五
皇宮の一角
燼は、その身に纏う衣の衣擦れの音一つにすら、気が気でない様子だった。一体どれだけの値が張るのだろうか。静瑛が持っている衣の中でも地味な方らしいが、それでも高価な事に変わりはない。祝融の背後に着いて歩いているだけだが、向かう先も、これから会う人物も、燼が平民として生きているのなら、決して相見える事の無い方達だ。
その為に、燼は比較的体格の似ている静瑛の衣を借りて着ていた。藍染の衣の裾は長く、歩く度に長い袖と擦れ合う。しかも、二重三重に衣を重ね合わせた所為で、動き辛くてたまらない。何より、春先とあって衣が重いだけでなく暑苦しい事この上ない。
貴族とは、こんな苦労があるのか。貴族に生まれなくて良かった、などと変な方向に思考が働いていた。
「(息苦しい)」
うっかり、首に手を持っていきそうだった。首元を緩め晒しそうになる。普段は、首元まで襟のある服など着ないから自然と手が動くのだろう。目眩すら起こしそうになる状況で、燼はうっかり溜息を吐いてしまった。その瞬間に、前を歩いていた祝融が立ち止まり振り返っていた。
皇宮一角ではあったが、まだ人の少ない回廊とあって、余裕があるのだろう。と言うよりも、祝融は心底、燼を心配しているのもあった。
「燼、大丈夫か」
「……死にそうです」
「今日は、雲景も彩華も居ない。侍従の真似事をしろとまでは言わないが、粗相はするなよ」
燼は、今まで皇宮内部へと足を踏み込む事は無かった。侍従として側にいるのは、いつも雲景だ。時々、彩華が代役を務めるが、貴族として教養の無い燼では無理だと言われ、経験は無かった。実際、燼も無理だと言うだろう。立ってるだけなど、辛すぎる。
だが、今日は指名されてしまったが故に、回避は不可能だ。それに当たり、彩華と雲景から助言はされていたのだが。
「許可があるまで、顔を上げるな。喋るな……ですよね」
助言というよりは、余計な事はせず大人しくしていろと言っているも同然だった。
「彩華に指先一つにも集中しろって言われました」
「それぐらい気をつけろって事だろ。部屋に入ったら、溜息など以ての外だからな」
「……分かってます」
燼が苦し紛れの苦笑いを見せるも、一瞬で無表情へと戻していた。一応、従者としては永く勤めている。相手が相手で緊張はするが、場数は踏んでいるのだと自分自身に言い聞かせていた。
「行くか」
「はい」
そして、再び歩き出した二人が向かう先は、皇宮本城の中にある、清白の間。黒漆の扉を前に、燼は息を呑んだ。これまでに無い緊張と、些細な粗相すら許されない場に呼ばれた事が真実味を増してくる。
場違いだ。その先に誰がいるかを考えれば考える程、恐怖にも近い悪寒が燼を襲っていた。
「(何で俺こんな所にいるんだっけ)」
扉側に立つ、中にいるであろう者達の侍従が扉前で待機している。
「祝融殿下、お待ちしておりました。中へ」
重々しい扉が開く。彩華の助言はある意味当たっていた。指先までもが震えるほどに緊張している。どくどくと脈打つ心臓の音が早鐘を打ち鳴らし、悲鳴を上げていた。
一歩、一歩を進む感覚が浮遊感を覚えながらも、そのまま奈落の底へと落っこちてしまいそうだった。何とか、祝融の姿と一挙一動を注視する事で意識を保っているが、それもいつまで続けられるだろうか。
だが、部屋に入ってしまうと、そうも言っていられなかった。前を向く燼の目に入ったのは、六人の姿。
この国の基盤とも言える、神の代理人達。
神にも近いと言われるその者達を、六仙と呼ぶ。
人の姿をした神、目に見ることの出来る神。それを称して『仙』なのだそうだ。
その六人を視界に捉えたまま、祝融がぴたりと止まった。そうして跪き、頭を垂れる。燼もそれに続いた。その意味を深く感じながら。
「姜祝融と我が従者、
静寂の中に、祝融の声だけが響いた。
冷んやりとした床の冷たさを感じながら、燼は音にだけ耳を澄ませた。気配だけは嫌と言う程に威圧感として感じるのに、誰一人として呼吸の音すら聞こえなかったが、扇子を広げる音が静寂を遮った。
「祝融、それが、異変を見つけた夢見か?」
静かな、女の声が聞こえた。
「左様に御座います」
「……何故、手許に夢見が居ると隠しておった。盗られるとでも思うたか?」
