第23話

柑省 東部の廃村

 

 誰も住まなくなった山に程近い廃村。深い夜の中、獣の声が山から響き渡る。

 妖魔でも湧いたのか、村は荒れ果て、遺骨こそないが血痕はそのままに、当時の惨劇が、そこら中に形として残されている。誰も住まなくなった家々腐り崩れていく中、形を残している家が一軒だけ残っていた。同じく腐ってはいるが、雨ぐらいは凌げるだろう。

 そこには少ないが旅路と思われる荷物が雑多に置かれ、囲炉裏には火が焚かれている。住人がいないのをい良い事に、そこで寝泊まりを繰り返している様だが、人の姿は無く、火がパチパチち音を立てているだけだ。

 その村の中、村の端にある井戸がカラカラと音を立てては繰り返し水を汲んでいる男がいた。男は桶に満たされた水を文字通り浴びる様に喉へと流し込む。

 井戸から汲まれたばかりの水は冷たいが、男の精神を落ち着かせるにも丁度良い代物だった。

 

 やたらと喉が渇く。

 

 どれだけ、欲望を満たしても、が満たされる事は無い。それでも、少しばかり冷水で気は紛れたのか、桶を井戸の端に置いた。

 首を摩り、その渇きが精神だけでなく、身体にまで影響を及ぼしている。どれだけ、水を飲もうが、その渇きは潤される事は無い。

 だがそれも、もう終わる。

 は、深淵に耳を傾けずとも、騒がしい程にガヤガヤと、そこら中のから声が止まずに響き渡っていた。

 浮き足立っている声は、不気味に、おどろおどろしく、ユラの欲望を再び駆り立てていた。


―来る

―くる

―お前を殺しに、やってくる

―もうすぐそこ

 

―ほら、来た


 村に殺意が降り注いだ。

 重くのし掛かる、それにユラは期待の目を向け空を見上げる。暗闇の中、鈍色の龍が空を舞っていた。

 ついに、来た。


 ――


 遥か、上空。


「(声が、騒がしくなった)」


 魯粛の耳に、悍ましいと言える数に声が恐々と声を上げている。


―どっちが、死ぬ?


 一番はっきりと届いた声に、魯粛は思わず目の前に座る薙琳を見た。獣人族は夜目が利く。魯粛には見えない何かを捉えたのか、纏う雰囲気には殺意が込められている。

 そうして、暫くすると風の中から絮皐の声が届く。


「魯粛、リン、村があったよ。……何かいる」


 いつもなら、絮皐の緊張感の無い声が、気を緩ませる。なのに、今、絮皐は珍しくも、その様子を一切見せない。

 絮皐の声に、薙琳も何かを感じてか、立ち上がった。この三人の中で、実力もあり特出した武人と言えるその女は、村を睨みつけている。

 鋭い殺意は、魯粛と絮皐の肌を粟立たせる程。ぞくりと背筋が凍り付かんとする張り詰めた空気に包まれながら、絮皐が村の上空へ辿り着いた瞬間だった。

 

「あなた達は邪魔だから、このまま此処にいて」


 言うが早いか、薙琳はそのまま飛び降りた。


「……慣れてんな」


 止める間など無く、薙琳は暗闇に吸い込まれていく。


「魯粛、手伝わないの?」

「手出ししないのが条件だ。俺は、見届けるだけ……だが、隠れるぞ。リンを追ってる奴らに見つかりたくは無い」

「了解。観やすいところは何処かなぁ」


 これから何が起こるか、分かっているのだろうか。暢気な声が消え、一時真剣な雰囲気を醸し出したかと思えば、結局はいつもの悠長な様を見せている。

 だが、それは魯粛も同じだった。少しばかり時間を共有したとあって、虚な姿に同情もしたが、それも今吹き飛んだ。

 欲望が溢れて止まらない。


「(手出しなんぞするもんか)」


 楽しみを自分の手で邪魔するなど、愚かだ。


「いよいよだなぁ、リン」


 少しずつ下降し、その場へと近づきつつあるそこは、憎悪と殺意が渦巻いている。


 ――


 男は、薙琳を待ち構えていた。

 井戸の端に座り、にやにやと笑みを崩さない。


「初めまして、曾祖母様」


 その瞬間に、薙琳は身体を波打たせた。その体はみるみると大きくなると、辛子色と黒色が入り混じる獣の姿へと変貌する。燼の熊の姿程の大きさは無いものの、六尺と五寸を越える大きさに、只人であれば腰を抜かすだろう。

 喉を鳴らして低く唸り声をあげる姿は獣のそのものだが、その中で殺意と憎悪だけが人の姿で取り残されている。

 その殺意と憎悪が、今、この場で薙琳を奮い立たせている。目の前の男が無害であれば、キナが無情な死に方をしなければ、出会う事なく終わっていた存在。

 その男が血縁である事は確かな事だが、最早、情など湧かない。

 戸惑いも、躊躇いもなく、憎悪の全てを牙に込め、薙琳は真っ直ぐに向かった。その口を大きく開け、男を食い殺さんと近づく。井戸の存在など、気にする事無くその巨体をぶつければ、井戸は脆くも崩れ去った。

