第7話

 薙琳が姿を消したと発覚してから、一刻が過ぎた頃だった。

 鸚史の下に一羽の白い鳥が舞い降りた。待ちに待った返事ではあったが、少々、時間が掛かった事が気にかかってはいた。

 出来る限り良い返事を期待しているだけに、内容を知るのを少々臆したものの、指に留まった志鳥は何の気なしに、その嘴を動かし始めていた。


『鸚史、こちらでも問題が起こった。薙琳の事に助力したいが、燼が眠ったまま目覚めなくなってしまった。燼を目覚めさせねば、どうにもならない。すまないが、少々時間をくれ』

 

 頼みの綱は、一瞬で切れてしまった。時運の無さに、鸚史は苛つきを抑えられなかった。今にも、手にした白玉を叩き割ろうかとすら考え、その手には力が篭っていた。


「鸚史様……殿下のお返事は?」


 軒轅は鸚史の様子に、聞くまでも無かったが、それでも詳細を知らねば、今後の動きもわからない。恐る恐ると口にした言葉だったが、鸚史は陰鬱な表情を見せ、頭を抱え、壁を背に座り込んでしまった。


「……燼が、目覚めなくなったそうだ」


 力無く吐き出した言葉に、軒轅は驚いた。燼の存在はある程度聞いていたが、鸚史の様子からしても異常事態だ。頼ろうと思っていた矢先だっだけに、鸚史が項垂れる理由も頷けた。


「(何と間の悪い……)」


 だが、ふと軒轅の脳裏に違和感が宿った。


「奇妙な偶然……ですね」


 そう、軒轅がポツリと溢した。


「……偶然?」


 その言葉で、鸚史は、何かを悟ったのか顔を上げ、真剣な表情で考え込み始めた。

 鸚史と薙琳の姿は、軒轅の目には主人と従者というよりは、長年の友人を思わせる節があった。だからこそ、昨日の事もあり、薙琳の事が心配でならないのだろう。軒轅は、側で鸚史が答えを出すのを待つしかなかった。

 そして、そう大して時間が経たないうちに、鸚史が口を開いた。


「……軒轅、この世で偶然は存在するが、時には、そこに何かしらの力が介入している場合がある」

「では、必然だと?」

「はっきりとは分からんが、確かに妙だ。あまりにも時節が重なり過ぎている」


 鸚史は立ち上がると、窓を見た。既に、薙琳を目で追う事は不可能に近い。ならば、その行方に先回りせねばならない。


「あいつが行きそうな場所……」


 鸚史は再び考え込んだ。永く共に過ごしたが、あまり自分の事を話したがらない。趣味も自堕落なものばかりで、手がかりにすらならないが、ふと軒轅が洩らした言葉に鸚史は、はっとした。

 

「……薙琳って、家族とは縁を切ってるんでしょうか」


 一理あると思えた。薙琳の故郷は、桜省の山間部にある。詳しい場所までは、鸚史の記憶にも無かったが、桜ならば今いる場所からも、そう遠くはない。

 鸚史は自身の荷物を探ると、地図を取り出した。それ迄、訪れた場所を詳細に記したそれは、古ぼけ少々虫食いまである。


「薙琳を拾ったのは桜省を任せている、二代前の分家当主だ。そいつの話では、薙琳は桜の南西部出身だと言っていた」


 そう言って、鸚史が指差した先は、これと言って目立った標もない山だ。獣人族の村は山間を切り拓いた地ばかりで、地図に載ってない事など、ざらにある。

 だからと言って、上空から探すだけでは手間と時間ばかりかかってしまう。


「では、近くの町で聞き込みをしましょう」

「あぁ、此処に、ヒノという小さな村がある。そこに向かう」


 そう言って、鸚史が指差したのは、山間より少し離れた場所にある、小さな村だった。


 ――

 ――

 ――


 桜省 山間部


 薙琳は駆け抜けた。闇に紛れ、街を通らず、目指すは遥か昔に捨てた故郷。桜省、山間部にある小さな村、ムジ。

 緑省からであれば、それ程の距離では無い。守るものもなく、自分一人で進む事を考えるならば、妖魔を適当に躱して進めば良い。そんな考えを浮かべながら、薙琳は走り続けた。

 緑省から桜省にかけては山が多い。いくら季節は秋とあっても、妖魔は山中に五万といる。夜は只管に走り続け、朝焼けを拝んでは僅かな眠りについた。悪夢が恐ろしく、長くは眠れない。大した休息も無く、薙琳は故郷へと向かって進み続けた。

 そして、また走り続ける夜が終わろうとしていた。

 朝日が登るのを待ち、薙琳は焚き火を起こす。朝日が登った所で、妖魔が出ないわけでは無い。秋とはいえ、人の気配山中にあれば寄ってくる。

 普段ならば自身を餌にしてでも呼び寄せていた存在だが、今となっては煩わしい。薙琳は、火を見つめ、僅かばかりの休息今更ながらに野宿自体が懐かしいのだと気づいた。永く、風家に仕え、皇都で贅沢とまではいかなくとも、それなりに良い暮らしだ。田舎での暮らしなど、忘れてしまっているかとも思ったが、故郷に近づけば近づくほどに、記憶の中で埋もれていた細やかな暮らしの情景までが鮮明になっていた。

 妖魔に両親が殺され悲しみに打ちひしがれた事、幼馴染だった夫と共に山狩へ出た事、娘が幼かった頃に夕焼けの中を手を繋いで歩いた事、その他にも様々な記憶が湧水の如く溢れていた。

 記憶が鮮明になる程に、その記憶が薙琳の精神を蝕んだ。過ぎ去った、自ら手放した過去。灯した火が、揺らめく度に、その向こうに何かが映りそうだった。


「(眠らないと……)」


 薙琳は、火から目を逸らすと、膝を抱えて身を縮めた。瞼を閉じ、睡魔に身を任せ、浅い眠りの中へ身を委ねた時だった。


「何の為に戻ってきたんだ?」


 聞き覚えのある嗄れた男の声。その声に、眠りに落ちかけていた薙琳の肩は跳ねた。

 幻聴だ。自分に言い聞かせながらも、薙琳は、ゆっくりと顔を上げた。

 揺らめく焚き火の向こう側。死者と生者を分つ鏡の様に、火を隔てて見える老いた夫の姿。老齢の姿を見せつけているのか、背は曲がり、過去の記憶のままに足を摩っている。


「今更戻ってどうする。手紙一つ寄越さなかったんだろう。まあ、あの子には読めやしなかっただろうがな」


 まるで、記憶が自分の心情を話している様だった。

 確かめる事に意味はあるのか?ただの幻覚の可能性だってある。心の片隅で、考えていた事を代弁した夫は、炎が大きく揺らめいたかと思うと、姿を消していた。

 再び訪れた静寂に、薙琳は虚な目を幻覚が居たであろう場所に目を向け続けた。既に、鸚史の下を離れ数日が経っている。不死とはいえ、無茶な移動を繰り返している上に、夢への恐怖と、妖魔への警戒、更には幻覚。肉体にこそ余裕はあったが、精神は限界へ達しようとしていた。

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