命を受けたのだから、誰にも言う訳にはいかないというのもあるのだろう。

 だから、残された三人の補佐達は話題にも触れない様にと、目を逸らして仕事をする。お陰で、部屋の空気は重い。その勅命を受けた男は、早くても半月、長ければひと月不在となる。誰しもが、早く戻ってきてくれと願うばかりだった。

 そんな日々が続いていたが、ある時、またも突如面倒事が舞い込んだ。

 


 鸚史は一心不乱に机に向かっていた。忙しい上に、父親である左丞相へと持っていった書簡の半分以上を突き返され、見直せと言われたものだから内心腹立たしく、その怒りを全て机に向けている。回ってきた書簡に目を通し、判別していくだけに、怒りを向ける先はその書簡の内容で、当たられる事になるのは、その書簡の主達だった。

 その繰り返しの中、補佐の一人が鸚史に声をかけていた。えい左長史補佐。風家との繋がりがあり、軒轅と同じく鸚史が信頼する補佐の一人でもある。


「風左長史、槐様の遣いの方がお見えです」


 それを聞いた鸚史はピクリと反応すると、ゆっくりと顔を上げた。その顔は不機嫌というよりは、怪訝な面持ちだ。

 

「……槐が?」

「えぇ、隣の部屋でお待ち頂いております」


 家ではなく、九官府に人を寄越すとなると、急ぎという事だ。


「(この忙しい時に……)」


 と、内心妹を恨みつつも、その妹が無駄な用事で人を寄越さない事を鑑みれば、事は重大だと知れる。


「分かった」


 鸚史は立ち上がると、重い足取りで隣の部屋へと向かった。

 乱雑に書簡が散らばった先程の部屋とは違い、来客用に整った部屋の中、大人しく椅子に腰掛ける女と、その御付きの女。

 だが、それは遣いなどではなかった。鸚史の妹本人が涼しい顔をして座っていたのだ。


「……槐、お前こんな所で何してる」


 鸚史は向かいに座りながらも悪態を付いた。何も妹が嫌いなわけでも、邪魔と感じたことも無い。二人の関係は至って良好で、これまでも何かとお互い手を取り合ってきた。だからこそ、槐が、お遊びで九官府に来たわけでも無い……とは言っても、槐は皇孫の妻であり、立場は皇妃となる。決して、安易にふらふらと出かける事の出来ない身分だ。


「ご安心を、此処まで来るのには、馬車を使いましたから」


 おっとりした声で、槐は平然と言ってのける。この九官府には、実父も勤めている。事が知れたなら、大目玉を喰らうはずだ。そんな、鸚史の心配も他所に、槐の顔は深刻そのものだった。


「それで、お前が直接来たとなれば、相当な事だ。何があった?」

「……絮皐が消えました」


 その名前を聞いた瞬間、何事も無く話を聞いていた鸚史の顔が強張った。不機嫌などという甘いものでもなく、本気の怒りを妹に見せている。


「俺が、あの女を快く思っていないのを知っていて、よくその名が出せたな」


 鸚史の怒りは、過去を思い起こさせる。直接的でないにしろ、絮皐は薙琳の死に関わっているのだ。鸚史は、赤の他人ならば、遠い地の誰か……で済ませた事だったが、それが目の前に現れるとなると、話は違った。

 誰にでも気さく。だが、限度もある。いくら祝融が助けると言い、燼が引き取ると言っても、鸚史は珍しくも祝融に喰ってかかったのだ。

 とても、許容できないと。 

  

「まだ、割り切れないには知っています。ですが……」

「帰れ、手は貸さん」


 鸚史は言葉を遮り早々に立ち上がると、槐からも目を逸らしていた。


「兄上、お待ち下さい」

「逃げ出したという事なのだろう。俺は清々するがな」

「違います。何者かに連れて行かれたのです」


 もう扉まで既の所で、鸚史はピタリと足を止めた。いくら嫌っている者だとしても、何者かが関わってくるとなると、話が変わる。わざわざ、夢見の妻を狙うとなるならば、見過ごせない。

 

「……誰が関わっている」

「それが分からないのです」


 鸚史は、もどかしさのままに頭を掻くも、思い悩んでも仕方がないと、踵を返すと再び椅子に戻っていた。先程の怒りとは違い、不機嫌な様相ままに、大きな音を立てて椅子に座り込む。


「……それで、現状分かっている事は何だ」


 肘を突き、感情のままの表情。態度は最悪だったが、槐にしてみれば昔のままの兄が目の前に座っているだけだが、不機嫌極まりない。


「四日前、沈……絮皐が勤めている縫製工房の店主が言うには、文官と思われる役人が二人、燼の妻を探していると店を訪ねて来たそうです」


 沈は絮皐が次の日も店に来ない事を不審に思い、家を訪ねて居た。しかし、使用人も絮皐は帰ってきて居ないという。もう一日様子を見るも、矢張り、店にも家にも帰って来ない。店主は役人二人の名前すら聞かなかった事を後悔して居た。自力ではどうにもならず、唯一、皇宮へ入れる人物を頼る事にしたのだった。

 それが、槐だった。槐は、沈からの面会を直ぐ様受け入れ話を聞くや否や、行動に出たのだ。

 自分で動こうにも、皇宮で探れる人材は居ない上に、燼を探していたとなると、下手に口外も出来ない。槐は、兄を頼る他なかったのだ。

 

「その役人二人は、燼の家にも訪ねていました。そこで、勤めている店を知った様です」


 鸚史は一見興味なさそうにしながらも、その目は槐を捉えたままだ。


「他には」


 ぶっきらぼうながらにも、鸚史は言葉を返した。恐らく、手を貸すのも内容によるのだろう。

  

「絮皐は馬車に乗せられた様です。紋は入って居なかった様ですが……皇宮で管理されているもので間違い無いでしょう」

「……皇宮の何処かにいる……か」

「そう考えるのが妥当かと」


 間髪入れずに答える槐に、鸚史は息を吐く。情報は少ないが、探るべき場所はそれとなく判断出来る。だが、その探す主が絮皐となると、気が乗らない。何かしら、燼に関わると思えるならば……。

  

「燼とあれの関係は良好か」


 せめて、何かしらのきっかけがあればと、鸚史が口にした言葉だった。槐がただの同居人とでも答えれば、いっそ放っておけば良いとでも思えたのだが、鸚史の予想に反して槐の言葉は重みがあった。

   

「……燼は絮皐を大切にしていますよ。兄上と婀璜よりも余程夫婦らしいかと」


 重みどころか、しっかりと鸚史に乗っかって重圧までかけている。全く夫婦として成り立っていないどころか、離縁まで頭に浮かんでいる鸚史にとっては痛い話だった。

  

「嫌味か」

「事実ですよ」


 鸚史の思惑を知ってか知らずか、妹は涼しい顔を続けている。その余裕は、最初から鸚史が断らないとでも知っている様だった。

 

「……引き受けて下さいますか」

「今、絮皐に何かしら手を出して利益を見出すとする奴等を検討するとなると時間が掛かるが……燼の為だ、引き受けてやる」


 鸚史は迷いなく立ち上がった。


「お前は早く帰れ、父上に見つかると俺までどやされる」

「えぇ、お願い致します」


 槐も、早々に帰ろうと立ち上がるが、ふと扉に手を掛けようとした瞬間に、思い出したかの様に鸚史に向き直った。


「婀璜と離縁するのでしたら、お早めに」


 またもや余裕のある言葉を吐いたかと思えば、優雅な妹は御付きを連れて九官府を去って行ったのだった。

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