番外編 亡霊の呼び声 弍
だが、そんな道理が通るはずもなく、祖父である黄家当主が何とか仕事に就かせようとすれば、逃げ出しては捕まらず、話が流れるの繰り返し。しかも、一度身を隠すと、短くて一年、最長で三年も帰ってこない事もあった。何処で何をしているか誰にも分からず、黄家が治める
そうしているうちに、当主……軒轅の曾祖父は痺れを切らしてしまい、今回強制的に軒轅をとある家へと連れ去ろうとしたわけだが――。
さて何処に行こう。何とも楽しげな様子の軒轅は、意気揚々と平民街を歩いていた。面倒ごとの雰囲気が漂い始めた家をこっそりと抜け出し、次は何処に行こうかと悩んでいる。
軒轅を見つけられない理由は至って単純だった。手引きする者はいたが、それ以外は軒轅は誰にも頼る事無く、皇都から出ているのが原因だった。
前もって、金を渡しておき用意だけはさせておく。準備させておいた物資を運ぶ荷馬車に揺られて皇都から出てしまえば後は簡単だ。暗闇に乗じて飛び去るだけ。
そして、今日も神殿にて手引きの者と待ち合わせをしていた。頭と顔を隠しながら適当に参拝客に紛れては、時を待つだけの筈だった。
ふと視界に、一人の女が映り込んだ。青ざめた顔にふらふらと歩いては、頭を抑え今にも倒れそうだ。只人らしき姿に関わるかどうかを悩んでいると、女の顔色は益々悪くなる一方で、恐怖を帯び、何かに怯えていた。
軒轅は、手を出そうか悩んだが、放っておくのも憚られる。小さく息を吐くと、女に近づいた。
「あんた、大丈夫か」
女の肩に手を掛けて支えようとしたが、一歩間に合わなかった。女はその場に倒れ込んでしまい、軒轅は慌てて手を伸ばした。
何とか、腕一本掴む事は間に合ったが、女の意識は途絶えていた。
関わってしまったのなら後には引けない。軒轅は、女の腕を軽々と引き上げ肩に担いでいた。
「(さて、どうするかな)」
――
――
――
じわじわと広がる闇の底。黒い靄が薙琳に纏わりついていた。腕を払っては近づけまいとしても、煙を相手にでも意味はなしていない。道も無く、どこに向かえば良いのかも分からない上に、何も見えない、何も聞こえない。どこかへ向かおうにも、足は靄が鉛の様に重く、その場から動く事も儘ならない状態だった。
これは夢だろうか、とぼんやり考えては辺り見渡した。どれだけ現実からかけ離れていても、薙琳には夢を夢と気づく事は珍しい事だった。
「ねえ、母さん」
思わず、薙琳の肩が跳ねた。
まただ。夢の中にも、声は追いかけてきた。だが、今度は耳元ではなく、背後から声は響き、更には気配までそこにある。
薙琳は、早くなる鼓動を抑えながらも、恐る恐る振り返った。
「母さん、どうして私の家族は助けてくれなかったの?」
そこには、老婆が血溜まりの中で疼くまり、遺骸らしきものをその腕に抱え、老婆の嗄れた声で啜り泣いている。
目を背けたくなる光景だ。しかし、薙琳の身体は微動だにしなくなっていた。その光景を焼き付けろとでも言わんばかりに、瞼を閉じる事も、耳を塞ぐ事も許されない。
「……ごめんなさい」
思わず言葉が溢れた。夢の中で、それが現実に起こったかどうかも、はっきりとしていない。それでも、薙琳は耐えきれなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
薙琳の声は震え、ひたすらに後悔の言葉を繰り返す。目を逸らすことの出来ない光景を見つめたまま、何度も、何度も、同じ言葉を吐き続けていた。
――
――
――
「おいっ」
薙琳の身体が、聞き覚えの無い声と共に乱暴に揺さぶられた。あまりにも突然の事で、薙琳は一瞬で目を覚ますどころか、相手の胸倉を掴み、組み敷いては危うく殴りかかりそうにまでなっていた。
「おい待てっ!」
だがそれも、慌てる軒轅の金色の髪と瞳が目に入ると、顔に当たる手前の所で止まった。
「目は覚めたか?俺は礼を言われる覚えはあっても、殴られる覚えは無いんだが?」
「申し訳……ありません」
寝ぼけていたとはいえ、龍人族相手になんて事をしてしまったのか。薙琳は慌てて、乗り上げた軒轅の身体から降りると、頭を下げた。
「まさか、俺も女に押し倒されるとは思わなかった」
冗談混じりだが、軒轅はこれと言って怒っている様子は無い。それでも、薙琳は顔を上げられなかった。
永く風家に仕えていたが、これ程の失態もない。
「身体は大丈夫そうか?」
「……お陰様で。私の様な者を介抱していただき、感謝痛み入る所存にございます」
今どういう状況で、何処にいるのか。何処かの家か店に連れて来られた程度しか把握できていないが、はっきり言ってどうでも良かった。
