九
陽も沈み、一日の終わりを告げる鐘が鳴る。と言っても、本当の終わりではない。多くの者が、何となくの仕事の終わりの境目に、その時刻の鐘の音を聞くと決まって、今日も終わったと言うのだ。
そうなると、浮き足立って家に帰る者、そのまま仕事を続ける者、都の歓楽街へと繰り出す者と様々だ。
軒轅も又、皇宮にいる間は
そして、鐘の音を聞いて、一向に片付かない書類を見て見ぬふりして今日は帰るかとなった頃、それまで姿を消していた鸚史が姿を表した。その形相と言ったら、仕事が増えていく時と同じく陰鬱としている。軒轅は嫌な予感しかしなかった。
他にいた補佐が帰るなか、軒轅だけがその場に残されたていた。
「軒轅、お前は燼と共に封印の地を調査する事になった」
そう告げた鸚史は、盛大なため息を吐きながら軒轅に向き合っていた。机の上に積み上げられた膨大な書類を無視して、憂鬱な顔を見せている。皇都に戻ってきたばかり……と言うわけでは無かったが、鸚史に文官としての仕事もある。春は忙しく、外の仕事もこなしたが、矢張り、ここに来て面倒ごとが舞い込んだのだ。
「話が急過ぎませんか!?」
夜の異形が封印された地。それは、軒轅も知るところだ。とは言っても、知っているのは、場所と名前ぐらいで詳細は記憶に無い。その程度の知識しかない場所で異変があったから行ってくれ、では何が何やらと戸惑いしか湧かないだろう。
「急も何も、今日、決まった事だ。明日、朝一番に祝融の所へ行ってくれ」
そう、昨日、祝融が皇都へと戻ってきた。用事を済ませたら、祝融は再び外に出る。軒轅はいつも通りに鸚史に着いて皇宮での仕事を手伝う、そんな予定だったのだ。それがどうしてそうなったのか。
「せめて順を追って話しては貰えませんか?」
鸚史は肘を突きながら、焦点の合わない目で軒轅を見た。疲れている上に、外の仕事まで掛け持ちしている。恐らく軒轅がそばを離れる事で、外の仕事は消えたが、目を逸らしている仕事の山を一人で片付けると思うと憂鬱なのだろう。
そんな憂鬱そうな男は、またも溜息を吐くと。ポツリポツリと言葉をこぼし始めた。
「どうにも、燼が封印の地で面倒なもんを見つけちまったらしくてな。六仙に目を付けられた。そんで、調査の勅命が降ったわけだが……燼は平民だ。燼の能力に目を付けた奴が五万と居てな。同行者を勝手に選任し始めた」
「で、俺が選ばれたんですか?」
「正確には祝融が俺とお前を推挙した」
それならばあり得る話だ。祝融は自身が妨害されたから仕方なく鸚史と軒轅を名指しするしか無かったのだ。だが、何故か軒轅一人だけになってしまった訳だが……。
「何で俺だけ?」
「お前は黄家だが若い、侮られているんだろう。お陰で俺の手伝いが減った」
「嫌味は祝融様に言って下さい」
「言いたいが、どうせまた巫山戯た提案でもされたんだろう。皇宮では燼は自分の身を守れん。祝融は最良と言える判断を下したんだ」
実権の無い祝融は必死だったに違いない。調査とは言え、何かしら言いがかりをつけられるか、妨害か。最悪、燼を探ろうとすら考えるだろう。
「……まぁ、燼が何者か露呈するより良いですけどね」
「まったくだ。そうなってみろ、恐らく神殿がしゃしゃり出てくる。神子達が守ろうとするだろうが、いかんせん燼は見た目は只の平民だ。どう考えても面倒ごとに発展する」
「神子を我が手に?」
悩むまでもなく、答えは容易に出る。神殿に守られている存在に手出しはできないが、ただの皇孫の従者となれば、浅ましい考えが浮かぶだろう。
「それまで燼を隠し続けた祝融も何を言われるやら」
「……って事は、燼は現状は、ただの夢見ですか?」
「そういうこった。それだけでも、うじゃうじゃと私利私欲の目した奴等が出てきやがった」
「まぁ、夢見で表に出てくるしかも特上の目を持った奴なんて、早々居ないですもんね」
夢見は貴重だ。特に目の力を自在に使えるものなどは。悪用すれば、個人の情報も思考も筒抜け、最悪手を下す事もなく、敵意ある存在を消せるのだ。
軒轅が考え得る悪用方法などその程度だが、恐らく悪意のままに考えれば、利用方法など幾らでもあるだろう。
「軒轅、お前呑気に構えてるなよ。今回の件は黄家が絡んでるかもしれんのだぞ」
「……え、うちですか?」
黄家は中立を保つ。現状、将来的に当主候補に上がっている軒轅が祝融と鸚史の下にいる事が、不信感を募らせてはいるが、軒轅は今の所目立った功績は立てていない。
黄家が何かを仕組んだと考えるか、黄家が侮られているかのどちらかだった。
「俺を跳ね除けたって事は……」
「鸚史様が邪魔……と」
鸚史の目付きが変わった。
皇孫の従者で平民という曖昧な立場を利用しようとする連中。その悪意がとめど無い欲望の塊である事を鸚史はよく知っている。
「軒轅、権力の前では燼は無力だ。そこの所は、お前が力を貸してやれ」
既に何か仕掛けてくると読んでいる。と言うより、完全に同行者が軒轅だけでないと言っているようなものだった。
「承知しました」
――
それが、昨日の出来事だった。あくまで、鸚史が想定した最悪の状況だったわけだが、今正に、その最悪の状況は目の前に繰り広げられていた。当たってほしくは無かった鸚史の読みは、見事的中。しかも、最悪な事に、何か仕掛けてくるかもしれない人物は姜家だ。
