番外編 亡霊の呼び声 壱

「リン、お前は昔から何も変わらないな」


 そう言った、老人の姿の男は、夕食もそこそこに箸を置いていた。ふう、と小さく溜息を吐いたかと思えば、老人特有の痩せ細った足を摩っている。


「脚、また痛むの?」

「……あぁ、いつものだ。暫くしたら治るさ」


 年々、男は体に不自由を感じていた。それは誰にでも訪れる老いであり、本当なら目の前に座る女も同じ様に白髪と皺を拵えた姿になる筈だった。

 二人は、獣人族の村に同じ年に生まれ、幼馴染として育ち、恋人を経て祝言を挙げた。そして、祝言から何年かすると娘も生まれ、平凡で何の変哲も無い生活だが、それなりに幸福を感じていた。

 最初こそ、いつまでも若々しい女としか考えなかった。子供を産んでも、衰えを見せず、若々しさを保つ。女の快活な性格も相まって、より若く見えたのもあった。しかし、どれだけ時が経とうとも、女が少しも衰える様は見せない。


「気にし過ぎよ、そのうち追いつくわ」


 そう言って女は笑ったが、どれだけ待っても、その時が来る事はなかった。子供が嫁入りを果たし、孫が生まれる頃にもなると、男は年齢を重ねたが、女の見た目に、娘との差は無くなっていた。その頃になって漸く男は、妻が不死であると知ったのだった。

 

 男は足を摩っていた手を止め、女を見た。

 若く快活な女は、男の姿を不安気な面持ちで見つめている。何を心配しているか、そんな事は考えずとも分かっていた。


「リン、お前は若いままだ。俺の死を待つ必要は無いんだぞ」


 何度、その会話を重ねただろう。男は女と過ごしているうちに、惨めに感じる様になっていた。最早、黄泉の道へと踏み込みかけた肉体が煩わしいとすら感じているのに、隣に立つ妻は、何の苦もなくそこにいる。

 皺がれた体、皺がれた声、妻は写鏡などでは無く、遠い過去がそこにいる様だった。

 昔は女と共に妖魔狩りに出たものだが、今は若い衆に役目を譲り、男は後進を育てるのに専念している。だが、妻はそんな若い衆を引き連れては、血気盛んに向かって行く。

 その隣に立っているのは、昔ならば自分だった。腕っ節に自信があり、獣の姿になれば妖魔など恐るるに足りず。

 口惜しい。そう考えてしまう事すら億劫で、男は女に離縁を申し出る様になっていた。


「釣り合いの取れた男なら他にもいる。俺なんかに構ってるよりも、余程実りがあるだろうよ」


 卑屈な言葉に、卑屈な態度、男は自身の感情をそのままに伝えていたが、女は男の態度を気にする素振りも無かった。

 

「何言ってるのよ、碌に家事もできない癖に偉そうな事ばかり言って」


 女は、呆れた表情を見せては、男の申し出を受け入れなかった。適当に躱しては、また同じ会話を繰り返す。結局、その会話は男が床に臥すまで続いた。

 何年かすると、男の脚は使い物にならなくなっていた。起き上がれなくなり、女に面倒を見てもらう生活が続いたが、身体は衰え弱っていくばかり。そうして一年も経たないうちに、男は息を引き取ったのだった。


 男の葬儀を終え、亡骸が火に包まれる様を、女は眺め続けた。肉体は火によって浄化され、残った遺骨はいつか土へと還る。肉体から解き放たれた魂は、黄泉の国へと旅立って行った。


「……置いてかれちゃった」


 女が寂しさと共に溢した言葉は誰に聞かれる事も無く、消えていく。男を見送り、家に帰ると、がらんとした家に虚しさだけが込み上げてきた。本当に、ここに自分は住んでいたのだろうか。そんな考えすら浮かんでいた。


「(ここに私の居場所は無い)」


 そう考えるが早いか、女は旅路の準備を始めた。何も考えず、ただ必要な荷物を詰めては、思い出は全て家に置き去りに、村の入り口へと向かっていた。

 迷いも無く、旅路の荷物を持って淡々と歩く姿は、村人からすれば異様に映った事だろう。夫を亡くしたばかりで気が触れたのだと、慌てて娘を呼びに行く者までいた。


「母さん!何してるの!」


 村人に呼ばれ、母の腕に縋り付く娘。その姿は異なるものがあった。母と呼ばれた女は若々しく、その腕に縋り付く女は、初老に近づきつつあった。目尻の皺や、薄らとで始めた白髪に、子育てに疲れた様な顔。

