十四
桜の花が終わりを迎え始めた。風が吹くたびに、優雅に待っていた薄紅の花びらも、気付けば土に帰る時期だ。皇都の小川の桜並木も、今では新緑に染まりつつある。
春が終わる。気候も安定し日差しが強くなり始めると、暖かい陽気に促され仕事を怠けて昼寝に勤しみたくもなる。だが、絮皐は自らの手の中にある、
少しばかり地味だが、はっきりとした色になるまで何度も何度も手をかけて染まったそれに、絮皐は自らの龍の姿を思い出す。その色は、燼自らが選んだ色だ。
出かける寸前、時間もない中で唯一これが良いと見本になりそうな衣を並べて選んだのだが、特に理由は言わなかった。
燼は、絮皐の龍の姿を見た事は無い。何色かぐらいは知っているかもしれないし、元々地味な色合いが好きなのもあり、偶々好みの色を選んだだけかもしれない。
それでも絮皐は、燼がその色を選んだ事に意味を求めたかった。いや、意味を見出したと、言うべきだろう。
きっと似合う。お仕えしている主人に比べれば上背は小さいが、それでも平均よりも高い身の丈だ。絮皐は、その衣の持ち主が着ている様を思わず想像してしまった。すると、自然と顔がにやける。
はっとして、慌てて顔を元に戻して周りを見渡すと、皆同じく針に集中していた。
「(良かった、誰にも見られてない)」
ほっとしたのも束の間。
「うひゃっ」
背後から肩を叩かれびくりと肩が跳ねていた。同時に変な声が出てしまい、思わず口を塞ぐ。
「なんて声出しやがる」
軽く肩を叩いたつもりだったのだろう。沈もそこまで驚くと思っていなかったのか、呆れた顔をしていた。
「急にやめて下さいよ」
「呼んでも返事しなかったのは、お前さんだろう。それより客だ」
「えっ」
絮皐の顔が一瞬で嬉しそうに満面の笑みを浮かべたが、その表情で沈の顔が一瞬で申し訳なさそうに困り顔へと変わっていた。頭を掻き、絮皐が勘違いしている男ではないと言う。
「亭主じゃねぇよ。お役人だ」
「……え?」
「良く分かんねえが、羅燼って言ったらお前の亭主だろう?その女房を探してるんだとよ」
嫌な予感がする。絮皐は思わず逃げ腰にもなったが、燼の世話になっている手前、逃げたくはなかった。逃げれば、燼にどう影響するか予測も出来ない。
「どうする。断るか?」
迷っている絮皐の姿に、沈は思わず絮皐の顔を覗き込んでいた。
「ううん、知り合いかもしれないし」
役人というのならば下手な事は出来ない。どの道、店にも沈にも迷惑は掛けられなかった。
絮皐は終わりかけの刺繍を止めると、立ち上がり沈の後に続いて店口へと向かっていた。店の表にはまだ客が賑わう時間帯だが、明らかに客でない役人姿の男二人が店の一角に立ちすくんでいる。
その二人に向かって、沈が頭を下げると、絮皐もそれに釣られた。
「先程、お探ししていた羅燼氏の女房がこちらで、羅絮皐と言います」
絮皐は軽く下げた頭かた、ちらりと役人を見た。役人らしく無表情な二人は、頭を傾げている。
「……此方で間違い無いのか?」
「はぁ、羅燼氏自ら、絮皐を迎えに来た事もありますので、間違いないかと」
二人は絮皐に顔を上げる様に言うと、その顔をまじまじと見た。主に、目線は絮皐の右半分だろうか。広がる火傷に白色化した虹彩。絮皐も、元から気にも留めないのもあるが、周りが何とも思わないものだから、少々忘れていたぐらいだ。久しぶりに珍しがる客人が少々失礼だとは思っても、「まあ、雅な皇都に住むお貴族様には珍しいのだろう」ぐらいにしか感じていなかった。
「(こう言う時も、話しかけちゃ駄目なのかなぁ)」
絮皐は、その雅な皇宮の一角、外宮に赴く事もあるからと、燼から少々貴族に対しての礼儀を習ってはいた。習ってはいたが、障だけだ。
許しがあるまで頭を上げない。こちらからは話し掛けてはいけない。他の細々とした事は忘れてしまったが、その二つさえ出来れば、絮皐の立場なら問題無いと燼は言っていた。
そうこう考えているうちに、二人の役人は何かしら話し込んだかと思うと、何かを決め込んだかの様にお互いに頷いていた。
