第5話

 囲炉裏から聞こえる、火の爆ぜる音が、キナの目を覚まさせた。

 心臓の鼓動が煩い程に、耳の中で早鐘を立て、更には全身汗にまみれている。

 

「(……夢?)」

 

 思い返すのも恐ろしく、瞼を閉じる勇気すら湧いて来ない程の恐怖が、目覚めた今もキナについて回っている。

 しんと静まり返った家の中、キナは耳を澄ませた。遠くで鳴く虫の声、カタカタと風で揺れる戸口の音、木々の葉が擦れ合う音。何気ない音がその耳に届くと、妙に安心できた。そして、キナの耳に、もう一つの音が届いた。

 幼い孫が、いつもと変わらぬ姿で、キナの腕の中で大人しく眠っている。

 あれは、やはり夢だったのだ。そう思うと、少しずつ恐怖は薄れ、安心からか、キナには眠気が戻っていた。


 そう、あれは夢の筈だった。子供の遊びの延長で見た夢。

 だが、あの日から、ユラの様子が変わってしまった。

 明るく穏やかな性格だった、ユラ。それまでは、他の兄弟や村の子供と遊んだり、母親や祖母であるキナに甘えたりと、何ら普通と変わりない子供だった。なのに、あれからというもの、ユラは一人で過ごす事が多くなっていた。一人でぶつぶつと話しては、何かに語りかけている様にも見える。何をやっているのか問いただすと、何でもないと子供らしい笑みを見せるが、それも一瞬で消えてしまう。

 そうしているうちに、ユラは不気味な子供だと、遠ざけられる様になっていた。

 誰も近づかない、誰も話しかけない、両親すらその姿を嫌煙した。

 あまりにも不憫な子供。キナも、ユラが不気味には感じていた。だが、突き放せば、いつしかいなくなった母の様に、ユラも消えてしまいそうだった。せめて、自分だけでも繋ぎ止めておく必要がある。そう考え、ユラを引き取り、二人で暮らす事にした。

 愛情さえ示していれば、そのうち普通の子供と変わりなくなる。そう、キナは信じていた。

 そして、何年か経った頃だった。成人間近になったユラは相変わらず、ぶつぶつと一人で呟いては、何かと話をしている。それも、夜になると暗がりに語りかける事が多くなっていた。声は聞き取れず、何を話しているかまでは、分からない。何度か内容を聞いてみようと近づいてみたが、あっさりと気付かれ、大抵なんでも無いと言うだけだった。


「(このままで良いのだろうか……)」


 既に、ユラは村八分の状態だった。かろうじて、キナの存在がユラと村人を繋ぎ止めいてたが、キナも自分の年齢と身体の状態を鑑みると、いつまで共に暮らせるかは分からない。悶々とした日々が続き、どうにもならないもどかしさばかりが募っていた。

 そして、ユラが成人する日を迎えた。本来なら、祭主によって村中の成人する者が集められ、一同に祝いを述べられる筈だった。だが、ユラが呼ばれる事はない。

 せめて、キナだけでも祝おうと少しばかり贅沢な食事を並べてはみたが、ユラは呆然と料理を見つめるだけ。

 孫の哀れな姿に、キナの目から涙が溢れた。祝いの席で泣くなど本来はあってはならないだろう。だが、あの日、あの時から、何かが変わってしまった孫が、自分の責な気がしてならなかったのだ。


「ごめんなさい……」


 ぽつりと溢れた言葉。独り言にも近いと思った言葉だったが、思いもよらず、ユラは言葉を返していた。


「婆様、安心すると良い。これ以上、気を煩わせる事は無い」


 キナは、ぞっとした。その声は、ユラでは無いの声。


「あんたの孫、今頃にいるんだろうな」


 気味の悪い笑みを浮かべて、嫌らしく笑うはユラでは無い。キナの脳裏にあの日の夢の記憶が蘇っていた。

 ユラの手を放し、ずるずると何処までも引き摺られる恐怖。身も凍る様な恐怖が確かにあった。だが、もし、誰かが助けてくれたなら、それは――


「あれは……夢じゃ無かったというの?」

「夢、夢の通い路、常夜……夢であり、現実。あんたは孫に助けられ、身代わりに孫は常夜から出られなくなった」


 そう言うと、は、ゆらりと立ち上がった。ゆっくりと、キナに近づいていく。

 恐ろしい。最早、キナの目にはがユラには見えなくなっていた。近づくから遠ざかる様に、後ずさる。戸口は、ユラの背後で、逃げるのは難しいだろう。


「なあ、婆様。ここは、つまらないな。そう思わないか?」


 ゆっくり、ゆっくりと近づくそれに、キナの恐怖は増していた。


「獣共の声も、聞き飽きた」


 僅かに、の目がキナから逸れた。その瞬間、キナは一瞬で獣の姿へと変わった。雌鹿の姿になったキナは、の横を思い切り駆け抜けた……が、何かに足を掴まれ、身体は勢いよく床へ打ち付けられていた。


「う……」


 足は、得体の知れない何かに掴まれたまま、身動きすら取れない。

 そして、はっきりとした殺意がキナに降り注いだ。首を掴まれ、床に押さえつけられると、いよいよ終わりなのだと、キナにもはっきりとわかっていた。

 の右手には、火箸が握られている。キナは、恐怖から目を伏せ、その身を震わせていた。


「大丈夫だ、あんたの家族も一緒さ」


 言葉を終えると同時に、キナには激しい痛みが降り注いだ。は愉悦の表情を浮かべながら何度も、何度も、喉を突き立てた。殴られる様な痛みと、火箸が肉を抉る痛みで意識が埋まり、キナはそのまま息絶えた。

