番外編 常闇の邂逅

 常夜と呼ばれる世界で、夜の小道が輝く。

 その姿は、はるか昔から変わらず、人を惑わし、導き、何も語らない。美しくも、悍ましい。特異な力を持ってして初めて見える光景だが、その実、見えるからこそ、その悍ましさも、美しさも同時に味わえるが、その力が無ければ、その世界は虚無の闇だ。

 その力に目覚めたその時から、燼は、その光景に魅了されているのだと、分かっていた。、景色に没頭する姿は、その特異な力の頂点にいる神子からも異様だという。

 うつろう世界の片隅で、燼は物悲しい顔を残し、いつもの場所で道に目を向ける。が、その瞳に景色は映っていない。

 あの事件があってから、燼の目は景色を映さなくなった。

 その世界が見える目を持つからこそ、助けられた筈だった。いっそ、他人と同じ虚無だけの世界ならば無力感に苛まれる事も無かっただろう。それが、近しい存在であったなら尚更で、最後にに引き摺り込まれた情景が、今も脳裏に残り続けていた。

 どれだけの時間かが過ぎた頃、背後に慣れた気配が現れた。白い衣と、短い白銀の髪をこさえた女は憂いた顔を見せている。


「燼……」


 神子王扈は燼の隣に座ると寄り添った。顔を覗き込んでも、泣いてはいないが、何も言わない。子供の様に膝を抱え、道をじっと見る。

 王扈の最初の言葉通り、後悔に苛まれる姿が、胸を締め付けた。

 王扈を責めてはいない。無力感に打ちひしがれながらも、誰もいない筈のそこで、只、耐えるのだ。

 間に合わなかった。もっと、慎重になるべきだった。もっと早く気づくべきだった。に悟られない術を考えるべきだった。

 そして、王扈の言葉を、もっと深く考えるべきだった、と。


「燼、力になれなくて御免なさい」


 燼の落胆ぶりを、王扈は見ていられなかった。何かしなければと考えるも、出来ることは少なく、背をゆっくりと撫で、その身に触れる事だけだった。

 実際は、そこに肉体は無い。あるのは、魂そのものだ。現世の感覚のままにそこにいるから、肉体がある様に感じるだけ。記憶に染み付いた肉体の感覚が、幻覚にも近い形で、さも、そこに肉体があるかの様に感じるだけなのだ。

 それは、燼も分かっていた。だが、今は、王扈が優しく撫でる手が、心地良いと感じている。それは、触れる王扈の感情が流れ込んでいたのもあった。

 同情ではなく、燼を心配して孤独を紛らわせようとする優しさ。神子とは、聖人だが、ただ万人に向けるものとは違って、の様に寄り添っている。


「なぁ」


 ふと、燼が声を上げた。声に合わせて、王扈の手は止まり首を傾げる。


「最初から分かってたのか?」


 その言葉の指す意味は、薙琳だろう。結末は見えていたのか?と問うていた。


「……見えたのは、種を植え付けた所です。妨害は出来ない。あくまで、結末を変える為に悟られない程度の些細な助力しか出来ないのです」


 そして、失敗しましたが……と、今度は王扈が項垂れた。


「ごめん、俺が勘付かれたから」

「違います、夢を盗み見た事を知られてしまったのです。小さな痕跡を、に見つかってしまった」


 神子王扈は五人の中で一番若い。未熟では無いが、神子瑤姫程に卓越してはいない。そして、神子として生まれ、神の言葉を伝える者、神の存在を証明する者として、その役目を全うする為だけに存在する筈の彼女は、一人の青年の為にその御力を利用してしまった。

 未熟だからでは無い。苦しむを僅かでも救いたかった。


「ごめんなさい」

「……良いんだ。こうやって、一緒に苦しんでくれる」


 二人は、現世で顔を合わせた事がない。にも関わらず、白神の子という縁だけを頼りに隣に並んでいる。

 静寂の中の二人は、朝日が登るまで、そっと身を寄せ合っていた。


 ――

 ――

 ――


 ちらほらと、皇都にも雪が舞い始めた。まだ初雪だからと、悠長にしていると段々と積もり積もっていく。 珍しくも、庭は白一面となっていた。

 そうなると、使用人の女達の足元が不便になる。そこ迄を彼女達にやらせるのも気がひけると、燼はせっせとすきで雪を掃く。大して広くもない庭だが、剣を振る場は欲しい。結局、門から戸口までと、庭の半分の雪を取り除いていた。

 広くはないが、流石に一人でやるとなると大仕事で、何年かに一度の行事で不慣れなまま終わった作業は、寒さの中でも汗をかいていた。

 あらかた終わり、何気なく二階に目がいく。一番奥の大きな部屋。そこに、部屋の主はいない。というのも、昨晩から出かけたきり帰って来なかったのだ。

 何年か前から、度々そう言った事があった。帰ってくるのは、朝方か昼頃。幾ら鈍い燼でも、彩華の背後に男の姿がちらつく。多分、昨晩もその男の元へと行ったのだろう。大抵、「ちょっと出掛けてくる」と適当な事を言うが、当日は帰らないのだ。素直に、恋人に会ってくるとは言えないのだろうかと考えて、言い返そうかとも思ったが、本人が言いたくないのに口を出すのは流石に憚られた。それぐらいの空気は読める。

