第二皇子宮

 

 朱色の柱が整然と続くそこで、祝融は一人、昔暮らしていた宮へと足を進めていた。幼い頃に駆け回ったそこは、今も昔と変わらぬ朱色の柱が典麗と並んでいるのに、記憶とは別の場所に思う程にしんと静まり返っている。

 宮へと向かう者も、宮から歩いて来る者も無い。女官や侍従が行き交い、来客が絶えなかった頃が自分が作り出した記憶ではないのかと疑う程に、その様相は寂寞せきばくとしていた。

 そうして辿り着いた先の、母の部屋。声を掛けるも、誰の返事もない。女官が側にいると聞いていたが、部屋の中から、誰かが顔を出す気配も無い。


「(外に出てるのか?)」


 病状は芳しく無いと聞いていただけに、祝融は迷いながらも扉に手を掛けた。ゆっくりと扉を開ければ、中は窓も完全に閉ざされ暗闇に飲まれている。


「母上?」


 一歩中へと踏み込めば病人が体臭を誤魔化すための香が常に焚かれているのか、その匂いに思わず祝融は顔を顰める。扉の先から差し込んだ光を頼りに寝台へと近づくと、そこで漸く人の気配がはっきりとあった。


「……母上、眠っていらっしゃいますか?」


 寝台の上には僅かに動く何かがいる。黒い影も同然の何かが身動ぎをして、ゆっくりと上体だけが起き上がっていた。


「祝融、来てくれたのね」


 声は掠れ、寝台は暗闇と天蓋の所為ではっきりと顔は見えないが、それは確かに母、禹姫の声だった。弱々しいが嬉々とした感情がこもっている。

 顔も見えない状況だが、喜んでくれた事だけが救いだった。


「母上、せめて灯りをつけましょう。これでは……」


 祝融は窓を開けようと寝台から離れようとしたが、弱々しく皺びた手が祝融の腕を掴み、それを遮っていた。


「やめて頂戴、誰にも顔を見られたくないの」


 息子にすら顔を見られたくは無い。弱々しくも、その手からは意志がはっきりと伝わる。

 こんなにも、弱かっただろうか。こんなにも、小さかっただろうか。 


「……いつまで皇都にいるの?」

「昼には立ちます。仕事が立て込んでいますので」


 その瞬間に、禹姫の声が一転し沈んでしまった。

 

「そうなの……静瑛は来てくれるかしら」

「分かりませんが、夏にも成れば顔を見せに来る事でしょう」


 禹姫は小さく「そう」と呟くと、その手を離してしまった。


「母上?」

「疲れたの、帰って頂戴」


 辛辣にも聞こえる言葉だった。それでも、祝融は病の所為だと自分に言い聞かせる様に拳を握り締める。優しかった母は何処へ行ってしまったのか。祝融は暗闇の中で、自身が平静を保てていないと気が付いていた。


「また来ます」


 そう告げると、祝融は母に背を向けた。次いつ来れるかなど分からない。それでも、母の為に、その言葉を嘘にするわけにはいかなかない。祝融が一歩扉に向かって歩を進めた瞬間だった。禹姫が再び言葉を発したが、それ迄の弱々しいものでは無かった。


「あの人も、貴方も、私を心配して来てるわけじゃない。来なければ罪悪感で苦しむから来てるだけ」


 はっきりとした声は憎しみすら篭っているのではと思える程に低く響く。


「貴方は、来ないわ」


 祝融は、それ以上、母と共にいる事が出来なかった。一言、そんな事は無いと言えば良い。だが、その言葉が、どうやっても喉を通ってはくれはしない。

 そのまま振り返る事が出来ず部屋を出ると、静かに扉を閉めた。

 宮を出ると、朱色の回廊を歩き続けた。立ち止まらず、ただただ一心不乱に自身の宮への道を辿る。母を見舞いに来て、ただ顔を見せて安心させたかった筈だった。なのに、何故逃げる様に部屋を出てくる羽目になってしまったのか。

 祝融は居宮へと辿り着くと、余裕の無さからか、そのまま私室に篭ってしまった。寝台に転がり、意味も無く天井を見上げる。

 一刻もすれば、雲景と彩華が次の仕事の為に顔を出す。それまでに、雑念を取り払わなければ、とても顔を合わせられそうにもなかった。

 母の言葉が、醜く、悍ましいと、感じてしまった。優しかった記憶の中の母の姿が消えてしまいそうで、母が放った言葉を消し去ってしまいたかった。

 そして、その顔を見なくて良かったとすら、考えてしまった事が何よりも自身を許せなかった。

 それから、暫くもしないうちに、私室の扉が勝手に開いた。入ってくるとすれば、許可のいらない者だけだ。 


「祝融様?帰っていらしたんですか?」


 愛しい声が、心配げな声を上げていた。その声の主は辺りを見回し寝台に転がる祝融を見つけると、その横に座り込み祝融の手にそっと触れる。祝融が何処に行っていたかを知っているからか、何も聞かず、祝融の手を優しく包み込んだ。

