第25話

 黒い沼。憎悪が募る程に、心は陰で満たされてゆく。身体が徐々に沈んでいく感覚を感じながらも、抜け出す気力も湧かなかった。


『薙琳!目を覚ませ!!』


 深みに嵌っていく中で、妙に通る声だった。

 薙琳は虚な目をそちらに向けたが、姿形がおぼつかず、やはり誰とも分からない。いや、分からなくなってしまったと言った方が正しいだろう。闇に心が呑まれた薙琳には、記憶が曖昧になりつつある。

 誰だっただろうか。思い出そうとすると、夢の中の様な浮遊感に取り込まれるだけで、記憶を探ろうとした事すら忘れてしまう。思考は途絶え、もがく事もせず、その闇に身を委ねんと瞼を閉じた。


『薙琳!』


 誰かが、薙琳の腕を掴んだ。温かく、ゴツゴツとした男の手。それ以上沈まない様に支えている。

 駄目だ、彼も飲まれてしまう。薙琳は巻き込むまいと振り払おうとするも、一切の力が入らない。だが不思議と、その手の温もりを感じてから、薙琳にははっきりとした思考が戻っていた。少しづつ、暗闇の中にぼんやりと映る姿が明瞭としてくる。

 そうして、顕になった姿を漸く捉えた。


『……燼』


 苦渋に満ちた男の顔が、そこにあった。


『ごめん……助けられなくて、ごめん』


 何度も、何度も謝る姿は、心苦しい程に憂慮な面を見せている。そうだ、この顔だ。薙琳は、旅路の間、朧げに映っていた存在が記憶の中ではっきりとした存在となった。

 何故、思い出せなかったのか。

 彼は、ずっとそばにいてくれた。呼びかけてくれた。主人が心配していると、必死になって呼び戻そうとしてくれていたのだ。


『ごめんね……』


 友人では無い。ただ、時々顔を合わせる、獣人族という縁を持った青年の目は、薄く紅色の輝きが見え隠れしていた。


『手を掴め!そこを抜け出すんだ!』


 どっぷりと浸っている憎悪が、燼の精神に影響していた。抑え込もうとしているのか、薙琳の腕を掴む手に余計な力が篭る。


『燼、手を離して……苦しいんでしょ?戻って、私を殺してちょうだい』


 淡々と語る姿。薙琳は、どうやっても憎しみを消す方法が浮かばなかった。どうやれば抜け出せるのか。そう考えた時に浮かんだのは、全て忘れてしまう、だった。キナを忘れてしまえば、憎悪の根本から消えてしまうだろう。言うのは、簡単だ。

 でも、それだけは、出来なかった。


『ごめんね。私、娘の事、忘れてしまいたくないの』


 燼は、その言葉に、ぎりりと音を立てて歯を食いしばった。薙琳が一言、願えば良い。全て忘れてしまいたい。そう、言ってくれる事を望んでいた。

 愛情の否定は出来ない。それでも、今はこの世にいない存在だ。だから、生きている者の事を考えて欲しかった。


『鸚史様が、薙琳の事待ってる』


 薙琳の瞳が、揺れた。


『今も、怒ってる。勝手に居なくなって、何で頼ってくれなかったのかって』


 燼は必死だった。どうやれば、薙琳を繋ぎ止めれるのかを必死で考え続けた。だが、どれだけ考えたところで、浮かぶのは、ただ一人だ。


『本当に、このまま化け物になって殺されたいのか!?それが望みか!?十分生きたからって、それで良いのかよ!!』


 燼の憤りは、薙琳だけに向けた言葉では無いだろう。いつかの、祝融に殺される事が当然と考えていた自分に対しての怒りも、含まれている。


『……燼』

『人生狂わされるのは、俺だけで十分だ。だから、願ってくれ』


 夢見が出来ることは、限られている。夢に干渉する力はあっても、それを変える力は無い。唯一、出来る事があるとすれば、常夜の法を利用する事だ。契約を、無償の願いとする事で、唯一干渉する術を得る。だから、どうしても薙琳が生きる気力を取り戻さねば、何も出来なかった。

