八
常夜の闇が、月明かりのある世界へと変化する。重なって見えていた世界は次第に一つになり、現世だけが全てとなる。曖昧な境界が消えれば、残るのは静寂だが、それも暫くすれば微かな物音が響き始める。その音と共に薄らと開いた木戸の隙間から溢れる月明かりが、現世を実感させていた。
燼は身体を起こそうと寝台に手をつくと、自分ではない肌の温もりが左手の指先に当たった。
何気無しに、そちらを向けば肌蹴た寝衣姿の女が静かな寝息を立てている。安らかなその寝顔に、僅かばかりに歪みそうになっていた心が清浄される気がした。起こさない様にと、上体を起こし寝台淵に座り込む。
日の出もまだ先だ。だが、夢に戻る気にも成れず、何もしない時間が過ぎて行く。そうしていると、背後でゴソゴソと動く音がする。寝返りでも打ったのかと思えば、背中には暖かい温もりが伝わっていた。
「どうしたの?」
眠たげな声を上げながら燼の背中にもたれ掛かる女は、寝る前よりも艶のある姿を見せている。
「燼が夜中に起きてるの、珍しいね」
「あぁ……そうかも」
いつもは、常夜を彷徨い現世を離れている。それを知らない絮皐は、今日は眠りが浅いのだと勘違いしているのか、燼の首に腕を回し、更には肌蹴たその身が触れる程に身体を寄せていた。男心をくすぐる仕草の上に、背に柔らかいものが当たっている。明らかに誘われているが……。
「明日は早いんだっけ?」
「……うん、そうだな」
気のない返事だったが、燼は絮皐がいる側へと身体を向けると、絮皐を腕に閉じ込めた。そう、明日は一度外宮へ行き、彩華と合流する事になっている。遅刻をすると、空を飛んでいる間、延々と彩華の嫌味を聞く羽目になるだろう。
「眠れそう?」
少々、残念そうな声に申し訳なく思いながらも、目を開けていると、邪な考えに流されてしまいそうで燼は瞼を閉じた。
「絮皐はあったかいから眠れそうだ」
そう言うと絮皐も諦めたのか、燼に擦り寄り、目を瞑っていた。
――
そして、明朝。
朝早くから門環が煩く音を立て、来客を告げる音が騒々しく鳴り響いていた。
「(誰だ、こんな朝早く……)」
燼の家に訪ねて来る者は限られている。約束こそあるが、日は昇ったばかりで、定刻の鐘はまだ先で余裕があるはずだ。かといって、そのまま放っておく事も出来ず、朝の身支度を早々に済ませると、燼は門を開けた。すると、そこには、しっかりと身支度を済ませた彩華が門を越えようか悩む様に上を見上げていた。
「彩華?」
流石に自分の家でなくなったからなのか、門を越えるとかいう太々しい行為は遠慮しているみたいだが、その目は今にも行動に移しそうだった。
「……俺、時間間違えたか?」
燼を見るや否や、彩華は燼をじろじろと見定めている。
「いいえ、用意はできてる?」
「まあ、そこそこ。飯は今から」
「そ、じゃあとっとと食べて行くわよ」
「早くないか?」
日は昇ったが何か他の予定でも入ったのか、妙に急いでいる。
「違うわよ、外宮に行くの」
「あぁ、志鳥か」
確かに連絡手段がいると、祝融が渡すと話はあった。
「それも有るけど……まあ、着いたら説明するわ」
燼は首を傾げながらも、一旦彩華を招き入れた。勝手知ったる家では無くなったからか、彩華は大人しく人の後ろをついて歩いていた。
「飯は食ったんだろ?」
「えぇ、軽く済ませてきたの。お茶ぐらい頂けると嬉しいけど」
「分かった」
既に朝食は食堂に並んでおり、絮皐が燼を待ち構えていた。燼が絮皐の向かいの席につけば、自然と朝食が始まっていた。
燼と絮皐の二人が食事をする横で、一人お茶を啜る彩華。向かい合い、さりげない会話に、小さな気遣い。そんな二人を彩華は物珍しげに観察していた。
「あんた達、意外に夫婦っぽいのね」
「いや、夫婦だよ」
夫婦になった経緯こそ奇妙ではあったが、二人は夫婦であろうと努力している。寝食を共にし、お互いに気遣い、そばに寄り添う。そこらの夫婦よりも、意識している分、余程夫婦らしいとすら言えるだろう。
