第6話
鸚史が部屋を出て行くと、部屋に残された薙琳は、寝台の上で膝を抱え、暗闇を見つめていた。
夢の中で殺された老婆。どことなく、娘のキナに似ていると感じていた。そして、魂の姿である獣も、キナと同じ雌鹿。
「(あれは……キナ?)」
まるで、自分に降り掛かった事の様に、鮮明で、最後の恐怖までが、薙琳の脳裏に焼き付いていた。
夢を思い出し、薙琳の手は不意に首に触れた。夢であった筈なのに、現実と間違う程に苦しかった。そして、今もその痛みは鮮明に覚えている。記憶の中をどれだけ探っても、あれ程の痛みなど、感じた事などないのに。
見つめる暗闇の先からは、
幻覚か、夢か。
「(確かめなければ)」
薙琳は寝台を這い出すと、立ち上がった。村を出たあの日の様に、迷いなく身支度を整え、徐に木戸を開ければ、窓の向こうは深い夜だ。宿の二階ではあったが、薙琳からしてみれば大した高さではない。軽く飛んだかと思うと、音も無く着地して見せる。
一歩、足を前に踏み出すと、薙琳は振り返り、主人の部屋を見た。
自分の精神状態が、正常で無い事は既にわかっていた。とても、鸚史の従者として足りていない。恐らく、鸚史は薙琳の身を案じるが、解雇する事も、当主に報告する事も無いだろう。
だが、これから風家を背負う男が、その様に甘い判断などあってはならない。
「……ごめんなさい」
口癖になってしまった言葉を、一言呟くと、薙琳は虎へと姿を転じると共に、暗闇の中を駆け抜けて行った。
――
――
――
「なあ、いつまで黙っているつもりなんだ?」
立ち竦む黒馬の横で、燼は煌めく道を眺めていた。眼窩に、目玉が無い
眼窩の暗闇で遠くを見るそれは、静かに佇むだけだった。
これで何度目だろうか。一度会えば、黒馬に会う事は容易だ。夢は繋がってるのだから、感覚さえ掴めれば、居所は自ずとわかるというものだ。だが、会うことは容易でも、一向に進展はない。何を後悔するのかも、いまだに不明のままだ。
燼は小さく息を吐くと、立ち上がり、黒馬を見た。
「……望みは無いのか?俺は時間潰しの為に、ここにきている訳じゃ無いんだ」
黒馬の眼窩は、道を捉えたままだったが、不意に頭が燼の方を向いた。じっと、燼を見たかと思うと、口を開けた。
「…………リ……ん……さが……して……る」
幼くも、枯れた声。その声は、途切れていたが、確かに言葉を紡いでいた。
―リン、探してる
そう、燼の耳に届いた。
「リン?……お前の祖母の名前か?」
黒馬は首を横に振った。
否定され、燼は腕を組み下を向いた。何故、神子王扈は、この黒馬の夢を見せたのか。
燼は後悔すると言った。正確には、燼も後悔する、という事かもしれない。そして、黒馬がリンという名が祖母のものでないと否定した瞬間に、一人の女が浮かんでしまった。
「(もしかして、薙琳か?)」
貴族に仕える事になった平民が、名を変える事は珍しい事では無い。特に、高位の家柄であればある程、名前一つで田舎者と思われる事もある。獣人族であれば、尚更だ。燼も、名前こそ変えなかったが、『燼』という字は、彩華が付けたものだった。
薙琳も同様に、名を変えている可能性がある。薙琳の過去こそ詳しくは知らないが、近しい親族が生きていても、なんら不思議ではないだろう。
「(その考えが正しいと、嫌な方に転がり始めた事になるな……)」
一度、事実を確かめねばならない。
「……リンって奴、探してみる。それで、何が変わるかは分からないけどな」
黒馬は、ただ頷くだけだった。その場に座り込み、それは、「待つ」と言っている気がした。
どうにも、多少は情が通じた様にも見えるが、肉体を失ったそれ行く末をどうしたものかと迷っていた。
兎にも角にも、今は望みをかなえてやらねば。
最初こそ、面倒ごとに巻き込まれたとしか思ず、鬼の姿であれば諦めただろうが、黒馬の姿を見てそうも言っていられなくなった。何より、薙琳の親族の可能性があるとすれば、後悔すると言った言葉も頷けた。が、今度は別の疑問も浮かんでしまった。
「(……待て、見なくても後悔するとはどう言う事だ?)」
燼は、目線を落とし、再び考え込んだ。元々考えるのは得意では無いが、夢の事案を深く他人に聞くわけにもいかず、自身で考えを導き出さねばならない。
