第26話
鸚史は、薙琳から漂う気配が濃くなるのを感じていた。それは、刻限が迫っている事を示している。時は、もう直ぐそこだ。瞼を強く閉じると、息を吐く。思い出すのは、初めて会った時の事だ。
『今日から、宜しくね。坊ちゃん』
鸚史は、風家の次男坊という立場から、祝融と共に業魔討伐に参じる事が決まった。その時に、手練れの従者として選ばれたのが、薙琳だった。まだ、礼儀も身に付かず、言葉遣いも危うかったが、そんな事よりも、実力の方が重要とされた。
それまで、遊び相手は、歳の近い祝融や雲景ぐらいで、面白味があると思った人物としか付き合いも無く、薙琳の様な快活で媚びない人物が、鸚史には新鮮だった。
「俺も、歳かね。お前と会った時を思い出すなんて……」
既に、時は何十年と経った。当主の令息とお目付役から、主人と従者に。そして、友人へ。
なのに何故、こんな事になってしまったのだろうか。
何を間違えたのだろうか。
「なあ、何で頼ってくれなかった。何で、一人で突っ走った?」
返事は、返って来ず、敵意は増すばかりだ。
そしてそれは、時を迎えた。
薙琳から、はっきりとした殺意が生じた。鸚史の手をすり抜けた薙琳の瞳は、紅色に怪しく光る。転じるが如く姿は変わり、どす黒い獣の姿を晒す。それは、業魔そのもの。
その姿が、終わりを告げていた。
――
陰からの声が騒ぐ。ただ、話をしてるわけではない。只管に笑い、嘲、
「(なんだ?様子がおかしい……)」
薄気味悪い声ばかりが響く。それまで、魯粛は状況を楽しんで見ていただけに、陰の存在の声が煩いとすら感じていた。
最後まで楽しみたかったが、潮時か。
「(残念だったな、恨みを忘れりゃよかったのによ)」
魯粛は、薙琳に僅かばかりの情が湧いていた。人非人というわけでも無い。幕が降りれば、真っ当とは言えないが、それなりに平穏に生きる道に戻る。そうなると、虚ろな目をした女の最後を、憐れみ、偲んだ。
が、それもほんのい一時だ。欲望は満たされた。面倒な連中に絡まれる前に退散してしまおう。
やれやれと、魯粛が息を吐く。すると、絮皐もその気配を察してか、立ち上がっていた。
「ねえ、魯粛。
「あぁ、業魔かと思ったが……恐れをなして逃げ出したのかもな」
炎が魯粛の目にも映った。陰の声を聞く事が出来る魯粛は、一目でそれが何者か察していた。
「(まさかこんな所で拝めるとはな)」
天命を受けし者。そして、対峙するはもう一人の獣人族。
「(ありゃ何だ?)」
熊の獣人族にも見えるが、紅色の瞳が業魔を思わせる。異質な存在を、陰達は口にしない。その存在は、天命を受けし者とその従者を、その剛腕で押しているではないか。実力は拮抗している様にも見えるが、炎の異能を使っていない分、加減をしているのだろう。
不思議な事に、先程の男には躊躇なく炎を使ったというのに、
名前を呼び続ける姿からして、仲間なのだろうが、状況は芳しくは無さそうだ。
「魯粛?」
一度、撤退の雰囲気を見せたのに、未だその目は観劇を見つめたままだ。流石の絮皐もどうしたものかと、声を上げていた。
「あ?」
キョトンと、魯粛を見る目に、魯粛も切り上げ時を思い出したのか、名残惜しくも、もう終いだ。
「どうする?」
「あぁ、帰るか」
開けた場所では無いが、無理をすれば何とか飛べる。絮皐は、一度木から降りるとその身を波打たせた。
龍に転じ、あとは魯粛を乗せて飛び立つのみ。だが、今まさに魯粛が背に乗ろうと木から飛び降りんとした時だった。
幾つもの黒い糸が、辺り一面の陰から生じていた。
「絮皐!」
それは一瞬で龍の鱗すら貫き、絮皐を苦しめていた。
「あ……う……」
突然に降って湧いた痛み。その痛みで、絮皐の目は鋭く変じ、理性を失っていた。
―ヴォオォォ!!
龍の咆哮が響き渡る。
「絮皐!落ち着けっ!!」
魯粛は近寄ろうにも、暴れる龍の前に出れば、その牙の餌食となるだけで、木の上から声を掛け続けるしかなかった。
どれだけ暴れても、黒い糸が暴れた影響で外れるが、再び絮皐を襲い貫いている。
「あのクソ野郎っ、何処にいやがる!」
ただ痛ぶっている訳でもないだろう。絮皐を痛めつける理由があるとすれば、ちょうど良い所に、利用できそうな龍がいた。だが、傷付ければ飛べない。何より、暴れ狂う龍を止める術など、魯粛は知らないのだ。
―見ろ、見ろ、龍が暴れている
―痛そうだなあ、可哀想だなあ
―馬鹿な兄貴の所為だなぁ
―人の子に生まれちまったんだ、しょうがない
あぁ、煩い。嘲り続ける声が、続く。いつもなら、利用し、気にもならないその声が、雑音として響く。
―父親を殺して手に入れた能力だ
―十分に恩恵は受けただろう
―妹を見捨てるか?見捨てて逃げ出すか?
「(
魯粛は、絮皐を見た。暴れ龍は、散々に痛めつけられ鎮まり返っている。そして、見計らった様に、黒い糸が絮皐の周りに集まり、一つの黒い影になった。
人の形をした影に顔は無い。だがそれは、魯粛を見て、ニヤリと笑った。
―妹が喰われるところを見ていろ
そう、言っている気がした。
大口を開け、影は絮皐の身体を覆っていた。黒い沼が広がり、ズブズブと沈んでいく。
魯粛は、その様子をただ、見ていた。ゆっくり、ゆっくりと喰われている。何の為に龍を喰うなど、知ったことでは無い。動いた所で、殺されるのが落ちだ。
そうして、あと一飲みの所で、絮皐の左目が魯粛の姿を捉えていたが、何も言わずに、そっと目を閉じて全てを受け入れていた。
「(……何か、感じるだろうか)」
魯粛は、目を離さなかった。どうせ助けられない。ならば、静かに見送ってやろう。そうして、『リン』の中で生まれた感情が自身にもあるか、試したくなっていた。
妹が死んで、一体何を感じるのだろうか。
そう、呆然と見つめていた魯粛の視界に、赤色が映り込んだ。それは無謀にも、勢いのまま影を切り裂き、過ぎ去っていく。
「軒轅!」
赤髪の男が叫ぶと、今度は金色の龍が、絮皐を掬い上げていた。狭い林の中を駆け抜け、そのまま木にぶつかって薙ぎ倒していく。
「おい!お前!!助ける気は無いのか!?」
赤髪の男は、魯粛に向かって叫ぶも、魯粛は一切の反応を見せなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます