夜も深くなり、月が昇り輝く中、月光が足元を照らす。日が沈んだ時間帯は肌寒く、お互いの手の温もりが、何よりも暖かい。燼は、絮皐の手を引きながら、家路へと着いていた。

 何も知らない絮皐との会話は、燼にとって、かくも楽しいひと時だった。絮皐が話す内容は、ただの日常だ。その日あった事、仕事で出来る様になった事、同僚から聞いた話と言った、絮皐にとってのありふれた話。それは、燼にとっての非日常だった。幼い頃から龍人族の彩華と共に妖魔と戦い、今も皇孫の従者として各地を飛び回る。ありふれた普通から縁が遠く、その普通が自身に起こる日常を少しでも忘れさせてくれていた。

 絮皐の前では、燼は、只の夫で、只の人だった。

 

 彩華が雲景と結婚した後に郭家当主の所有物であった家を出ると、祝融が燼の為にと郭家当主から家を買い取り、燼へと与えていた。燼は、平民街に移ると言ったが、絮皐も一緒に暮らすとするならば、貴族街の方が治安が良いと脅迫にも近い形で納得させられていた。実際、絮皐は殆どを一人で皇都で暮らす事になる。燼の立場を考えても、貴族街で暮らす方が確かに利点はあった。そのお陰で、燼は今も貴族街の端に暮らしている。それまで、彩華が後見人としてあり続けた燼だったが、姓を賜り、一端の鳳省の民として戸籍を置いた。燼にとっての帰る家は姿を変える事なく、そこにあり、古く、下位貴族の家だったそこは、今や完全に二人の家だ。  

 その家の閨で、寝台に横になる男女を暗闇と静寂が包み込む。絮皐は燼に抱きついたまま離れなかった。一月近く離れていて、また明日も、遠くに行ってしまう。口で寂しいと告げなくとも、その行動が本音と言っていた。その本心を知っても尚、燼は何も言えなかった。どれだけ引き留められても、その事実だけは変わらない。

 従者としての役目、皇帝からの勅命、神子としての使命。その全てをひた隠し、絮皐を腕の中で包み込み、優しく頭を撫であやすだけだった。


「ねぇ、燼」

 

 静寂を、甘く艶のある声が遮った。燼の背中に回っていた手が離れたかと思えば、その手は燼の頬に触れていた。絮皐の顔が近付き、唇がそれに触れる。何度も繰り返すそれに、燼は脳が麻痺しそうだった。

 絮皐が望むなら。そう思うと、口付けは深くなっていった。そのまま寝衣の隙間へと手を潜り込ませ、生暖かい肌に触れる。だが、ふと思い出す。


「……悪い、やり過ぎた」


 絮皐のそういった対象に男は含まれない。幾らなんでも、それ以上は望まれていないと、燼は慌てて身体を離した。だが、予想に反して絮皐の頬は赤く染まっている。


「あたし、燼が好きだよ。他の男には指一本、触られるのも嫌だけど、燼なら良いよ」


 そう告げた絮皐は、その証とでも言う様に再び燼に口付けていた。

 夜は深まり、更けていく――


 ――

 ――

 ――


 深淵の深い闇の底、白い衣を纏う五人の女達が集う。五人は円を創ると中心に目を向け、その身の力を一つ処に集めて、何かを見通そうとする。

 その五人に近づく気配が一つ。瑤姫は振り返る事はなかったが、気配に気づいたのか、僅かに顔を上げた。


「随分と遅かったですね」

「俺にだって、生活がありますから。多少は大目に見て頂きたいですね」


 暗がりから声だけが届く。煙の如く揺らめくそれは、はっきりとした形を持つと同時に輪に加わっていた。白い衣の中で、唯一黒い衣で身を包む燼は、暗闇の中に今にも溶けてしまいそうだが、その表情は鋭い。


「燼、貴方が見たものを、此処へ」

「……えぇ」


 燼が返事をした瞬間に、六人の足下の景色が変わった。何も無い暗闇に映し出されたのは、燼が崑崙山で見たままの、の姿だった。

 その形こそ靄に包まれているが、鼓動の音だけは、大きくよく響いていた。

 誰もが、その姿に目を落とし、言葉を飲み込んでいた。燼は何気無く王扈を見るも、他の神子と同じく、その瞳は呆然と言葉を失っていた。

 そして瑤姫の瞳は、その姿を瞳に映すも、直視出来ないとでも言うように目を伏せていた。

 