「彩華のところは、違うの?」
何気無く、絮皐は疑問を口にしただけだったが、彩華の顔は気まずさで一杯だった。
「あー……それ言われると痛いわね」
「何だよそれ。雲景様とうまく行ってないわけじゃないだろ?」
彩華と雲景は、正直側から見て分かりづらい。と言うのも、普段は二人とも仕事に徹している為、ただの同僚だ。だから、二人が夫婦と言われても今一つその姿が思い至らなかった。
「いや、私と雲景様は、ちょっと違うって言うか……」
説明できないのか、口籠る。はっきりしない姿が珍しく、うーんと声に出して唸ってまでいる。
「(夫婦っていうか、恋人の延長なのよねぇ)」
とは、言えず。言いたくないと溢すと、誤魔化すためか、お茶を啜っていた。
そう、仕事も同じで家も同じだが、恋人の時と然程変わりは無い。変わった事と言えば、同じ家に住んでいるから、次の日を気にしなくなった……ぐらいだった。
そうこうしている間に、朝食を終えた二人。絮皐が見送りをしようとしたが、彩華がそれを遮った。
「絮皐も外宮まで行きましょうか」
「はぁ?絮皐一人で、どうやって外宮から此処へ帰るんだよ」
外宮から、家までは距離がある。それに加え、距離だけでなく絮皐は外宮へ行く予定も無かった為、普段通りの格好で平民にしか見えない。その様な格好で外宮などうろつけば、不法侵入者扱いされ兵士に呼び止められる事は必至だ。
にも関わらず、彩華は至って落ち着いた様子を見せる。
「良いから良いから」
何故か大丈夫と言い切る。仕方なく、燼も押し切られる形で、燼は絮皐を連れ彩華の背に乗り、外宮へと向かっていった。
――
志鳥を受け取り、そのまま立つものだと思っていた。だが、燼の予想に反して、燼は絮皐と共に祝融の宮の中へと入る様に促され、とりあえずと応接間へと案内されていた。
「来たか」
既に、彩華と同じく身支度を済ませた主人が、応接間で寛いでいた。まあ、祝融の家なのだから、当たり前なのだが。
「あの、今日って何かありましたか?」
「神子が一人、お前に同行する事になってな。此処に来る予定だから、出迎えねばならん」
何故か急に決まったんだが、と祝融は疑惑の目を燼に向けていた。身に覚えがあるのかと、その目が言っている。絮皐や女官の前で問いただされる事はないが、ぎろりと睨まれていた。
「後は、お前が出る前に採寸を済ませてしまおうと思ってな。絮皐、出来るか?」
「道具があれば……」
「針子から借りてある。空いてる部屋に案内してやれ」
祝融の言葉と同時に、燼の背後で待機していた女官が案内しようとしていたが、流石に話が急すぎると、慌てて女官を止めた。
「俺、戻ったら注文するつもりでしたよ?」
「お前がいない間に仕立てて貰えば良い。払いも俺が持つ」
「いや、家の件もあるし、良い加減甘えてばかりもいられないのですが……」
「気にするな。お前が稼いだ金は、絮皐にでも使ってやれ」
そう言って、祝融はとっとと行けと手を払うと、納得していない様子ではあったが、燼が絮皐を連れて部屋を出ていった。
その様子を見届け、彩華が祝融の正面の椅子へと腰を下ろす。
「朝早くから悪かったな」
「いえいえ、面白いものが見れましたから」
彩華の顔は、思い出し笑いでにやついていた。
「何だそれは」
「いや、燼と絮皐が意外にも夫婦で驚きました。二人とも、もっと素っ気無いかと」
「……そうなのか?」
にやつく彩華とは違って、祝融はあまり良い顔をしなかった。
「……どうかされました?」
「いや」
何でもないと祝融は言ったが、その目は何か含んでいる。だからと言って、彩華がそれを問いただせる訳もなく、見ないふりを決め込み目を逸らした。
「それで、言わないんですか?」
どうせならと、彩華は話題を変えた。
「何をだ」
「燼は親がいないから、その代わりに援助してるって」
彩華の言葉に、祝融は呆れた目を返す。
貴族であれば、成人した際、仕事に就いた際、家を出る際、親が援助するのが当たり前だ。それは、余裕がある家ならば平民でも同じ事が言える。だが、燼にはそもそも親がいない。何か困った際、帰る家、頼る家が無いのだ。
「言う必要は無いだろう。そもそも、家は郭家当主が格安で譲ってくれたんだ。俺は大して金は出してない」
「え、そうなんですか?」
「あぁ、これも言わなくて良いと言われているが。燼に対して、罪悪感が残っているらしい」
その言葉で、彩華は自身の父親が頭に浮かんだ。以前の素っ気無い態度が無くなり、今では温厚な為人だ。何かと、彩華にも気を使い、季節の変わり目には手紙が届く。別人になったとしか言えないが、未だ、昔に囚われたままというのが、少々引っ掛かる事ではあった。
「……そういう事ですか」
「俺は、良い家柄に生まれたからな。必要なものがあれば、全て周りが揃えてくれた」
その良い家柄は、この国では最上位だ。
「その代わりに、代償を背負いますけどね」
「あぁ、だから余計にだ。燼は平民なのにも関わらず、俺の従者というだけで、その重荷を背負いかけている。本来なら、神子として受け取る神殿からの援助も無い。皇帝と謁見する時の衣ぐらい、俺が用意してやっても問題無いだろう」
白銀の髪を持つ神子達は、生まれて間も無く神殿から使者が遣わされる。神子として迎えられ、神殿での生活を余儀なくされるが、何不自由ない生活が保障されるのだ。が、認知されていない神子である燼には、全く無縁の話でもあった。
「本当なら、私が用意してあげるべきなんですけどね……」
「余裕がある奴がやれば良い。そもそも六仙と謁見する為の衣なんぞ、燼の見立てでは少々もの足らないというのもある」
「まあ、あの子が選ぶとなると、祝融様が購入されるものよりもずっと安いものでしょうね」
そう言って、彩華は笑っていた。燼は清貧の誓いでも立てているのかと思える程に物欲が無い。今日の朝食も、粥に青菜のお浸しと漬物。とても、働き盛りとは思えない献立だった。絮皐に聞けば、朝はいつも似たようなものらしい。昼と夜は、もう少しばかり贅沢だから心配する必要はないという。絮皐はそれで良いのかと聞くと、質素だが、それ程食に興味がないのだとか。そんな燼が衣を自分で選ぶとなると、やはり、高価でも価格は抑えるだろう。
そんな雑談を繰り広げていると、女官が部屋の外から声を上げていた。
「旦那様、黄軒轅様がお見えになりました」
「こちらに案内してくれ」
祝融の声で、女官は返事をすると足音と共に遠ざかっていく。
「祝融様、本当に私が同行しなくて大丈夫でしょうか?」
「仕方がない、これも陛下の命だ。軒轅を同行者に出来た事だけでも喜ばねば」
燼に命が降った後、祝融は再び皇帝に呼び立てられていた。
『お前以外の封印術が使える者を同行者に選ぶ』
意図が読めなかった。何かを案じているのか、それとも疑っているのか。いずれにしても、祝融に勅命が降らなかった事がより悩ませた。佞臣達は、新たに現れた夢見の力を求めてか神農に次々と名を挙げていく。その中には、祝融の異母兄である阿孫までも含まれている。事が事だけに、確かに軍が動いても何らおかしくはないのだ。
だから、祝融もまた手の内の二人の名を挙げた。
風鸚史か、黄軒轅。どちらも、皇軍将軍に劣らない家柄と実力の持ち主だ。幸いにも、二人とも皇都に戻っている。その二人であれば、燼が何者かも知っているから、安心もできた。
そして、皇帝が指名したのが黄軒轅だった。
「心配か?」
「少し……」
その顔は、僅かな機微を見せ歪んでいる。祝融が遠ざけられた以上、祝融の従者である彩華が連れ立つと何かと後が煩い。そんな事どうでも良いと言ってしまえれば良かったか。その後の燼の立場を考えると、祝融の手の内である彩華は下手に動けなくなっていた。
ため息まで出そうな程、落ち込みかけた時、応接間の外から微かに声が響いていた。
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