ただただ頭を下げ、誠意を示し続けた。
「顔を上げてくれ。別に大した事はしてないし、これと言って……」
軒轅の言葉はそこで止まった。何やら考え始め、薙琳をまじまじと見ている。
「なあ、お前名は?」
「薙琳と申します」
「姓は?」
「卑賤の生まれ故、ありません」
「ならば、どこかの家に仕えているのか?」
「……
頭を下げたまま、男の問いに落ち着いた様子を見せ答えていた薙琳だったが、誰に仕えているか。それだけは答えられなかった。
それが意味するものを男は察した。
「……俺が黄を名乗ってもか?」
「答えられない事が、答えと受け取っていただければ」
その答えこそが、主人の名を仄めかしているものではあったが、助けてもらった手前、既の所まで話してはいた。
素直に答えはするものの、薙琳は深々と頭を下げたまま微動だにしない。いつまでそうしているつもりなのか、軒轅は溜め息と共に、口を開いた。
「なあ、顔を上げてくれないか。話し難い」
そう言って、漸く薙琳は顔を見せた。そこに表情は無い。目覚めてすぐこそ動揺していたが、声も態度も既に堂々たるものだ。
「(これは……)」
しっかりと教育され、更には龍人族を軽々と組み敷いてみせる手練れときた。軒轅は、うーんと唸ると何か思いついた様に、部屋の奥に向かって声を掛けていた。
「おい、
薙琳は思わず、軒轅の目線の先に目をやった。そこには、今いる部屋に唯一の扉があり、わずかに人の気配がある。
気は抜けないが、薙琳は何気なく見回した。平民の民家にしてはやたらと広い。そして、耳を澄ますと、階下からは複数の話し声が聞こえてくる。窓の外も大通りでもあるのか、矢鱈と騒がしい。
商家だろうか。そんな事を考えていると、扉が開くと共に、一人の中年の男が顔を見せた。
「起きたんですね。いやぁ、旦那が女連れて来るなんて何事かと思いましたがね」
和號と呼ばれた男は軽快に現れては、龍人族を相手にしていると言うのに、臆する事無く舌を回し続けている。慣れか、度量かは分からないが、商売人風の軽口がとめどなく溢れ続けていた。
「調子はどうだい?さっきまで死人かと思うぐらい真っ青だったんだ。見た所、そこらの者じゃ無いんだろう?」
「和號、俺と同じだ。話せん」
成程、と和號は呟く。
「良い物着てるもんなぁ。まあ、旦那と違って隠すのは簡単そうですが」
和號は姿勢正しく座る薙琳をじろじろと見た。
「その事だが……今回は止める」
「へ……?手筈は整ってますぜ、金は貰いますよ」
「勿論だ。だが、予定通り、暫く此処には置いてくれ」
「構いやせんが、予定日数を超えたら追加で貰いますよ」
「ああ」
慣れた会話に金の会話。商売にも聞こえるが、何処か物々しい。
「深くは聞きませんが、まさか……」
「無粋な詮索はやめておけ」
睨むではないものの、軒轅の諌める口ぶりに、和號は思わず口を塞いだ。お喋りが好きなのもあるのだろうが、分別は弁えている。
そして、顔を商売人風の胡散臭い笑顔になったかと思えば、出てきた言葉も、いかにも商売人だった。
「まあ、俺も上客は逃したくありません。これからもご贔屓に」
見ざる言わざる聞かざる。
軒轅が懐から纏まった金子を取り出せば、それを受け取った和號は、そそくさと出て行った。
突風の様に現れ口を開いては、去っていく。まるで嵐だ。
「……彼は?」
「逃し屋だ」
逃し屋なる者を、薙琳は詳しくは知らなかったが、言葉通りの者ならば、軒轅は逃げるつもりだったという事になる。
「黄家の方……ですよね?」
「ああ」
「止めた……というのは、逃走を?」
「そんな所だ」
薙琳は首を傾げた。何か目的があって、逃し屋なる者を雇い、和號の口振りからも準備は整っていた筈だ。何より、二人の会話から一回や二回の事では無さそうだ。そもそも、龍人族が何から逃げるというのだろうか。
薙琳の頭は混乱するばかりだった。が、そんな薙琳を他所に、軒轅は言葉を続けていた。
「頼みがある」
ますます混乱した。助けて貰ったのは確かだが、薙琳の主人が黄家よりも格上か同等という情報だけで、この男は何を判断したのか。
だが、助けて貰った手前、断るわけにもいかなかった。
「私個人で解決できるものでしたら、お受けできますが……」
「ある意味では。お前の主人の名は何と無くだが、予測出来た。その主人に、お伝え願いたい」
会話に手掛かりはあっただろう。だが、特定は困難と薙琳は考えていた。だが、軒轅は確信を持って薙琳に向かい言葉を発している。
「黄軒轅を雇う気は無いか、と」
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