 優しく、物悲し気な顔の槐を呆然とした視線に捉えると、優しく包むその手を徐に引っ張った。ほんの少し力を入れただけで、ほっそりとした体は祝融の腕の中へと包み込まれる。祝融の身体の上に乗り上げる形となるも、槐は抱き締められた心地に身を預けた。

  

「暫くこのままでいてくれ」


 左腕に強く抱き締められ、頭は右手に優しく支えられている。槐から、祝融の顔は窺い知れない。

 いつもと様子が違う。見舞いに行った先で何かがあったのだろう。そうは思っても、槐はその心地に瞼を閉じ、求められるままに身体を預けていた。


 ――

 ――

 ――


 皇帝宮


 皇帝と皇后、そして許された者だけが、入室を許される私室。現在、皇后は空位の為、実質入れる者は限られる。黒い大理石の床、金を誂えた豪奢な調度品、部屋を照らす行燈の一つ一つにすら、金細工が使われている。

 その部屋の中心で、椅子に座る男が一人。男が身に纏う衣は唐紅を基調としながらも、男の位を顕現するかの如く五色の龍が刺繍によって描かれている。

 姜と呼ばれる者達は大概が大柄な背格好で、武官として勇ましい者が多い。その男も、それに違わず、椅子に座りながらも、その身の丈の高さと体躯の良さが見て取れる。

 皇位の衣を身に纏っていなければ、さぞや武官に間違われた事だろう。肉付きの良い体格と、がっしりとした髭の生えた勇ましい顔立ちがよりそれを思わせるのかもしれない。

 最早、姓を名乗る事は無いが、その姓は脈々と受け継がれ、名も知らない血縁がいるまでとなった。千の時を越え、神農は三度妻を亡くし、三人いる子供の内一人は自身より老い、もう一人も危うい。末の子は、その身に宿された力から生涯老いる事の無い定めだが、自身の子であって、そうではない。残された孫達は、末の孫を憎み、それも止める手段は無い。

 自身の理想とかけ離れた結末が、男の目の前に広がっていた。男は、国の最高位にいながら、何一つ自分の手の内に無いのだと実感していた。


「これが貴方が望まれた結果ですか?」


 空虚な闇に、男は問い掛ける。男にはその闇に問いかける力も声を聞く耳も持ってはいない。勿論、問いかけるべき相手を見る目すら、男には無かった。

 男は未来永劫の安寧が、この国にあると理念を抱いて皇位を継承した。そうして一年もしないうちに、皇位を禅譲した男は姿を消したのだ。


「どうか、その神意を我々に御示し下さい」


 男は、全ての根源が何かを知っていた。知っても尚、その神威の先に、意向があると信じたかった。何か考えがあっての事、整然なる世を求めて行われているだけやも。

 だがそれも、一人の夢見が封印の中身を暴くまでだった。


「陛下、此方においででしたか」


 白衣を纏った白銀の髪の女が、許しも無しに部屋へと入っていた。その女の顔は、自身にも、遥か昔に喪った三番目の妻にも似ていない。それでも確かに男の末娘だったが、子に対する愛情は芽生えなかった。生まれた当初は神の子が生まれたと讃えたが、揺れる白銀の髪色が、今では悍ましい。

 女は、ゆらりと男へと近づく。男の心象を読み取ってか、膝を突き、男の手を取る。


「瑤姫、何用だ」

「……報告を。彼の目が、再び異方ことかたへと向きました故」


 男を、父を心底心配している行動にも見えるが、その実情は、瑤姫の表情からは読み取れない。男は、娘を眺めた。それ迄、隠された存在だった神子は炎帝神農の娘として生まれ、神の顕在化の象徴であると神殿が主張した事により、最初に存在が明示されてしまった者でもあった。

 それからの神殿の権威は皇帝が止められぬ迄に権威を広げるていったが、その後援として西王母の存在があったのも大きかったのだろう。

 その所為か、神殿と西王母。神子と西王母の間には、皇帝すら知り得ぬ繋がりがあると噂される程だ。

 西王母の手先になったとは思えぬが、それでも娘とは程遠い姿をした女の言葉が、神農にとって、吉か凶かの判断材料でしかなかったのだ。

 そして、その眺めていた女が口を開いた。

 その口から出る言葉は、果たして……


「この度、もう一人の神子の存在を明らかにする為に参上致しました」


 それは吉兆か、凶兆か。

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