「……これは、夜の異形で間違いないでしょう」

「だが、これは身体の一部なのだろう?」

「えぇ、長い時を掛け、封印の中で育ってしまった」


 怯える神子達の中、瑤姫だけが、冷酷な目をそれに向ける。


「六仙が作り出した封印は強固です。それこそ、現世で完全に孤立する程に。だからこそ、今まで誰も気がつかなかった。貴方以外は」


 全員の目が、燼へと向いた。


「それは、大きな問題ではないだろう。重要視するべきは、いつ目覚めるかだ」


 今も尚、記憶の中のは、一定の間隔で胎動を続けている。ゆっくり、ゆっくりとなる度に、悍ましくもある。

  

「これはあくまで、貴方の記憶が映し出したもの。現世に封じられたこれを見るには、一度現地へ赴かなければ」

「それは、俺が陛下に命じられた。だが、俺の目では限界がある。俺に見えるのは、あくまで、そこに同じものがいるかどうかだ」


 燼は、瑤姫を見た。勅命は降ったが、白銀を持つ神子達の能力を前にすると、少々心許ない。燼が神子達に何かを依頼するのは無理があるが、今この場で頼み事をするのであれば、返事を聞くだけだ。

  

「……そうですね」

「誰か一人、共に行ってくれるとありがたいが」

「……えぇ」


 どうにも、歯切れが悪い。その顔は美しくも、物悲しい。

  

「神子瑤姫、何を考えている」

「……何……とは」

「これも、の仕業か?」


 瑤姫が何か勘づいている、いや、何か確信を得たとしか思えなかった。燼は追求する様に、口調は強くなる。相手は、同じ神子とは言え、神農の娘だ。皇孫の従者とは言え、平民の燼とでは格が違う。

 とても、瑤姫に対する態度では無かっただろう。いくら夢の中とは言え不躾だと、華林の顔が強張った。 

  

「燼!無礼だとは思わんのか!!」


 人一倍気の強い姿の華林だが、燼はぴくりとも反応を見せない。流石に、神子と会って、食って掛かる事こそないが、その目に力が篭る。

  

「華林、燼も神子の一人。我々と同格なのです」


 そう、神子とは、皇帝と同等の権威を持つ。燼は国に認められた存在ではないが燼が神子である事は、この場にいる誰もが存じている事柄だ。だからこそ、燼は何も動じないのだ。

  

「では、答えてくれるのか?」


 瑤姫の瞳は憂いていた。今も、足下で胎動を続けるそれを目に捉えながら、苦しくも言葉を吐き出していた。

  

の仕業に決まっている。が動き出すなど、あり得ない。は、本気で……」

  

 その声は震え、瑤姫の姿が今にも消えそうな程に儚げだった。  


「神子瑤姫、の心を知るのは、貴女だけだ。は、俺に何をさせたい?」

「……二つ目の使命の全う。それが、全てです」


 本当に、それだけだろうか。燼は、瑤姫の返答に納得していなかったが、それ以上の糾弾はしなかった。瑤姫のそれ以上ない、儚げな姿を前にできなかったのだ。との繋がりを持つからこそ、その心苦しさがあるのだろう。神と神子との繋がりが希薄な燼にとって、その姿は理解できぬ物でもあった。

  

「もう一つ、陛下に命じられたのは三箇所だけだ。祝融様は五箇所あると言った。最後の一つは何処だ?」

「……皇都です。詳しい場所を知るのは、恐らく神農陛下と、霊宝天尊のみ」


 燼は驚いた。皇都で、一度として気配を感じた事が無かったのだ。 

  

「そんな近くにあって、何故見えない」

「恐らく、そこは我々にも見えないでしょう。四つの異形の死肉を柱として、最後の一箇所を封じたのです」

「だから、俺に見ろと言わなかったのか?」

「恐らく」


 燼は頭を抱えた。が目覚めれば、皇都の封印が弱まるか、破綻か。どちらにしても、結末は最悪だ。   


「……たかだか一人を殺す為に、国を滅ぼすのか?」  

「もう、分からなくなっているのです」


 気丈に振る舞うも、もう隠す余裕もないのだろう。瑤姫の瞳は、今にも泣き崩れそうな程、悲嘆にくれている。


「憎しみに囚われ自分が何をしようとしているのか。もう時期、私の事すら、忘れてしまうでしょう」

「止める手立ては無いのか?」


 その言葉に、瑤姫が僅かに反応した。そして、小さな声で、ぽつりと溢した。 

 

「……燼、神を手に掛ける。それが意味するものをご存知ですか?」


 神を狩る、その覚悟。燼は、神を止める術が無いと告げられているのだと、気が付いた。  


「そろそろ、気付かれます」


 その言葉を合図に、誰もが杞憂の表情を浮かべながら一人、また一人と姿を消していく。そうして、瑤姫が消え、最後に残った王扈もまた、燼から目を逸らしながら、暗闇の中へと姿を消していった。

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