「では、羅夫人。我々と同行して頂こう」
「えっ、仕事が……」
まだ、燼の衣の刺繍が途中なのだ。いつ帰ってきても良い様に、出来る限り早めに仕上げたい。そう思っていただけに、うっかりと心の声が漏れていた。
絮皐の失言に慌てたのは沈だったが、普段貴族相手に仕事をしているとあって、落ち着き払ってはいた。
「すいやせん、普段、籠って仕事をしている者でして」
「いや、構わない。だが、此方の都合を優先して貰う」
その言葉で、沈が胸を撫で下ろしたのは言うまでも無い。絮皐も、これ以上話すまいとしっかりと口を閉ざしていた。
――
カタカタと馬車が揺れる。貴人達が使う豪奢な馬車は、時々石が絡むと大きく跳ねるがそれ以外は落ち着いたものだ。絮皐も荷馬車しか乗った経験が無い為、道の違いか、椅子の上に置かれた敷物のお陰か、然程尻が痛くない事に感激していた。
ただ、先程の役人が目の前に座り、ジロジロと目線を動かす訳にもいかず、膝の上に手を置いてしおらしい女を演じるだけで精一杯だ。
元々じっとしているのも、黙っているのも苦手だ。そして、狭い空間で男と一緒に長々といるのが何よりも耐えられない。絮皐は、兎に角、他ごとを考えようと、狭い馬車の中で窓に目を向けて、燼の裾に描くはずだった刺繍を思い出しては、どう針を入れていくかを考えることにした。
「(裾の端は、葉だけじゃなくて花も入れたいよね。どうせ目立たないんだし)」
一端の平民が着るには贅沢極まりないものだ。絮皐は、その衣が燼が皇宮で着る物と知っているが、いつ、どんな時に着るかが想像出来ないでいた。皇孫である祝融の共をするときですら、ある程度の質のある衣だが、軽装だ。だから、あの矢車附子染の衣はもっと重要な時に着るものだと予測は出来るのだが、それがどういった場なのかまでは想像し難い。
そこまで知る必要はないし、雲上人の世界に踏み込むつもりもない。妻だからと、全てを知っていなければならないなどの重い女など以ての外だ。だからせめて、矢車附子染の衣に初めて袖を通した時、その姿を見たい。その思いで、一心不乱に針を通していたのだ。
「(逢いたくなってきちゃった……)」
他所ごとの効果は敵面だが、それ以上の想いを生んでいた。
恋心を抱いて結婚した相手ではなく、結婚してから恋心を抱いた相手。その相手の為に、慎ましく暮らし、真っ当に働き、帰りを静かに待つ妻になった。今の所、浮気もしていない。それが、絮皐にとって自分で自分に驚いている所だった。
「(そういえば、燼以外とずっとしてない……)」
不意に、過去の女性達が浮かんだが、誰一人まともに顔を思い出せなかった。
――
そうして、馬車が止まった。窓から見える景色を考えても、そこが皇宮の敷地内である事は一目瞭然だった。そもそも、馬車から見えた景色に、池だの川だの、更には優雅にお茶をする貴婦人。桃源郷にでも迷い込んだのかと勘違い出来そうな情景ばかりが絮皐の目に映り込んでいたのだ。
問題は、此処が皇宮の何処で、誰の命令で連れてこられたのか。皆目見当もつかない難題を前に、誰かが答えを教えてくれるわけもなく、馬車を下ろされた絮皐は、二人の役人に挟まれる形で、示された方向へと歩くだけ。馬車と同じく、下手に目配せもできず、しんと静まり返った宮の中を歩いていた。
祝融の居宮には何度か訪れた事があった。沈が依頼の品を槐に届ける時は、決まって絮皐を連れて行く。何度か訪れる内に、ある程度慣れはしたが、その宮の豪華な様相に訪れるたびに息を呑む。贅沢な調度品、敷物、椅子、簡単な置物ですら、その価値が知れない。
そして、今、同じ感覚に囚われている。同じかそれ以上……そんな違いの分からない者が訪れても問題ないのか。何より、自分の格好は場違いではないのか。
絮皐は、無言であるく役人二人に、本当に羅燼の妻を探していたのかと、問い質したくてたまらなかった。
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