 だが、男の姿は何処にも無く、気付けば男は薙琳の背後に佇んでいた。

 確かに、薙琳は男を捉えたと思った。隙だらけで、動きも見せなかったが、牙を擦り抜けた様な感覚だけが、気味悪く残っている。


「(異能……?)」


 そう思える程に、男の動きは違和感しかなかった。未知なる力としか思えず、その言葉が浮かんだ。薙琳が見た事のある異能は、どれも自然に近いもので、神の祝福と言っても過言は無い程のものだ。


「何だ、業魔とすら闘うっていうから期待してたのに、案外大した事ないんだな」

 

 にやにやと余裕を見せる男は、ゆっくりと薙琳に近づいた。不審な動作も無く、僅かにぴくりと指が動いた、その時だった。

 そこら中の陰から気配が漂った。

 覚えのある気配。妖魔にも似たそれは、夥しい数の気配となって薙琳を囲んでいる。目には見えない。音も無い。ただ、気配がそこにあるだけ。

 薙琳は気配に注意を向けながらも、男を見た。

 その姿を瞳に映すだけで、憎悪は沸々と大きくなっていく。


 再び、薙琳が動いた。一歩強く踏み込み、その勢いに男へと向かっていく。

 そして、また男の指が、ピクリと動いた。そこら中の気配が、殺気に変わる。


「(まずいっ……)」


 殺気は一瞬で姿を現した。黒い糸がそこら中の陰から現れては、薙琳目掛けて張り巡らされていく。陰から、木へ、家へ、陰へ。

 大きな体が邪魔になる。薙琳は姿を人に戻すと、その俊敏さで全てを躱していく。その動きは凄まじく、僅かでも気を逸らせば、薙琳を突き刺すだろう。

 その中でも、腰に携えた剣を構え、正面から向かう黒い糸を叩き落として、薙琳は男に近づいていく。

 力強い獣の姿とは違い、俊敏で細やかな姿を見せる。

 そして、糸を潜り抜けた先で、薙琳の姿は再び獣に戻った。そして、その喉元へと噛み付いた……が、僅かにそれ、その牙は男の腕を噛みちぎっていた。


「くそっ!」


 経験の差が軽緒に現れた瞬間でもあった。

 男の腕は根本から消え去り、薙琳の口には只の肉塊と化した、人の腕が収まっていた。

 それを、吐き出し踏みつけると、薙琳の姿は再び人へと戻る。その目は獣同然に鋭く、男を捉え続ける。口についた滴る血を拭うと、薙琳は再び動いていた。


 ――


「リン、強いね」


 村近くの一番高い楠。絮皐は太い枝に腰掛け、文字通り高みの見物を決め込んでいる。下手な芝居を見るよりも、命を賭けた戦い程心揺さぶられた。

 そのすぐ上では、魯粛も食い入る様に、異質な戦いを見つめ続けている。出来るならば、もっと近づきたい。もっと間近で見たい。高鳴る欲望を抑えながらも、それ以上は薙琳の気を逸らすだけと、自分を説得し続けていた。

 

「皇都に住んでるって言ってたからな。武官かなんかかもな」

「獣人族でも成れるの?」

「さあな、実力次第なんじゃねぇの」


 適当な答え方だった。絮皐と会話しながらも、その目は一寸たりとも薙琳から目を離せない。話しかけるなとまでは、いかなくとも、待ちに待った瞬間を見逃したくは無いのだろう。


「(相変わらずだなぁ)」


 魯粛の趣味は、絮皐もよく知る所だ。その趣味は、自慢できるものでもないが、子供の頃から変わらず『知る事』に関して貪欲と言える。その対象が、今回は『リン』という女。絮皐はそれに付き合い、魯粛の言う通りに行動するだけ。

 兄妹だから理解していると言うよりは、絮皐は魯粛が楽しければそれで良いのだ。


「(でも、なんだかなぁ。変な能力だけど、リンが勝って終わっちゃいそう)」


 絮皐が見る限り、薙琳が優勢だ。人の姿と獣を使い分け、転じる様も、僅かな機微も見せない程で、その瞬間は簡単には見抜けないだろう。何より、男の能力らしき攻撃は、一度として当たっていない。明らかな経験の差が、浮き彫りになっていた。

 見せ物としては面白いが、魯粛が愉しむほどのものだろうか。絮皐にとって、『リン』は一時楽しむには丁度良い相手ぐらいの認識だ。好ましい相手ともあって、機会があれば……ぐらいにしか考えていなかった。

 絮皐は、目線を上げた。魯粛の顔は、愉悦に浸り恍惚としている。


「(何が、見えてるんだろ)」


 魯粛の目には、絮皐に見えない何かが映っている。そして、別の境界の声が聞こえている。

 それらを頼りにして、魯粛は何かを待っている。

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