 そうこうしていると、視界の端の戸口が開いた。使用人の一人がそこから顔を出している。


「燼様、お茶が入りました」

「うん、今行く」


 白い息を吐きながら、燼も戸口へと向かった。戸口の近くで身体中に付着した雪を払い、中に入ると先程の使用人が茶を持って待っていた。

 玄関口に偃月刀が置いてあるのを見たからか、剣を振ると気づいたらしい。


「言ってくだされば、私共でやりましたのに」

「良いよ、どうせ暇だし」


 燼は茶を受け取ると、少しずつ啜った。丁度良いくらいに身体があったまったかと思ったが、汗を掻いたせいでまた、冷え始めた頃合いだった。

 悴んだ手をほぐすにも丁度良く、有り難い。


「彩華様は、出掛けられたままでしょうか?」

「うん。多分、遅くても昼には帰ってくるとは思うけど」


 使用人達も、何となくは勘づいている。龍人族だって恋をしないわけでもないらしい。燼は、その恋の感覚を未だに知る事は無いが、まあ、楽しいのだろう。と、少々無粋な思考に行き着きそうだった。燼も、曲がりなりにも男だ。一応、女性とも何度か誘いを受けて経験はしてみた。してはみたが、深みに嵌る事は一度もなく、その女性達とも一度会ったきりで、その後会う事も無い。

 静瑛が言う様に、女に慣れる事は出来たが、未だ、その楽しみだけは理解出来ないままだ。

 思考が濁り始めた頃、湯呑みの中身を飲み干すと、湯呑みを使用人に渡し、今度は鋤でなく偃月刀を持つ。再び外に出ると、慣れた筈の寒さが再び身体にこびり着いていた。


「冷えるな……」


 一度、最北端の地の寒さを知って、皇都はそれ程と思っていたが、時間が経つと身体がその記憶を忘れつつある。その時に比べ、格段に着ているものが薄いというのもあるが。

 雪掃きをした中心に立つと燼は、身を引き締め偃月刀を構えた。目を瞑り、獲物を軽々と振る。獣の姿とは違い、身軽なその身は俊敏に、軽やかな動きを見せた。その姿は真剣そのもので、今まさに、敵を斬り裂かんとしてる程に、その瞳に憎悪を宿す。

 その敵意は、誰に向けられたものか。憎悪が募る程に、その刃は鋭利な牙となるが、心乱れ、振りが大雑把にもなる。


『燼、集中しなさい』


 ふと、彩華の顔が蘇る。何度となく、感情が昂る度に彩華の叱咤が飛ぶと共に、首筋に矛を当てられる。燼の中のに向けるその矛のきっさきを思い出した瞬間に、昂った感情が引いていた。

 荒い呼吸を整え、再び構える。そうして、燼は只管に偃月刀を振り続けたのだった。


 ――


 ガタンと、門が音を立てた。燼は、門の向こうの気配に思わず手を止めた。門はかんぬきが嵌まっているため、開かない。それを分かっている筈なのだが、いつも一回は開いていないかどうかを確認しているらしい。仕方無く、燼は偃月刀をその場に勢いをつけて突き立てると、門へと近寄った。待てないのか、今度は門環が音を立て始めた。待てないと、大抵門を無視して飛び越えてくると言うのに、珍しい事もあるものだと、ある意味で関心したが急かされている様で、不審だ。


「開けてやるから、待ってろ」


 ぶっきらぼうに声をあげると、門環の鈍い金属音は鳴りをひそめた。そうして、閂を外し、門を開けると、小さな屋敷の主人とは別に、赤い髪の見慣れた男が隣に立っていた。


「……雲景様?」


 彩華は何やら気まずそうに目を逸らしているが、雲景はというと、いつも通りの落ち着いた表情だ。


「悪いな、燼、邪魔をしたか?」


 雲景の目が、地面に突き刺さった偃月刀に向いていた。燼も、汗まみれで、一目瞭然だろう。

  

「そろそろ昼時ですし、切り上げる所でしたから」


 そう言って、彩華をちらりと見る。


「取り敢えず、何か二人で話をするんですよね?俺、出掛けた方が良いですか?」


 雲景が、郭家邸に赴くのは珍しい。思い当たる用事もなく、何かしら重要な話でもするのだろうか、程度しか浮かばなかった。

 郭家が用意した家は然程広くはない為、密談をするには向いていない。使用人に聞かれる様なへまはしないだろうが、燼の様に耳が良いと話は別だ。だからと言って、汗まみれで出かける気はなく、昼食を食べたら出かけようかと考えていたのだが、雲景はその必要は無いと言った。

  

「いや、お前に話がある」

「……俺、何かやらかしました?」


 思わず出た言葉に、雲景が眉を顰めた。 

 

