十五
案内された一室。そう大して広くは無く、四人程度が座れる卓が置かれ、それ以外は部屋の都合に合わせた調度品が揃っている如何にも貴族御用達な部屋。卓の上には、客人でも来る予定なのか、贅沢なお茶請けが用意されている。絮皐は、誰もいないその部屋に押し込まれる形で、ぽつんと端に立っている事しか出来なかった。それまで、常に傍に居た二人の役人が、絮皐を残して姿を消してしまった事は、安心も出来たが、不安は消え去ってはくれない。
「(せめて、座って良いとか、食べて良いとか、自由にして良いとか言ってよ)」
何もする事が出来ない。もういっそ、自由にしてやろうかとも思えたが、自分がいる場所が皇宮のどこかである事を思い出すと、その考えも萎えた。せめて気分だけでもと思い、窓辺に近づいた。格子の向こうは池が広がっている。皇宮は広く、人工池の端にぽつんと聳えた離宮とも言えたそこで、絮皐は睡蓮を眺めた。桃色にも近い花が咲き乱れ、青葉とその色で埋め尽くされている。
絮皐の感動は薄かった。一緒に見る相手がいて、それが想い人であれば、何かしら思う所があったかもしれないが、囚われの身も同然の状況では何もかもが色褪せて見えてしまう。
「帰りたいな……」
思わず、本音が溢れていた。
「それは申し訳ない」
それ迄、肘を突いて窓に寄りかかっていた絮皐は、突然降り注いだ声に慌てて振り返った。先程、絮皐も入ってきた入り口は開かれ、一人の大柄な男が立っている。その大きさといったら、見慣れた祝融を軽く超えている。がっしりとした体格で、男並みに身の丈がある絮皐でも見上げねばならない姿だったが、不思議と威圧感は感じられない。
「お待たせしてしまった様だ」
男は一人、卓に座ると絮皐に向かいに座る様に手で促している。一体誰なのだろうか。穏和そうにも見えるが、其の実は知れない。
「他意は無い。話がしたいだけだ」
絮皐の警戒を、男は簡単に見抜いていた。
「まあ、無理もないだろう。突然、この様なところに連れてこられたのだ。警戒するのも当然だ」
終始、絮皐を安心させようとしている。若くは無いが、歳を取っている訳でも無い。落ち着いた様相が伺いえるが、そもそもの問題が浮上した。
「(あ、貴族って不死が多いんだっけ)」
相手が不死だとすれば、見た目で判断は出来ない。絮皐も恐らくだが不死に準ずる者だ。似た様な存在なのだが、絮皐に関しては驚く程の年齢と言う程でもないのだ。
「取り敢えず、座ってはどうだ」
落ち着いた口調が続いていた。男は、警戒を続ける絮皐を咎めない。絮皐はこれ以上の無礼も無いと静かに卓に近付いた。
静かに椅子を引き、男の対面に座る。
「急に呼び立てて申し訳なかった。これらは詫びだ」
そう言って広げた手の先は、卓の上の茶菓子だ。男が部屋の外に声を掛けると、女官達が部屋に入っては熱い茶を入れ始める。女官達は手際良く用意を済ませると、粛々と引き下がりあっという間に姿を消してしまった。
作法など何も知らないどころか、無法者に近い生き方をしていた絮皐にとって、今何が起こっているかすら飲み込めていない。男は茶を啜るだけだが、それすら気が動転しそう。
絮皐は、もう限界だった。
「私の夫はいつ帰ってくるとも知りません。何か、手違いでもあったのでしょうか……」
相手は絮皐を平民と知っていながら、迎え入れた筈。衣服も一目で麻素材と分かるだろう。仕事着だから、状態も良くは無い。誰が見ても平民の女が目の前に座っているのに、男は平然としている。先程の男二人は、終始、絮皐と目を合わせる事すら嫌悪を抱いていた。
尽くす必要の無い礼が、尽くされている。いっそ手違いだったらと、思い切って声を上げてみたのだが、思いのほか、男は反応しない。
「手違いでは無い。私がお会いしたかったのは貴女だ」
そう言って、また一口、二口と茶を啜る。
「貴女の夫がどの様な人物かを聞かせて欲しい」
「……え?」
