第24話

「殿下!あそこです!」


 悍ましい気配が広がっている。

 四飛には、常夜で見た惨劇を思い浮かべる程の恐怖が降り注いでいた。

 怖い、あそこへは行きたくない。カタカタとその身が震えながらも、側で赤い龍に乗る男へと声を振り絞った。

 どうにも、四飛の様子と、その先の気配で全てが、祝融にも鸚史にも伝わっていた。二人だけではない。恐らく、その場にいる誰もが異常を感じているからか、龍達の勢いは増した。

 早く、早く、あそこへ向かわねば。


「鸚史!最悪の場合……覚悟はあるな?」


 祝融は、金の龍の背に乗る男に命じるも同然に問いかけた。鸚史のその目は暗く、顔は翳りを見せる。だが、その意味は理解しているだろう。異常な業魔にも似た、何かの気配。それを感じ取っているからこそ、鸚史は静かに口を開いた。


「……その時は、俺がやる」


 握りしめた拳は、何を意味するだろうか。祝融は、反論も頷く事もしなかった。


 ――

 

「(くそくそくそっ……!!!)」

 

 こんなはずじゃなかった。腕を落とされるまでの余裕の笑みが消えた男の腹の中は、憤怒で満たされていた。獣人族を一網打尽にしたその力が、たった一人の女に通じていない。それどころか、反撃され弄ばれている。

 異能を持たない、不死だけが取り柄の獣人。その認識は脆くも崩れさり、実力の差をまざまざと見せつけられながら、男は逃げ回る。

 薙琳の猛追は続いた。腕一本失っても尚、男は大して苦痛を見せない。その瞬間、薙琳の脳裏に浮かんだのは、キナの苦しみ悶える死の間際の姿だった。


「(足りない……)」


 冷酷な瞳は一息で殺すのを止め、男を甚振り始めた。

 腕の次は、足。足の次は、腹。そして、また腕。牙で、剣で、爪で、猛攻は続き、遂には男は立てなくなった。

 地べたに這いつくばり、もがく腕も脚も無い。このまま、血が流れて死ぬ事すらあるだろう。だがそれは、薙琳が許さなかった。

 男を足で転がし、仰向けにすると、足蹴に押さえつけた。

 痛めつける方法はよく知らないが、どうすれば痛みが増幅するかぐらいは知っている。薙琳の目は、腹に開けた風穴に向いていた。

 剣を抜き、軽く当てては、その傷を抉った。


「うぐっ……がっ……」


 呼吸は荒くなり、呻く声が耳に届いても、薙琳の腹は治らなかった。

 どうやったら、この憎悪は消えるだろうか。キナが感じた痛みは、どれ程のものだったのだろうか。このまま放っておけば、出血で死ぬだろう。だが、死ねばそれで終わる。

 もっと、もっと、もっと、苦しめなければ。


 薙琳の心が完全に飲まれ、闇に沈んだ。その心から、どろどろとした闇が溶け出してゆく。その時――


「薙琳!!」


 空から、声が響いた。

 その身が、黒く染まりつつある中、その声に薙琳が僅かに反応した。次の瞬間には、薙琳の背後に祝融、鸚史、雲景、軒轅が舞い降りていた。

 そこら中から血の匂いが漂う。夜に慣れた目に映ったのは、薙琳が行った復讐の爪跡だった。戦った痕跡に、血に塗れた地と女。手足を失った男は呻きながらも生きてはいるが、今も腹は抉られ悶ている。

 明るく、快活な女。その姿は何処にも無く、虚な背中が鸚史の目に映っていた。


「薙琳!もう十分だろう!」


 一歩、一歩、鸚史は近づいた。目に見えるまでに、どす黒く染まった心を放ってはおけない。ぞわぞわと自身を駆り立てる何かが、薙琳から発されても尚、鸚史は怯む事無く近付いた。

 大丈夫だ、まだ間に合う。根拠のない願いにも等しい考えが焦燥感を募らせ、今まさに、その身に触れようとした時だった。

 薙琳が、ゆっくりと振り返った。その瞳は、深い紅色に染まり、涙が頬を伝って零れ落ちていく。

 