 女は縋り付く娘の腕を優しく振り解いた。


「キナ、私、此処には居られない」

「何で!?父さんが死んじゃったから?」

「……あの人の次に、あんたを看取る事を思うと、気が狂いそうになるの」


 その言葉で、娘は女を引き止める事が出来ないのだと悟った。

 

「家にあるもの、全部あんたにあげるから、私はあの人と一緒に死んだと思って」


 夫の黄泉への旅立ちと共に女は妻の役割を終え、同時に、母の役目も終わりを告げたのだ。

 女は泣き崩れる娘をその場に残し、一度も振り向く事なく旅路へと歩みを始めたのだった。


 ――

 ――

 ――


 記憶は、どれだけ古くなろうとも、消えはしない。美化される事もなく、苦く、想いもそのままに心の片隅を占領して残り続けている。既に、村を離れた年月を考えれば、娘はとうの昔に黄泉へと旅立ったはずだ。それでも、薙琳の中に色褪せる事の無い古い記憶が蘇っていた。村が今も健在かどうかも知る所には無く、戻ろうと言う考えも無い。

 ただ、感傷に浸るほどに、時間が出来たと言うだけ。自身に与えられた風家邸の一室で草木で覆われた庭園を眺めながら、思い出に耽る日々が続いていた。

 主人である風鸚史が、時期当主に決まり、その前段階として文官として皇宮に勤める様になってからというもの、薙琳もまた、立場を改める必要があった。

 それまでは、気楽な次男坊の従者兼お目付役で良かったが、本格的に時期当主になる事を考えると、薙琳では侍従が務まらないと、一時的にお目つけ役は解任された。だからと言って、風家が実力のある薙琳を手放す訳も無い。

 皇孫姜祝融殿下より、風家へ薙琳を一時的に従者として雇用したいと提案されたが、当主は断固として首を縦には振らなかった。

 あくまで、薙琳は風家に仕える者だ。その主張により、薙琳の仕事は風家邸で私兵を育てる事や、当主の護衛だった。今迄の業魔との戦いに比べれば、なんて事のない、手軽な仕事だ。薙琳の実力を知る私兵は従順で、当主の護衛も大して必要な機会もない。

 要は、暇なのである。

 遠い過去を思い出す程に時間が余り、朧げな記憶の中で鮮明に残った苦い記憶ばかりが呼び覚まさていた。


「槐様の所にでも行こうかしら」


 独り言をボソリと呟くと、薙琳は呆然と空を見た。春が近くなり、暖かい気候に青空と、部屋にこもっているのが勿体無いくらいの陽気だ。呼び立ては無いが、暖かくなり忙しくなり始めた亭主が不在の今頃は暇を持て余している事だろう。

 今日の訓練は終わり、これと言ってやる事もない。思い切り伸びをすると、薙琳は部屋を出た。

 使用人の区画を抜け、屋敷の管理を任されている者に一言出掛けると伝えれば、後は玄関先から外へ出るだけ……の筈だった。


「薙琳、どこへ行くのかしら」


 背後から響いた、か細く艶のある女特有の声色に、薙琳の肩が揺れた。振り返ると、そこに居たのは同じく暇を持て余している、若奥様……鸚史の妻婀璜あこうだった。


「少しばかり外に出るだけです。何か御用命でも?」

「いいえ、また、用も無いのに外宮に赴くつもりかと思って」


 嫌味な言い方だ。獣人族嫌いと、自身だけが外宮に招待すらされない事も相まって、人目も気にせず薙琳を睨む様に見下ろしている。しかも、招待すらされない事に関しては、薙琳に一切の非が無いにも関わらずだ。

 

「急いでおりますので、これで」


 だが、関わる方が面倒だ。特に、当主と次期当主が居ない時こそ、逃げたほうが楽と、挨拶もそこそこに、そそくさと風家邸を後にした。


「(……懐古主義じゃ無いけど、なりたくもなるわね)」


 昔懐かしむ……穏やかな生活を思い出しているのは今の状況もあるのだろう。かと言って、既に夫を亡くし、娘を捨ててしまった薙琳も、本気で戻りたいとも思っているわけではない。ただ、今にも不満が爆発しそうで仕方がないだけだった。


