六
「あら、絮皐。何だか嬉しそうね」
そう言った女は、針を刺す手を止める事なく、絮皐の顔を見ていた。袖口の刺繍を細かく縫っている最中の筈だが、時々目を落としては、すらすらと糸を通し鮮やかな赤い花を咲かせている。
「え、そう?」
惚けた絮皐の顔は、確かに嬉々とした表情を隠せずにいた。言われて初めて顔に出てると気づくと、慌てて針に集中している振りをして俯いたが、背後にいた別の女がニヤニヤと絮皐を覗き込んでいた。
「さっき、絮皐の亭主が来てたの見たわよ。惚気てんのよ」
「そう言う事。いつも留守なんでしょ?今日は早く帰らないとねぇ」
茶化している掛け合いの中、絮皐は更に針に意識を向けていた。そう、早く帰らなければ。燼が、春に帰ってくる回数は少ない。仕事が終わる頃合いに迎えに来ると、わざわざ仕事場に顔を出してくれた事がなによりも嬉しかった。
「熱いわねぇ。結婚して一年でしょ?羨ましい限りだわ」
「あんたんとこだってそんなに変わんないでしょ。喧嘩ばっかりじゃない」
「あたしだって、絮皐とこみたいに男前だったら優しくもしたわよ」
高らかに、何とも楽しそうに笑う女達。釣られて、絮皐も笑うも、白髪混じりの店主にぎろりと睨まれているのが見えると、慌てて針に集中していた。
――
「絮皐、亭主が店の前で待ってるよ。帰んな」
あと少しで針が刺し終わる所だったが、それを聞くと絮皐は手を止めた。
「亭主に言っといてくれ、他にも良い客連れてきてくれって」
「
「そうかい」
今一つ、店主は納得はしていない顔だった。顔をニヤつかせ絮皐の言葉を信用していない様子。
絮皐は、沈という男が営む縫製工房で働いていた。針子の仕事を幼い頃に下女達にある程度学んでいた事や、手先の器用さを褒められた事があると言うと、勧められた仕事だったが、意外にも向いているのか、苦にならない。仕事自体は楽しいし、快活な女達はお喋りだが絮皐の火傷も出自も気に留めない事が、絮皐には居心地が良かった。
ただ、沈は人柄は悪くは無いのだが、商売人の為か、少々欲深な面もある。絮皐が働き始めてからというもの、上得意の客が増え、皇孫の妻である槐を皮切りに、風家や黄家から注文が入る様になったのだ。
元々貴族相手に商売をしていたのだが、小さな工房の為、高位貴族が客として現れるなど初めての事だったのもあり、店は繁盛している。勿論、客も腕が悪ければ一度きりの付き合いで注文して終わりなのだろうが、沈の店の女達は腕が良く、細かい刺繍が売りだ。黄家や風家が着ているものとなると注目もされ、話題にもなるらしく、店の売上は上上だった。
仕事が切れないのはいい事だが、この所忙しさが目紛しい。それでもまだ満足していないと言うのだから絮皐は呆れていた。
「絮皐、沈さんに何言っても無駄よ。欲目の鬼に取り憑かれてるんだから。神殿に行って、厄祓いでもしてもらわないと」
「確かにね」
またも、女達が高く笑っていた。
「お前らも、とっとと帰んな。店が閉められねぇ」
欲目の鬼などと言われ、罰が悪いのか、沈は早く帰れと言うばかりだった。
「じゃあ、沈さん、また明日」
同僚にも手を振り店を出ると、絮皐は首を左右に振った。皆が帰路に着き、しかも大通りとあって人通りの多い時間帯だ。燼は人混みが嫌いで、大抵端の方にいるか、少々裏通りに入り込んでいたりする。今日は何処だろうか。探す羽目になるかと思っていたが、意外にも、扉直ぐ横の店の壁に背をつけ、呆然と空を仰ぐ燼の姿があった。
「燼」
声をかけると、漸く絮皐に気が付いたのか、絮皐を向く。その顔は、いつも通りで優しく微笑んでいた。
絮皐が近づけば、自然と二人は手を繋ぎ歩き始めた。『人が多い時間は人混みに流されそうになる』。そう、絮皐が言ったことが始まりだったが、燼はそんな些細な言葉を覚えていた。
「店主に終わるまで待ってるって言ったんだが、随分と早かったな。大丈夫だったのか?」
「沈さん、燼がまた、お得意様を連れてきてくれると思ってるみたい」
だから気を遣ってくれたのだと言うと、燼は楽しげに笑っていた。
「そりゃ無理だ。そう言うのは槐様に強請るしか無いな」
とても強請れる様な相手でない事は燼も良く知っているからだろう。いつだったか、誰かが欲目のある言葉を吐き出せば、流麗なる顔が、がらんと無に変わるのを燼は見た事があったのだ。その姿は圧巻で、只の貴族でない事を思い知らされもした。
「あ、でも俺も一着良い衣がいるかもしれない。直ぐじゃないんだけど……」
楽しげな表情から一変、何かを思い出した様に、ポツリと溢すも、少々嫌そうな顔だった。
「何かあったの?」
「うーん……ちょっとな」
燼がはぐらかすのは珍しい事だった。恐らく、言えないのだろうと絮皐は察するも、気にはなる。何より、不安を煽る表情だ。燼は基本明るく振る舞う為、絮皐は思わず燼の手を握り締めていた。
それに気付いてか、燼もその手を強く握っていた。
「また直ぐ出るの?」
「うん、明日の朝には出ないと」
「……そうなんだ」
絮皐は燼の腕に擦り寄りながら、俯いた。今回は怪我無く帰ってきたが、また、行ってしまうのか。そう思うと、その手が、腕が離し難いものになっていた。
ふと、人の流れに乗る中で、燼がぴたりと足を止めた。釣られて絮皐も足を止め、顔を上げ燼を覗き込んだ。
「あんまり、一緒に居てやれなくて、ごめんな」
その顔は翳り、申し訳なさで一杯だった。絮皐が、いつしか寂しさを口にしたからだろうが、何故、燼がそこまで自分を気にかけるかは、絮皐には分からなかった。
「何で、燼が謝るの?あたし、人生で一番真っ当な生活してるよ?」
それまで、好きに生きてきた。兄に言われるがままに行動し、これといって自分の意志があったのは、夜を共にする相手だけだ。それが、どうだ。兄の帰りを待って膝を抱えていたと言うのに、見覚えのある、お貴族様が目の前に現れたかと思えば、兄の死を告げ遺言をわざわざ届けに来たのだ。
燼の申し出がなければ、今も、兄の死に泣き暮れるだけだっただろう。
「魯粛が残した手紙に、書いてあったんだ。自分じゃない誰かと好きに生きろって。だから、十分だよ」
本当は寂しい。もっと、一緒にいたい。絮皐は、聖人の如く自身を想ってくれる男を前に、思うままに口走りそうになったが、燼の役目とやらを無視して引き止める程、愚かにもなれなかった。
「ほら、行こ。今日は、外で食べるから迎えにきたんでしょ?何にする?」
「そうだな、混む前に行こうか」
お互いの顔を見れないまま、胸につかえを残した二人は、再び流れに乗って歩き出した。
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