「……御免なさい」


 それは、何に対してに謝罪だったのだろうか。薙琳は、そのまま意識を失い、その場に崩れ落ちてしまった。だが、禍々しい気配が消えたわけではない。

 ドクンと脈打つ様な音が、そこら中から響き始めた。それは、鸚史の目の前にいる、薙琳も、その傍で横たわる男も同じだった。

 何かが、始まろうとしている。


「鸚史!」


 祝融の声に、鸚史は薙琳を左肩に抱え上げると、剣を抜いた。悍ましい気配が、男を中心に広がっている。男の首を狙い、剣を振り下ろそうとするが、それよりも早く、黒い糸が鸚史を貫こうとしていた。間一髪で躱すも、追撃は続いた。幾重にも繰り出されるそれに、薙琳を抱えている手前、剣で弾いてはいるが防戦一方で下がるしかない。横目で、祝融達を見るも、そちらも状況は同じで、そこら中から殺意と共に、黒い糸が張り巡らされ、剣で、炎で散らしながらも、何とか鸚史と合流しようとしているが、数の多さに苦戦している。

 更には、辺りから妖魔の気配までし始めた。


「くそっ!」


 苛つきが、そのまま口から出ていた。思う様に動けない能力に、薙琳からも未だ男と同様に陰の気配が絶えず漏れている。


「謝るなら、最初から頼れよっ!!」


 気を失った女に、聞こえてはいないだろう。剣に怒りをぶつけながらも、それは、何も言わず消えた女へと向けた怒りだった。


 ――


 上空、何も出来ない燼を背負った彩華が落ち着きなくぐるぐると旋回を続けていた。はっきりと見える訳では無いが、糸の様なものが、祝融達を襲っている。


「(燼、起きて……)」


 何が起こるとも分からない場所へ、眠り続ける男を連れて行ける訳もなく、彩華はじっとなどしていられなかった。

 その傍で、霍雨は静かに見守っていた。


「郭女士、落ち着きなさい。無様だ。何より、巫を怯えさせてくれるな」


 彩華は、霍雨の静かな言葉に、はっと四飛を見た。燼よりも遥かに幼い少女はカタカタと震えながらも、赤い龍の背に乗ったまま、下方を見守っている。

 確かに、無様だ。だが、主人が闘っているのに、自分だけが安全圏にいるというのが、どうしても絶えられない。とりあえず、霍雨の言葉通り、大人しく漂うに止めるも、焦燥感は残ったままだ。


「巫、燼は目覚めないのでしょうか?」

「……決して、起こしてはなりません。今起こせば、二つ目が目覚めてしまう」


 巫の目は、じっと何かを捉えて離さない。


「燼様は、常夜の側から彼女を抑えている」


 漸く、四飛の目に、目覚めない理由が見えた。桜省という遥か遠くからでも見えた、リンという女の異変。燼は、沈められた事を利用して、に悟られない様に深く深く潜ったまま、リンに呼びかけ続けていたのだ。


「待って下さい。それでは薙琳は……!」

「燼様と、神子王扈が、尽力しております」


 四飛は、せめて心配し続ける、彩華を落ち着かせようとした。が、その続きは決して言えなかった。


『それも、いつまで保つかは分からない』


 神子王扈は、いち早く異変に気づき、対処をしようとした。が、邪魔が入ったのだろう。燼と共に強制的に深い眠りへと落とされ、気づいた時には、全てが後手へと回っていた。

 そして、二人が出した結論は――

 

 ――


 変わらず、楠の上で傍観を続ける二人。

 

「なんか増えたね、どうする?」

「ほっとけ、見つかったところで、こっちを気にする余裕も無くなる」


 魯粛の楽しみにしていたものが、始まろうとしている。新たに現れたのは、邪魔者では無く、登場人物達だ。

 いよいよ、面白くなってきた。

 愉しげな魯粛をよそに、絮皐は黒く染まる薙琳に目を戻しながら、盛大な溜め息を吐き出した。


「やっぱり、リンと楽しんでおけば良かったかな」


 闇に飲まれそうな姿に、もう二度と元の姿に戻れない様な口ぶりだ。流石に熱を入れて見物していた魯粛も、その言葉に呆れた目を向ける。

 

「はっ、本当にお前は悪趣味だな」


 薙琳に、あれ程に脅されたというのに、軽口に言っている。自身が楽しめれば誰でも良い。そんな思考が浮き彫りになっている。

 

「不死とやる機会なんて、早々ないじゃない?」

「あそこの大男は不死だぞ」


 そう言って、黒髪の大男を指差す。剣を振る姿は武官を思わせる体躯に、世の女が見れば良い男とでも言いそうな端正な顔立ちだが、絮皐の顔は不満で一杯だった。

 

「男なんていらなぁい」


 その顔は、顰めっ面を見せ、本心からの拒絶を示している。だが、魯粛の言葉に違和感を感じた。


「……何で、あの男が不死って分かったの?」


 魯粛は、絮皐の問いにニヤリと口角を上げて笑った。

 

「今、声が、騒ぎ続けてる」


―来た

―来た

―きた


―祝炎を宿す男が、来た

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る