祝融の居宮の前、軒轅と燼の目の前で祝融と睨み合うは、皇軍将軍が一人、姜
どちらも六尺を優に越える大男だけに、辺りが威圧感で埋め尽くされそうだった。そして阿孫の背後には、従卒と思しき赤龍族が一人、困惑した表情を浮かべている。従卒もそうなる事は初めから分かっていたはずだろう。腹違いとはいえ兄弟仲が修復不可能な程に瓦解している事など、周知の事実なのだから。
「私が聞き存じたのは、黄軒轅と羅燼の両名での調査です。
祝融の不満が露呈していた。隠す気もないのか、その目は敵意に満ち満ちている。祝融の本当の怒りというものを体感した事が無かった二人としても、只平静を装うしかないのだが、正直言って心臓に悪い。
「決定は本日未明だ。軍での決議に一々お前の意見は求めていない。それとも不都合でもあるのか?」
「不都合があったのは、そちらでしょう。羅燼はあくまで私の従者です。公正な議決の場で以外の決定など、羅燼の立場を疎かにするだけ。そもそも只の調査に軍が介入するならば、私の従者を行かせる必要は無かった筈ですが?」
軍部が介入するなら、最初からお前らだけで問題を始末しろ。あからさまに夢見の能力狙いだろ。と、祝融は今にも怒りをぶち撒ける勢いで思うままを述べていた。
「これには陛下も承諾済みで決定事項だ。お前が何と言おうと、決定は覆らん」
どちらも睨み合いが続く。剣は抜かないだろうが、そのまま掴み掛かって殴り合いでも始めそうな程の剣幕に、居心地は最悪だ。言葉の応酬も小慣れたものなのか、相手の不手際を狙っている。
「(仲悪いとは聞いてたが……)」
阿孫の言葉通りなら、決定は覆らないだろう。だからと言って、どこをどう見ても主人である祝融を敵視している人物となど組みたくはないが、燼には拒否する権利もない。
本当ならば、何事もなく皇都を出るはずだったのに。と、燼は祝融の居宮を横目に捉えた。宮の中で、絮皐が槐と彩華に囲まれ遊ばれている事だろう。下手に顔を出さない方が良いからと、目の前の大男がこの場から離れなければ、絮皐も帰れないのだ。
「(仕事、遅刻しないと良いけどな)」
燼の注文を聞けば、店主は上機嫌になる事だろう。だからと言って、優遇ばかりでも絮皐の居場所が消えてしまう。早く、最後の同行者が現れるのを今か今かと待っている。と、燼が何気なしに空を見上げると、青色の龍が空を舞っていた。
そして、その青い龍は祝融の宮の前に降り立った。その背からは、燼には見慣れた白い衣が優雅に揺れているが、その顔は鋭い眼差しが睨み合う祝融と阿孫へと向いている。
「あら、皇孫殿下ともあろう、お方々が、お暇です事」
嫌味同然に言われても、二人は冷静だった。何も言葉を返す事なく頭を下げていた。
「神子華林、此度はお力添えに感謝致します」
最初に声を上げたのは、阿孫だった。皇軍将軍だろうと、皇族だろうと、神子は格上の存在だ。差し障りない言葉を選んだつもりだったのだろうが、華林はこれと言って反応を示さず淡々と返すだけだった。
「これは神殿の決定でもあります。謝辞は不要ですよ」
それぞれの組織が思惑を持っている。側から見れば、燼は浮いている事だろう。
「(これって、俺いらなかったんじゃないのか?)」
神子と蒼家護衛官。皇軍将軍姜阿孫と朱家従卒。そして、燼と共に向かうは黄家当主候補。燼も神子なのだが、今一自分の立ち位置が飲み込めておらず、胃が締め付けられる気分だった。そんな中で、見知った顔の王扈では無く、華林が姿を現したのは燼にとって予想外だった。
基本的に、神子はあまり表情を出さないのだが、華林はというと、いつも鋭い目つきに睨むように燼を見るのだ。王扈の様に、会話を交わした事はなく、知らないも同然の相手だった。
その神子華林は、燼を目に留めると近づいていたが、その目からは厳しさが消えている。
「此度は、お力添えに感謝致します。我々の目に映らぬものも、この世にありましょう。祝融殿下の下で身につけて来たお力で、我々にご助力下さいまし」
意志の表明にも近い言葉に、燼は目を見開いた。その真意は、何か。
「(その力は本物だけど、祝融様が居たからこそ……って事かな)」
それは、神殿も一目置き、そう簡単に他に手出しさせない為とも取れる。どちらにしろ、燼が横目で祝融を見ると、あまり良い顔はしていなかった。
「そろそろ、向かいましょう。何処から目指しますか?」
「桜省の豊邑山から、丹の不周山、最後に雲の高麗山に向かう予定です」
「分かりました」
燼は一応と、阿孫にも目を向けた。
「阿孫様も、それで宜しいでしょうか」
「問題ない。あくまで我々の仕事は調査の同行で、もし、の場合のみだ」
その言葉を聞くと、燼は軒轅に合図を送り、二人で祝融の前に歩み出て首を垂れていた。
「では、祝融様。行って参ります」
「無理はするな。何事もなく、調査で終わる事を祈る。軒轅、すまんが、燼を助けてやってくれ」
「勿論です」
祝融は畏まった態度を求めない。恭しい態度を嫌い、身近に置く者は分別はあっても友人にも近い関係を求める。それでも、思惑渦巻くそこで、燼はその場にいる者達に知らしめたかった。
自分が従うべき主人は、只の一人であると。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます