十三
彩華が、心配げな顔を向けていたのはいつだっただろうか。
「燼、本当に祝融様の従者になるの?」
家の応接間で向かい合い、珍しくも真剣な話があると姿勢を正して座る。
彩華が漸く祝融の下で仕事に慣れて来た頃で、どれだけ危険な仕事かは身を持って知っているからだろう。心配気な顔は、段々と険しくなる。
「俺、初めて必要とされたよ。あの人からは嫌な感じがしない。嘘でも欲目でも無く、俺の力を必要としてるんだ」
燼は少々、彩華の様子を伺いながらだったが背筋をピンと伸ばし、決意を述べていた。体格こそまだ子供同然だったが、成人し自分の行く先は自分で決めるのだと。
「まだ……早いんじゃない?」
まだ、成人したばかりで幼い。まだ、身体つきも未熟だ。彩華は苦しい言い訳でも探す様に、その目は泳いでいる。
「じゃあ、いつなら納得する?彩華はずっとそうやって、俺を心配し続けるのか?」
燼は、彩華の心配が理解出来ない訳じゃなかった。燼も、彩華が心配だ。危険な仕事で、いつ死ぬとも分からない。命を賭けることは当たり前な上に、彩華は主人に命を賭けると宣言までした。
その意味が理解出来ない程に燼は幼くはない。
彩華はどうしても納得できない様だった。膝の上に丁寧に置かれた拳を握り締め、顔色は暗くなるばかりだ。
「彩華、どんなに反対しても俺はやるよ」
燼の目は真っ直ぐだった。どれだけ彩華が目を逸らしたところで、結果は変わらない。諦めたのは、彩華だった。
「……好きにしなさい」
喜んでいる顔では無かった。それでも、彩華自身ある程度の覚悟はあった。燼が彩華を追って同じ道を選ぶなど、考えずとも分かっていた事だった。
彩華は息を吐き、その目に力を宿した。燼を真っ直ぐに見据える姿は威圧的でもある。
「けれど、無謀な戦い方をするなら直ぐにでも辞めさせる。良いわね」
厳しい目を前に、燼は力強く頷く。
「分かった」
まだ、彩華の背を追いかけている時の覚悟ではあったが、それでも一端の覚悟だった。そして時が経ち、肉体だけで無く精神も成熟した今、その覚悟は確固たるものへと成った。
――
――
――
燼は、阿孫へと向ける眼差しは、昔、彩華に向き合った時と同じく真っ直ぐだった。確固たる覚悟、それが自己意思だと示す為、武人として向き合う姿に、迷いは無かった。
「今も昔も、そしてこの命尽きるまで、お仕えする方は、皇孫祝融殿下ただ一人です」
どう言う反応を見せるだろうか。変わらず燼を見据える阿孫を待った。過去の彩華とおなじで威圧的だが、試されているわけではない。
上座に座り腕を組み厳しい顔で構える男は、小さく口を開いた。
「それが意思か……」
かと思えば、聞こえるかどうかの小さな声でボソリと呟くだけだったが、その言葉は、しっかりと燼に届いていた。
その姿は諦めからか、少しばかり姿勢を崩し息を吐いていた。
「では、話を戻そう。崑崙山で見たものを俺が見る事は可能か?」
何事も無く、話しを切り替えつつも続ける姿は、ある意味で尊敬に値した。流石に軒轅も驚いたのか、その目は見開いている。
「可能です」
その一言で食いついたのは、軒轅だった。
「……そんな事が出来たのか?」
「夢を共有するだけですから」
「俺と阿孫様は夢見でもないのにか?」
「ええ」
そう言うと、辺りが途端に静寂となった。
軒轅も気配に気が付いたのか、徐に立ち上がる。違和感だろうか、阿孫も余裕だがその目が辺りを警戒していた。
「軒轅様、大丈夫ですよ。夢に入っただけですから」
燼の落ち着きぶりが、軒轅を冷静にしていた。大丈夫。その言葉を信じると、軒轅は再び椅子に座っていた。
