第六章 宵闇の異形

『お前さえいなければ』


 据えた目が、少女を見下ろしていた。もう、何度目かも分からない目の前の父親の言葉に、少女は頷く事も首を振る事も無い。

 どっちにしろ、結果は変わらない。むしろ、反応を示す方がより酷くなる気がしていたくらいだ。指先一つでも動かせば逃げるか抵抗すると思われ、声を上げれば煩いと罵られる。声を上げたところで、誰一人見て見ぬ振りをするから意味は無い。この家で一番偉いのは父親で、皆、自分が一番大切だ。

 使用人風情が口を挟めば、即時、仕事を失うのだから何も言わない方が身の為なのだろう。皆、家の主人であり、雇用主である父親を恐れている。

 日々酒を飲み、荒々しい声を上げる。何に怒りを向けているかは一目瞭然で、その対象が自分にならない様に、関わらない事を第一としていた。

 それでも、近くを通った時は、横目で同情の目を向けている。痛々しい幼子の姿に目を伏せ、心を痛めているのか一瞬迷って足を止める事もあるが、矢張り、そのまま行ってしまうのだ。

 皆、父親が怖い。

 だが、その父親を恐れない者もいた。ただ一人、身内の兄だけ。物事に無関心で、蔵の中で一人本を読み耽る。助けを求めようかと手を伸ばした事もあったが、兄にとって、少女は存在しないも同然に過ぎ去っていくだけだった。

 そうこう考えているうちに、父親の左手が再び胸ぐらを掴んでいた。高く掲げられた右手に、目を閉じる。

 そうしてまた、呟くのだ。

 

『お前さえいなければ』


 ――


 殴られる衝撃が現実にまで、飛び出てきた。女の身体はびくりと跳ね上がり、夢から一気に現実へと引き戻す。女は殴られた右目を触るも、火傷の跡のでこぼことした手触りがあるだけで痛みは無い。最悪の夢だったが、寧ろ目が覚めて良かったとも言えた。

 だが、悪夢の記憶が鮮明で、もう一度眠る勇気はない。眠れば、また同じ夢を見る気がして無理矢理にでも頭を叩き起こしてしまいたかった。

 正直に言えば、まだ眠っていたい。何せ、明日も仕事がある。だが、悪夢は嫌だ。女は悩むも、どちらを優先させるかを考えると、矢張り悪夢は御免とゆっくり身体を起こした。広い寝台で、特に何をするでもなく、膝を抱え天井を見る。下手に動くと隣で眠る男を起こす可能性がある為、出来る事は少なく天井を見上げながら考え事をするくらいだ。

 と言っても、悩みがあるわけでもない。何か小さな困り事が起こっても、大抵、同居人が解決してしまうからだ。女は、ふと広い寝台で横を見た。隣で背を向けながら静かに寝息を立てて眠る男。一応、女の夫に当たるが、真っ当な夫婦とは程遠い。

 不思議な縁で夫婦となった男だが、本来なら隣に寄り添って眠る必要は無い。にも関わらず、女が寂しいと呟くと、その望み通りに寄り添った。

 男は、優しかった。優柔不断や偽善では無く、只自然に優しい。夫婦となり、男が大黒柱になったからと金銭的な負担はさせず、女が稼いだ金は好きに使えば良いと言う。遠出をすれば土産を買い、帰って来れば、女が何か困ってはいないかと必ず聞いた。

 戸籍上は夫婦だが、それは女が特殊な不死である事を隠す為だけに婚姻を結んだだけだ。しかも、男が夫になる必要は何処にもなかったが、女が困っていると男は言った。


『戸籍で隠せるなら、俺と縁組すれば良いのでは?』


 と、あっさり言ってのけたのだ。これには、女だけでなく、女の事で頭を悩ませていた男の主人も驚くどころか、安易に口にするなと叱りつけていた。更には、まわりも何を考えているのだと、騒ぎ立てた。

 しかし、男も楽観的に物を言ったという事でも無いらしく、男曰く、「今後、恐らく誰かを好いて、結婚する事は無い」のだそうだ。だから、それも手段の一つなのだと。そうなると、主人の方も困り顔であったが、後は女次第なのだと言った。

 女は、思い悩む事は無かった。他を頼るにも手立ても伝手も無い。目の前にいるのは、人生で一番無害な顔をした男だ。女は、躊躇いもなく助けると言った男を頼る事にした。

 そして、今日に至るわけだが。

 既に、男と共に暮らし一年が経った。意外にも、夫婦らしく生活し、ぎこちなさも無い。それは、女の行く末を心配した兄が残した生活だからというのもあったが、夫となった男に嫌われたくなくて、それなりに努力をしているという理由が大きかった。それまで、誠実とは程遠い生活しかしてこなかったのもあって、男の様な真っ当な仕事をしている人が珍しかった。男は真面目で、仕事一筋。更には、生活も質素。それなりの稼ぎがあるらしいが、殆ど手をつけていないのだと言う。

 恐らく、長期間家を不在にする事が多々あるという事を除けば、夫として最良な相手なのだろう。だから、女も男に見合う様、それなりに誠実に生きる事にした。 

 女は、再び横になると男に擦り寄った。男は一度眠ってしまうと、深い眠りにいるのか夜中に目覚める事は無い。

 どんな夢を見ているのだろうか。

 女は男の背にぴたりとくっつき、その体温を奪っていた。


 ――


 男が長期間、家にいるのは大体冬なのだそうだ。勿論、冬でも仕事が舞い込めば、外に出なければならないらしいが。

  お陰で、寒さを凌いで眠れるのだが、朝になると、大抵男の姿はなかった。男は、女に遠慮して起こさない様に寝台を抜け出すのだ。ぼやけた視界で、がらんと空いた寝台を眺めると、その身を起こす。男の居所は、知っている。大方、外で剣を振っているのだろう。だからと言って、外に行ってまで男の体温を求める事は無い。女は、自分の部屋へと戻って着替えると、台所へと顔を出した。