「僭越ながら、夢見は貴重。ましてや武人として腕も立つ男です。そう易々と手の内を明かせば、以前の私の別の従者の様に軍部に引き抜こうとする者も現れた事でしょう」
祝融は淡々と語ったが、燼には「言うわけないだろ」と喧嘩腰に言っている様にも聞こえていた。
「(此処に来ても、祝融様は怖く無いのかよ……)」
内心、燼は威圧の恐怖よりも祝融の発言に冷やりとしたものを感じていた。普段とは違う主人の姿に燼は祝融が雲上人であると思い出した瞬間でもあった。
「それが、以前言っていた、黒龍が連れてきた獣人族の子供であろう。どれ、姿を見せてはくれぬか」
立て、と同義だった。が、主人である祝融が跪いている状態で、立てる筈が無い。一体何を試されているのか。
発言が許可されぬ中、その許可を申し出る事すら憚られる。燼は、罰せられようと、立ってはいけない。そんな気がしていた。
「おや、どうした?」
クスクスと笑っている女の声が響いていた。かくも美しい声が、ゾッとする程に冷淡にも聞こえる。嫌な気分になる声だ。そう感じたと同時に、別の声が響いていた。
「西王母、それぐらいにしておけ」
ぼそりとした男の声が、女を静止していた。
「姜祝融、羅燼、面をあげ立ちなさい」
助け舟とも思える発言で、二人は立ち上がる。その瞬間に、視線が燼に集まるも、燼は無表情を貫くだけだった。そして、燼も漸くはっきりと六人の姿を捉えていた。この国最上位の存在が眼前に並び、硬い表情の向こうに思惑は知れない。
「成程、確かに目を持っているな」
そう言ったのは、西王母を静止した男だった。長い黒髪が揺れる。優男とも思える顔立ちは、燼の目には白髪白髭の好々爺の次に穏和に見えたが、不穏な発言でそれも消えていた。
どの道、夢見である事は明白なる事実な訳だが、下手に中身を見せる事は出来ず、咄嗟に力を遮断していた。
「ほぉ、東王父、見えるのか」
白髪白髭の翁が嗄れ声で反応を示すも、面白がっている様だ。
「あぁ。だが、彼方の方が上だ。勝手に中は覗けん」
「お前よりも上か。中々の逸材だ」
嫌な会話だった。値踏みされている事この上ない。能力を遮断した事こそ咎められはしなかったが些か強引だっただろうかと、不安も過ぎる。
燼は、夢見と対峙する事は、これまでの経験で少ない。そもそも、夢見自体が名乗り出ないのもある。大抵彼らは、ひっそりと自らの内に残った、小さな力で、不可思議な夢を楽しむだけ。本当の力を残した者は一握りで、燼の様に神子に指南される程に達者な者は、極々僅かなのだ。
そう、だから、東王父よりも上を指す燼の力は、神子に次ぐ能力と言っているも同然だったのだ。
「これでは、隠したくもなる。致し方あるまい」
気を抜くべきでは無いが、夢見の力をそれ以上追求されないだろうと、胸を撫で下ろした瞬間だった。
低い、重い声が、燼の耳に届いた。
「お前は、何者だ」
炎帝神農。その声は、それまでの誰よりも威圧が含まれていた。距離がある筈なのに、まるで頭上から押し付けられている感覚。
恐ろしい。その畏怖は、何かを思い出しそうになる。何かに似ていると感じながらも、ただただ恐ろしかった。
だが、答えねば。そう思い、一呼吸置くと、燼はそろりと口を開いた。
「私は、只の獣人族に御座います」
声は、震えていない。が、それ以上は、恐怖が声に滲み出そうだった。
「獣人族に、姓があるのは、珍しい。祝融、お前が名を与えたのか?」
「昨年、羅燼が婚姻した際に、祝いとして与えました」
神農は、静かに、そうかとだけ呟いた。静かに頷くと共に、その顔に変化はないが、目はより鋭くなった。
「それで、羅燼。お前が見たものは事実だな。何を見た」
畏怖は消えていないが、燼の顔が変わった。その性根故か、危険極まりない存在に関して、途端に厳たる表情となっていた。
「崑崙山に胎動を見せる異形が見えました」
「祝融、結界はどうだ」
「結界は以前維持されており、私を含め従者二人には気配すら感じられません」
「では、他も確認する必要があるな」
神農は判断に迷いを見せなかった。燼を真っ直ぐに捉えると、重々しい口を簡単に開いていた。
「羅燼、お前に任命する。
「御意」
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