その姿を見計らってか、部屋がぐにゃりと曲がっていた。捻れたというべきか、部屋だけで無く世界が歪む。そうして間もなく、世界は溶けていき、暗闇に染まっていた。何も無い暗闇だが、お互いの姿は視認できる。
ならば、これは燼が作り出した何かか、本当に夢なのだ。そう思うと恐怖は湧かないが、不思議と自分が異物に思える。
「(これが夢の感覚か……?)」
軒轅は冷静に観察するも、暗闇の為観察対象は燼だ。その燼はというと、下をじっと見つめたまま動かない。不思議に思い、軒轅も又燼と同様に目線を下へと向けた。
その瞬間だった。
ドクンと、鼓動の様な音と振動が軒轅に響いていた。驚き、思わず顔を上げると、阿孫が軒轅と同様に驚きを見せている。
鼓動は続く。そして、次第に足下は暗闇の中にも、はっきりとした
それは、まだ玉繭にも似た黒い物体だった。はっきりとしない形ではあったが、その玉繭の中で
恐ろしい、夢見とはこの様な感覚で生きているのか。軒轅は悍ましい、その玉繭から目を逸らした。ぞわぞわと身体中を闇が這うかの様に、畏怖がはっきりとある。闇がまとわりつき、自信を喰らおうとでもしているのか。
軒轅の目は、再び燼に向いていた。これを映し出した男は、何を思っているのか。その男は、
軒轅は目の前にいる男が遠くにいる気がして、思わず名を呼んだ。
「……燼」
その声が合図か、一瞬にして、暗闇は消え、元の部屋へと戻っていた。
行燈の明かりに照らされた部屋が、何とも落ち着く。その明るさの安心感は、それ迄に感じた事の無い程だっただろう。真っ暗闇を怖がる幼子の時を思い出せそうな程、躙り寄る恐怖が確かにあったのだ。身体を這う感覚は実際に存在したのか、それとも夢が生み出した空想か。夢見にとっての現実が、軒轅には現実と受け入れられなかった。
暗闇での畏怖を掻き消したいからか、軒轅は阿孫が目の前にいる事も忘れて立ち上がると、部屋の片隅に用意されていた酒を手に取っていた。
「俺の分もくれ」
そう言ったのは、幾分の顔色も変わっていない男だった。阿孫は、最初こそ驚いた様子を見せたが軒轅と違って微動だにしなかったが、その口は酒を求めている。
軒轅は素直に従った。そんな事まで反抗的になる意味はないし、阿孫も興味だけで夢見の景色が見たいと言ったわけでは無いだろう。その悍ましさを身を持て経験して、恐らく軒轅と同じ後悔を募らせている。
軒轅が酒が乗った盆をそのまま卓に置くと、燼が酒器を傾け其々の杯を満たしていく。静かな部屋に中に、小さな器に酒が溜まっていく音が響く。
その静寂がまた、不気味だった。最初にその空間が耐えられなくなったのは、軒轅だった。
「夢を共有するという事は、俺は眠っていたのか?」
酒を注ぎ終わり、燼は一つを手に口に含む。阿孫や軒轅と違って、日常と変わらない涼しい顔をしている。
「そうです。お二人を無理やり夢へと引き込みました」
「眠った感覚は無かった」
「まあ、ほんの一時ですし」
到底理解する事の出来ない力。理解を越えた力。その力を自在に操る男は、さも当たり前と、ケロリとした顔をしている。良い酒の味を覚えたのか、なんとも旨そうに酒を嗜む。桃廉城で客人にもてなすならば、それなりに良い酒だろう。軒轅も釣られてか、静かに杯の中身を口に含んでいた。
「羅燼、参考になった」
「いえ、俺は役目を全うするだけですので」
それまで、黙り込んでいた阿孫だったが、最後卓の上に取り残されていた杯を手に乗ると、一気に喉へと流しこむ。そして、静かに杯の上に置くと、そのまま部屋を出ていった。
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