 台所では、使用人のランが朝食の準備を始めていた。ランは若いが、既に仕事は慣れた様で達者に動き回っているが、女が台所を覗き込むと、その動きも一瞬だけ止まる。


「奥様、おはようございます」

「おはよー」


 挨拶を交わすと、ランは再び動き出す。女がそうやって台所に来るのは毎日の事だ。女も、勝手知ったるとなった台所で、ランを避けながら竈へと近づく。竈に掛けられた二つの鍋の内、一つは粥が作られているが、一つは湯が沸いているだけだ。湯呑みを二つ取り出し、湯呑みの中に湯を注ぐ。熱くて直ぐには飲めないが、それを手に持って温まりながら、一番暖かい台所の入り口で座り込み、ランが動き回るのを見ているのが日課だった。

 そうしていると、朝食が出来上がる頃に、玄関の開く音がした。男は頃合いを見計らって、鍛錬を止める。その音が合図か、女は立ち上がると、丁度良く冷めた白湯を手に玄関へと向かう。

 すると、男が玄関先で座り込んで大きな剣を布に包んで仕舞っているところだった。女が近づくと振り返り、女が無言で差し出した白湯を受け取る。


「助かる」


 それまで、剣を振っていたとは思えぬ程、朗らかな顔をしているが、身体は汗まみれだ。


「今日も仕事だろ?」

「うん。また、槐様から注文を頂いたの。明日は、お休みの筈だけど」

「そうか。それなら、明日何もなければ市場に行くか」


 男は、優しい。せっかく一緒に暮らしているのだからと、何かと傍にいる事を心がけてくれている。それは、女が兄と死別して寂しいと口にしたのが原因だろう。最初の半年こそ、泣き暮れ、男が家に戻る度に縋り付いた。その度に、男は優しく抱きしめ、背を撫であやした。


 不思議な男だ。その優しさは聖人の如く、女を受け入れる。そうしている内に、それまで、女は色恋をした事が無かったが、男に対してそう言ったものが目覚めていた。性的嗜好も同性が対象だったが、初めて異性へと向いていた。夫婦なのだから、そう言う関係になっても誰も文句は言わないが、一緒に暮らす前に男に言われた事があった。


『一緒に暮らすからって、手を出したりしないから安心して良い』


 その言葉通り、男からは一度として手を出されていない。何も、そこ迄聖人になる必要は無いのではとも思うのだが、女を黙認すると言う赤色の龍人族の条件もあるのだろう。


『子を授かってはならない』


 女の素性が判らぬ今、出産が女にとって最も危険な行為であり、龍人族が恐れている事でもあった。

 何が生まれるか判らない。女は自らが如何に特殊かは知っている。どの道、自らの過去を思い起こせば、子供など微塵も欲しいとは思えなかった。

 それでも、目の前の男に女として見て欲しいという事だけは、諦められそうにない。

 女は、ゆっくりと白湯を飲む男の隣に座った。


「……どうした?」

「燼が熊になったら温かそうだなって思って」

「その代わり、でかくて邪魔だけどな」


 そう言って朗らかに笑う男の横顔を、女はじっと見る。無害そうと称される事が多い顔立ちらしいのだが、不死の為か、さっぱりとした青年の様相を残しているからなのだろう。気取らず、男の性格を現した様な顔が、女には好ましかった。

 ゆっくりとした時間が過ぎていく。男が白湯を飲み終わる前に、ランが近づく音が聞こえた。


「旦那様、奥様、朝食の準備が出来ました」

「今行く」


 男は立ち上がると、女にそっと手を差し出す。さりげない仕草に手を預けると、ゴツゴツと硬い掌の感触がしていた。その手が、それまで剣を握ってきた日々を物語っている。仕事がない時期は休みに値するが、男は気を抜かない。日々、剣を振り、鍛え、主人達とも手合わせをしている。

 ある意味で、それも仕事なのだと。

 男の仕事は命懸けだ。女も、妖魔狩りの仕事の経験はあったが、それよりも格上の存在を各地で討伐して回っている。しかも、男は不死だ。仕事に終わりが無い。

 もう、二十年以上その仕事を続け、その内の何回かは、死にかけているのだとか。何故、続けるのかと、女は聞いてしまった。踏み込んではいけない領域にも思えたが、女は男が純粋に心配だった。


『それが、俺の役目だから』


 物悲しげな目で、男は淡々と答えた。

 兄とは真逆の男だった。欲望のままに生き、力に溺れた兄と、力を他人の為だけに使い続ける夫。

 女は兄を思い出すと、同時に兄が最後に残した手紙の内容が頭に浮かぶ。そこには、『俺では無い、誰かと、好きに生きろ』と書いてあった。

 兄には不思議な力があった。その導く先が、夫となった男かどうかは分からない。それでも、女が唯一愛せるのは、この男だけだと、確信していた。

 例え、男が女を愛さなくても。


 不可思議で、穏やかな日々が続く。そうして、また、春が来る――

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