 薙琳が、今まさに手を握り返した瞬間だった。

 燼の背筋に、ぞわりと寒気が走った。


「燼、こんな所で何をやっている?」


 その声が届いた瞬間に、燼に更なる苦しみが押し寄せた。鈍く光るに止まっていた瞳は、真紅へと変わり、薙琳の腕を掴む力が抜けそうになる。


『止めろっ……』

「邪魔をするなと言っただろう。大人しく眠っているかと思えば、まさか神子王扈の力を借り受けるとは……」


 声は、どんどんと、近づき、益々強くなる一方だ。そして――


「残念だったな、燼」


 はっきりと姿を表したは、貴人の姿でにやりと笑うと、薙琳を背後から抱きしめ、目を塞いでいた。


『止めろ、止めてくれっ!!』


 貴人姿の男は、またも、くつくつと笑うだけだった。


「燼、手遅れだ」


 男の言葉と共に、黒い沼は濁流へと変わった。薙琳を飲み込み、全てを飲み込まんとする濁流の勢いに、燼の手はいとも簡単に離れてしまった。


 ――

 ――

 ――


 悍ましい気配が三つ、辺りに漂った。

 一つは、ユラの皮を被った何か。もう一つは、薙琳。そして、もう一つは――

 上空で、待機していた彩華は、燼の異変に気がついた。悍ましい気配がする。何年も前に感じた気配だ。


「燼……」


 自身の背の上で横たわっている感覚はある。だが、異様だ。少しずつ、どろどろとした液体が漏れ出す感覚。そして、似た感覚は地上でも二つ。


「彩華様……燼様が……」


 突然、四飛が震える声を上げた。顔は青ざめたまま、燼を見ている。そして、彩華の背中で何かがゆらりと立ち上がった。


「霍雨様、離れていて下さい」

「悪いが、そうさせてもらう。……武運を」


 言うが早いか、霍雨は更なる上空へと退避していった。二人取り残されたそこで、彩華の背の気配が大きくなった。

 彩華の背の上で、殺意が放たれると同時。彩華は人の姿へと転じると、二人は真っ逆さまに地上へと落ちていく。その中で、燼の瞳は紅色に妖しく光り、はっきりとした殺意が彩華に向かっていた。


 ――


 異常な気配は、地上で戦い続ける四人にも届いていた。

 そして、鸚史もまた、自身が背負っている存在からも同様の気配を感じていた。


「……薙琳……目を覚ませ」


 触れている身体が、気配と同時にピクリと動く。もう、それが別のに変質していると分かっても尚、手を離す事が出来ない。

 出来るわけが、なかった。


「鸚史!離れろ!」


 祝融が剣を振るいながらも声を上げた。危険だ。前に出ようと、炎で一気に黒い糸を散らそうとするも、勢いは増すばかりで、意味は無い。


「(せめて、あの男の首だけでも……!)」

 

 そう思い、地に横たわっていた男に目を向けるも、既にそこに姿は無かった。


「祝融様!」


 雲景の声と同時に祝融の背後に、殺気が集まった。振り返り、炎を纏わせた剣を向けても、丸で水でも切ったかの如く、感覚が伝わってこない。

 目に映ったのは、黒い影だ。人の形を保ってはいるが、その姿は水面の様に不安定に揺れている。祝融の剣は確かにそれを、斬ってはいたが、斬り込みは、何事もなかったかの様に元の形へと戻っていく。

 欲望のままに生きた男の末路は、無にも等しい影。その影の姿を晒したかと思えば、再び姿を消した。影に潜っているのか、一瞬にして解けて消える。その途端に、気配も殺気も見失ってしまったが、同時に黒い糸の攻撃も止まっていた。


「(何処に……)」


 防ぐ事は出来る、だが攻撃に転じた所で、手応えは無い。だが、覚えはあった。墨省で発生した、呪われた山の洞。あれは、何かを素にして洞に人の欲望が積もった結果だった。

 この男も同じだ。何かをきっかけとして、その腹に欲望を溜め込み続けた姿だ。そして、薙琳も、同じ。

 憎悪を僅かな期間で、募らせた憎悪は想像を絶するものだろう。


「鸚史!」


 祝融は、既に薙琳を諦めていた。燼に変化があったと悟った瞬間に、失敗したのだと。それは燼に跳ね返り、燼に中のが再び目を覚ましている。

 一刻を争う状況で、鸚史は迷いが生まれた。首を刎ねなければ。そう考えると同時に、まだ何か策があるのではと思案を巡らす。

 業魔に変質した者が元に戻った事は無い。もう、手遅れだ。どれだけ頭で考えた所で、一向に身体は動かない。


「鸚史、俺がやる。薙琳を離せ」


 祝融が剣を向けた時だった。上空の気配が一気に強くなった。


「祝融様!下がってください!!」


 声と気配に、祝融は背後へと飛ぶ。その次の瞬間には、祝融が立っていたその場所に彩華と燼が空から降って湧いた。彩華の手には既に矛が握られ、地上に降り立つと同時に、黒く澱んだ姿を晒す燼の爪を受け止めている。臨戦体制と言わんばかりに、彩華の目は鋭い。相手は、どう見ても燼だった。


「彩華!燼!」

「祝融様、抑えるのに時間が掛かりそうです……」


 はっきりと紅く染まった燼の瞳に正気の姿は無い。力の差は一目瞭然だ。どれだけ彩華に武人としての才があろうと、に取り憑かれた燼の力に敵うはずもなく、今も防御で精一杯だ。


「(最悪の事態だ……)」


 このままでは、燼の首すら刎ねる事になり得る。

 考える間は無い。姿を消した男を警戒しながらも、祝融は燼に剣を向けた。


「雲景、軒轅、此方を監視していた奴らを見て来てくれ。今、あの男が襲って来ないのならば、あの影が、そちらに向かったやも知れん」

「承知致しました」

「ですが、鸚史様が……」

「あれを逃すわけにもいかん、行ってくれ」

「……承知しました」


 軒轅は、呆然とする鸚史の姿を捉えながらも、雲景に行くぞ、と促され目標を楠から感じる視線へと移していた。


「彩華、下がって援護に回れ」

「……はい」


 彩華は乱暴に矛を振るって燼の爪を弾いた。それだけでも、相当の力がいる。武器を持ち戦えば、彩華が師の立場だ。それを流す術を知っている彩華が対峙するのは容易だが、獣人の姿は違う。矛が折れんばかりの力に、受け流す事は不可能だ。

 彩華は祝融の背後に下がると、再び構えた。

 

「……燼、お前の使命は今日か?」


 紅く染まった瞳は何も答えない。

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