「思い当たる節でもあるのか?」

「此処最近は……無いですね」


 なら良いと、雲景の顔は元の落ち着いたものへと戻っていた。  

  

「取り敢えず、中へどうぞ」


 何も言わない彩華を不審がりつつ、三人は中へと入っていった。

  

 ――


 燼が、汗と雪に塗れた格好から着替えて応接間に向かうと、二人は長椅子の隣に座り茶を飲みながら談笑していた。その様子が、いつもと違う。二人が一緒にいる所など、何度となく見た事がある。その時の二人は、どこをどう見ても同僚か、親しい友人程度だ。なのに、今、二人は妙に距離が近い。燼の姿に気づいてか、会話を止め、その距離は離れた。が、違和感だけは残っている。

 二人の正面に座り、用意された茶を口に含みながら、ふと燼の思考に、彩華の男の影が浮かんだ。

 思わず、湯呑みを口から離すと同時に、ぽろりと言葉が溢れた。 

  

「彩華、もしかして、泊まりの日は全部、雲景様の所に?」


 その瞬間に、彩華の肩が大きく跳ねた。


「……えっと、そうです」   


 ああ、だから気まずいのか。

 今迄適当に出掛ける程度しか言わなかった余波が今になって出てきたのだろう。しかも、燼に言い当てられたものだから殊更気まずいのか、俯いてしまった。


「でも話って何ですか?」

「いや、彩華と縁組しようと思って」


 一瞬、燼は思考が止まる。今いま、恋人が雲景である事がわかったのに、そこで縁組の話が出て来るものだから、どうにも燼の頭が考えるのを止めてしまったのか動かない。

 二人とも、龍人族だ。何の問題もない。そんな程度の結論で自分を落ち着かせ、再度彩華を見た。


「目出度いっすね。で、それは何で俯いてるんでしょうか?」

「ん?今まで、隠していたからじゃないのか?」


 その言葉で、彩華は気まずそうにしながらも顔を上げたが、今度は両の手で顔を隠している。普段、淡々としているだけに珍しい姿だ。

 

「……燼、驚きもしないのね」

「いや、幾ら俺でも恋人がいる事ぐらい気付くぞ。相手が雲景様なのは驚いたけど」

「鈍くなかったのね」

「幾つだと思ってるんだよ」


 そう言いながら燼は茶を啜った。二人は、赤と黒という色の違いこそあれど、似合いだった。

 普段、色恋に興味がなさそうな彩華の様子が、浮かれてこそいないが、朗らかとしている事が、燼には意外だった。

 二人でたわいもない会話をしては、微笑んでいる。

 その様が、先程の雲景が言い放った縁組の言葉に現実味を持たせていた。

 現実なら、一つ問題が湧き起こる。


「(……俺、家探さないといけないよな?)」


 めでたい場で、空気を壊す発言なだけに今は言えないが、今まで通りと言うわけにもいかないだろう。のんびりとした自問自答に、危機感は無い。


「(のんびり探すか……)」


 そう、大して考えもせず出た答えは後回しにして、今はただ、幸せそうな二人に門出を祝ったのだった。


 ――

 ――

 ――


 常夜はうつろうが、世界に変化は無い。変わらない姿がそこにあり、何かを考えるのにも、何も考えずにいれる場としても、うってつけだ。

 一人になるには最適で、燼は眠ると同時に当たり前の様に夢の通い路に辿り着く。

 そして、その当たり前を過ごしていると、もう一つの当たり前が姿を表した。


「……今日は、嬉しそうですね」


 王扈は隣へ座ると、まず燼の顔を覗き込む。から、心配性にでもなったか、癖にも近い行為だ。そして、今日の様に上機嫌な日は珍しい為、王扈も釣られて微笑んでいた。


「うん、彩華が結婚するって」

「そうでしたか、それはおめでたい話ですね」


 政略ではなく、幸福になる為の婚姻。しかも、相手が信頼している先達となれば、何の迷いもなく祝福できる。


「ちょっとだけ問題があるらしいけど、俺は難しいことはわからないからさ。取り敢えず、何かお祝い用意しないと」


 終始嬉しそうに語り、何を贈ったら良いかが分からないと言う。二月前までの落ち込んだ様子はなく、その純粋な姿がを王扈も喜んでいた。

 

「では、私からも郭様に宛ててお祝いを贈りましょう」

「良いのか?」

「えぇ。ただ、神子からというと仰々しくなってしまうので、貴方の友人からという事で」


 そう言って、王扈はにこりと笑うと、静かに燼の左手を取り、包み込む。


「貴方にも、良き出会いがある様に」


 神子からの小さな祝福。神の魂を分けた存在である彼女達に、そういった力は無い。だが、その願いは優しく燼を包み込んでいる。


「俺は、今のままで十分さ。俺以外の皆が幸せになる様に祈ってくれ」


 穏やかな顔で語る姿は、物悲しい。王扈は燼の手を強く握り締めた。静かに、静かに祈り、願い続ける。

 どうか、多くを望まぬ青年が、いつか幸福をつかめる様にと。

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