 ――


「何であの方だったのか、今だに分からない」


 そうやって、簡単に愚痴を溢せる相手がいたら、どれだけ良かったことか。実際は婀璜の目を盗んで外宮に行く事も憚られ、不貞腐れて酒楼に入り浸る。下手に婀璜に情報が漏れると、単純に面倒に思えてしまい、安酒で時間を潰す事が増えていた。

 長年、鸚史のお目付役をしていたお陰で、そう言った店はよく知っている。ただ、昼間から酒楼に入り浸っているのはあまり外聞が宜しくない。適度に行く店を変えては、それとなく他人の会話に耳を欹て、酒の肴にする日々が続いていた。


「……嫁に逃げられて」

「妖魔の大群が……」

「緑省まで護衛を……」


 昼間から酒を煽っているもの達の会話は、貴族街では決して手に入らないものばかりだ。勿論全てが真実ではないが、聞いているだけでも、それなりに楽しめた。他人から見ると、悪趣味にも見えるだろう。薙琳も内心では、そう感じているが、退屈が全て悪い。そう言い聞かせては、一人で安酒を楽しんでいた。


「あんた、娘を捨てたのか?」


 それは、どの声よりもはっきりと薙琳の耳に届いた。まるで、耳の側で囁いているかの様にも聞こえる。あまりにも突然、地の底から誘う様な声に、思わず背筋が凍りそうだった。思わず、一体誰がその様な話をしていたのか確認しようとするも、誰一人としてそれらしい話はしていない。

 まるで、白昼夢でも見ていた様な気分に薙琳の酔いは一気に覚め、残りの酒を一気に喉に流し込むと共に、薙琳は逃げる様に足早に店を出た。


「……今日は散々ね」


 行く当ても無く、ふらふらと平民街を彷徨い歩く。

 嫌な声だった。今も、声も言葉も耳に残っては離れない。特に、此処最近は死んだ夫や、娘の事を考えていたのもあり、妙に引っ掛かる。心が騒つく感覚に、薙琳は俯き加減に歩き続けた。


「(やっぱり槐様のところへ行こう)」


 騒つく胸を抑えながら、皇宮へとまっすぐ道を決めた時だった。


「ねぇ、何で私を捨てたの?」


 またも耳元で声が囁いた。はっきりと、聞き覚えのある女の声は、記憶の中の娘の声そのもの。

 騒がしい往来で白昼夢な訳がない。薙琳は皇宮へ向けていた足は、別の方向へと向け走り出していた。


 ――


 香の匂いが立ち込めるそこで、薙琳は顔を顰めながらも白神へと祈りを捧げ続けた。桜省鎮守の森を守る白き虎。薙琳も色は違えど、同じ獣の姿を宿すだけに、親近感が湧く存在でもあった。


「(一度くらい、孫か曾孫の顔でも見に行った方が良いのかしら……)」


 化けて出るなど、馬鹿馬鹿しい話だ。もしそうだとしたら、娘は黄泉への道を外れとなって彷徨っている事になる。

 黄泉の道を外れる者は、恨みを残した者だと言う。又は、現世への思いが断ち切れず、黄泉への道が見えなくなる者。魂は、鬼となり彷徨い続ける……と言われているが、その後どうなるかは、記されていない。

 現世に戻ってくると言うものもあれば、恨みの対象の死を待ち続けるという者、黄泉の道へ迷い込んだ者の魂を喰らわんとすると言う者。憶測は様々で、誰も知らない事象だ。

 恨まれている事に身に覚えがあるだけに、もし、娘が鬼になっていたとしたら――?


「(でも、何で今なのよ)」

「――だって、私の事なんて、ずっと忘れてたでしょう?」


 また、耳元で声が響いた。振り返るが、背後には誰も居ない。


「(一体何なの?)」


 薙琳の顔は青ざめていた。記憶から娘が這い出てきて語りかけている。これ程恐ろしい事があるだろうか。曲がりなりにも、一介の武人として生きてきた。かつて人だった者ならば、幾らでも立ち向かえる強さもあると自負している。だが、もし、それが娘ならば――?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る