そうして、暫く考え込んでいると、一つの疑問に辿り着いた。夢を見ていなければ、黒馬に会うことはなく、何も知らずに終わっていた筈。だが、神子王扈は言った。
『見ても、見なくても、貴方は後悔する事になる』
神子の言葉を深く勘ぐれば勘繰る程、事は更に暗転している気がしてならなかった。
そして、燼の中の何かが告げていた。
確実に、薙琳に何かが起こる。
その考えに至った瞬間、燼は動かずにはいられなかった。
「すまん、また来る」
そう言って、黒馬に目線を向けると、そこに姿は無かった。代わりに、またも
その瞬間、燼の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
目覚めなければ。
燼が動いたと同時だった、男の姿が消えた。
「……え?」
燼は、男が瞬く間に姿を消した事で虚を突かれ、動きが止まってしまった。
「燼、何時も気を抜くべきでは無い」
背後から声が聞こえ、燼の目を手が覆っていた。身体は思う様に動かず、夢の中だというのに、燼の意識は今にも途絶えそうになっている。
「……まさか、ここ迄辿り着くとは。成長は嬉しいが、今、邪魔されては困る」
夢から逃げ出そうにも、感覚を歪まされ力が行使されない。力が抜け、燼の身体は、その場に倒れてしまった。
「暫く、眠っていると良い」
その言葉と共に、燼は抵抗する間も無く、さらに深い夢の中へと沈んでいった。
ズブズブと沈んでいく燼の身体を見届けると、男は暗闇の一点を見つめ、語りかけた。
「神子王扈、上手く私の夢を盗み見た様だが、手遅れだ。残念だったな」
向けた目線の先に、姿は無い。男は、その場に居た存在に向け、静かに笑うと、その場から姿を消してしまった。
――
――
――
「燼、そろそろ起きろ」
眩しい光が差し込む部屋の中、雲景は先日と同じく起きない男の身体を揺すっていた。
だが、どれだけ揺すろうが、声を掛けようが、一向に目覚める気配が無い。
「参ったな、またか」
最早、燼の能力を知った今、慌てる事も無いが、先日、雲景が叱ったばかりだった。
主人は甘い。だからと言って雲景まで、甘やかす気は無いのだが、先日の話からして、何かしら用事とやらなのだろう。
雲景は、腕を組み、うーんと唸りながらも、暫くそのままにしておく事にした。どの道、起こし方も分からない。仕方なく、雲景はそのまま部屋を後にしたのだった。
――
――
――
緑省 宿場街ハジン
朝、鸚史が泊まる部屋の扉を最初に開けたのは、珍しくも薙琳ではなく、黄軒轅だった。当の本人も困惑しているのか、困り顔を見せている。
「……あの、薙琳、どこに行ったか知りませんか?」
それは、思いもよらぬ言葉だった。
「部屋にいないのか?」
「昨日の事もあったので、様子を見ようと思ったのですが、居ません」
そして、軒轅は不穏な言葉を続けた。
「荷物が消えていました。窓も、開いたまま……」
それは、予測していなかった事態だった。鸚史は、焦り軒轅を押しのける様に薙琳の部屋と向かった。
軒轅の言葉通り、部屋はもぬけの空になっており、荷物は何一つとして残ってはいなかった。
「……くそっ……あの馬鹿どこに行きやがった!!」
書き置き一つ残さず、行方を辿る術もない。本当に、専門家に頼るしか、道は残されていないとすら思わせてくれる。軒轅も、鸚史の後を追ってきたが、主人の荒い口調に少々怖気付き、ただ見守るだけだ。
鸚史は、昨夜を思い出しながら、窓の外を睨んだ。何故、何も言わないのか、何の夢を見ているのか、何を考えて目の前から消えたのか……何を考えようにも、何かが欠けている。それを探られまいと、薙琳は自身の思惑を隠し続けたのだ。
「……どうされますか」
「祝融からの連絡を待つ。燼に探る能力があるかどうかは分からんが、今頼る術は他には無い」
探そうにも、何一つとして手掛かりが無い。薙琳ならば、誰にも見られず街を出る事など容易いだろう。
「俺は、頼りにはならねぇのかよ……」
鸚史がぼそりと呟いた言葉を、消えた女が知る事は無かった。
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