 獣の姿は消え、一人の老婆が血溜まりの中、恐怖の顔のままで死に絶える様を、は暫く眺めていた。そして、また、今度は戸口へと向かってゆっくりと動き始めたのだった。


 ――

 ――

 ――


 緑省 宿場街ハジン


「きゃぁああああっ!!!!」


 つんざく女の悲鳴が宿に響いた。隣室で眠っていた、鸚史にもそれは届き、聞き覚えのある声だっただけに、慌てて、悲鳴の元の部屋へと向かっていた。


「薙琳!!」


 勢いよく扉を開けると、部屋の主の姿は寝台には無い。慌てて、そこら中を見回すと、薙琳は暗闇の中、部屋の片隅で震えながら蹲っていた。身体を丸め縮こまり、何かに怯えている。鸚史は近づき、薙琳に触れると、鸚史の存在に気づいていなかったのか、びくりと肩が跳ねた。


「薙琳、大丈夫か?」


 薙琳は答えなかった。暗闇の中、女の啜り泣く声だけが響く。弱々しい姿に、鸚史は薙琳の隣に座ると、静かに背を撫でた。弱々しく泣いている姿を見せたく無いだけなのか、今も、肩を震わせ顔すら見せない。


「俺に、話してくれないのか?」

「……ごめんなさい」


 何に、謝っているのだろうか。何も話せない事だろうか、それとも、主人に弱った姿を晒した事だろうか。それとも、別のにだろうか――。

 鸚史には、様々な思考が巡ったが、一番の思いは一つ。話して欲しい、だった。

 どんな事でも構わない。ただの夢なのか、それとも何か煩わせている事があるのか、正直に話して欲しかった。

 そして、背を摩り続け暫くすると、薙琳は落ち着いたのか、気まずそうに鸚史を見た。


「夜中に起こして、申し訳ありません」


 はっきりとした表情は、見えないが、その声は淡々としていた。

 

「気にするな、眠れそうか?」

「……ええ」


 それを聞くと、鸚史は立ち上がった。


「明日は、移動だ。無理そうなら……」

「平気です。予定通り、明日は皇都へ向かいましょう」


 いつも通り、漸くそう思える声が聞こえた。少しばかり安心できるそれに、鸚史は小さく息を吐くと、薙琳の部屋を出た。自身の部屋へと向かい、今にも戸を開けようとしたが、ゆっくりと近づく軒轅の気配に手が止まった。


「薙琳は大丈夫でしたか?」

「……どうだろうな」


 はっきりしない返事。不安を煽る様な物言いに、軒轅は何か言いたげだった。この所、先達である薙琳の様子が不審であるのは、軒轅も気づいていた。そして、あの日……初めて薙琳とで会った日の事が気に掛かる様になっていた。


「あの……俺……」

「……お前まで隠し事か?」


 軒轅は、暗闇の中でも、鸚史の険しい表情が見える様だった。隠し事は、薙琳と出会ったその日から、ずっとある。そして、今日、薙琳の悲鳴を聞き、僅かに読み取れたの状況で、もう隠す事が出来ないと判断していた。

 

「薙琳と初めて会った日、本当は、神殿で声を掛けたって言うのは、半分嘘でした」

「……何となくおかしいとは思ってたが、半分ってのは?」

「神殿で会ったのは本当です。……その」


 再び息を吐き、鸚史は小さく手を小招きすると、軒轅を部屋へと招き入れた。窓際に備え付けてある卓に座ると、軒轅もそれに続く。

 

「あの時、神殿で薙琳は突如、倒れたんです」


 鸚史にとって、不可解だった話が繋がった瞬間だった。神殿で偶々会った。何とも不可解でしか無い。何の信用もない男に、薙琳が話を通すとはとても思えなかったからだ。薙琳が倒れ、それを偶々近くにいた軒轅が助け、その礼に鸚史への伝言を承る。合点がいくと同時に、新しい問題も浮上した。

 病に罹らない不死が、何故、倒れたかだ。

 

「……何で黙ってた」

「薙琳に黙っていてほしいと頼まれまして……それが言伝を伝える条件だと」


 軒轅も、不審には思ったが、単純に体調を崩している事を主人に知られたくないだけなのだろうと、その時は然程気にも留めなかった。だが、聞けば薙琳は不死だと言う。それだと話が変わってくる。薙琳に問いただそうとするも、約束を破るのかと、詰め寄られてしまい、そのまま軒轅は胸中に仕舞い込むしかなかったのだった。


「倒れた後も、夢でうなされていて……無理矢理起こしたら、殴られそうになりまして」

 

「……その時から、既に何か始まっていたのか」


 悪化し始めたのは、ここ最近と見ていいだろう。そして、今日の悲鳴。余程の悪夢に魘されているだけか、それとも……


「薙琳は、何に怯えているのでしょうか」


 子供では無い。ただ夢に怯えている訳ではなく、何が悪夢を引き寄せているのか。考えて答えが出る問題ではなかった。

 

「……専門家に聞いてみないとな」

「専門家?」

「一人、思い当たるが……あいつが何処まで出来るかは想像もつかんな……」


 夢は、詳しい者に話を聞くのが一番だ。鸚史は、燼の姿が浮かんでいた。幸いにも、季節は秋。然程忙しい時期から外れつつある今ならば、融通も利くだろう。

 鸚史は、立ち上がり寝台横に置いてあった白玉を手に取った。発光し、志鳥が飛び出し手に留まると、それに向かって話し始めた。


「祝融、少々薙琳の様子に不審な点が見られる。俺では、判断がつかず、出来れば燼の手を借りたい。手が空き次第、対応してもらえると助かる」


 言葉を託された志鳥は、不安を乗せて、暗闇の向こうへと飛び去っていった。

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