絮皐は思わず目を丸くした。言えと言われたなら答えられる。だが、そんな事が聞きたかったのだろうか。雰囲気は和やかで、相手も穏和に見える。
惚気……では無いが、絮皐は自分の知る燼を、ポツリポツリと話し始めた。
「夫は、とても誠実で私に良くしてくれます。私に行き場がないと知って、結婚を申し出てくれる程に」
話し始めると、燼の姿が脳裏に浮かぶ。愛しくて、恋しくて、それまで感じたことの無い感情に支配されている。その感情に支配されている間は、とても心地良いのだと誰かが言っていた。
「私は、この様に見苦しい容姿です。でも、彼は私を対等として扱ってくれる。そんな人です」
勢いだった。絮皐は自分に顔の右半分にそっと触れる。その存在を忘れる程に、燼は火傷の痕を気にしない。
それ以外にも、冬も気を抜かず鍛錬をしている事、経典の新しい解説が出れば目を通している事、使用人を大事に扱っている事。絮皐が知っている燼の全てを話ていた。
「成程、出来た人物のようだ」
絮皐は、男の言葉が不可解だった。羅燼の妻を探していると言った割には、何も知らない。今から知るにしても妻ではなく、もっと近しい者に聴けばいい筈。
絮皐は燼を知って、一年足らずだ。その内の半分以上は離れて暮らしている上に、絮皐が知っている姿は、夫としての一面だけだ。
ただの世間話をする為だけに、わざわざ役人を迎えを寄越して、皇宮まで馬車で歓迎する。何処かの貴夫人ならいざ知らず、絮皐の夫は平民だ。
如何にも、裏があると言っていた。
「あの……何で、私に?」
絮皐は、尤もな疑問を口にしただけだった。何気ない疑問だったが、男は茶を口に含むと、息を吐く。
「……この会話は、あくまでついでだったと言っておこう」
―何の?
絮皐が、そう口にするよりも先に男が立ち上がった。絮皐も慌てて立ちあがろうとしたが、男の手が静止していた。
「申し訳無いが、暫く此処で過ごしてもらう」
「……え?」
「必要なものがあれば、持ってこさせよう」
「待て下さい、私が何だというのです。それに、仕事も……」
絮皐は、縫いかけの刺繍を思い出していた。
「暫くは休暇と思えば良い」
貴族の都合だ。流石に絮皐も我慢出来なくなっていた。このまま手をつけなければ、誰かが絮皐の代わりに縫い終えてしまう。燼が帰ってくる前に、終わらせたいのだ。
「ふざけんな!あたしの仕事を何だと思ってる!!」
完全に頭に血が昇っていた。無法者時代のやり方。兄曰く、少々荒っぽい人付き合いとでも言えばいいのか。絮皐は、男が貴族だろうが自分よりも体格が段違いだろうが、お構いなしに掴みかかろうとしたが……
「成程、じゃじゃ馬だったか」
掴みかかった手は、男によって完全に抑えられていた。どれだけ体格が良かろうと、所詮貴族。温厚な面から絮皐は見掛け倒しの体格と、見誤っていた。
男の手は強く、絮皐の腕を捉え離さない。
それどころか、きりりと腕が軋む。妖魔退治ぐらい経験はある。そこらの男ぐらいなら、負けはしない。そう自負していたのだが、目の前の大男は、
「いっ……」
「すまない。思ったより力があるので、少々強めに握ってしまった」
男は手を離すと、絮皐は男を睨みながらも、すかさず後ろへと下がっていた。腕を摩りながら、いつかも似たような事があったと思い出す。その時の相手は武官にも劣らない実力を持つ獣人族だった。
特徴では分かり難い獣人だが、男もそうなのだろうか……いや、獣人は政に向かないか無関心だと聞いた。格好は文官だが、装いでは判別つかないのだろうか。
ぐるぐると巡る思考に、絮皐は安易に男に近づけなかった。
「安心しなさい。傷つける気はない。暫く、この宮で大人しく過ごせば良い」
そう言って、男は部屋出て行った。
再び、宮の中は静まり返る。
「一体何なのよ……」
絮皐は、誰もいなくなった宮の中で、誰も答えてくれない疑問を空虚に吐いたのだった。
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