番外編 交わる赤と黒

 丹省から皇都に戻った、その日の晩の事だった。何の前触れも無く、彩華が雲景の部屋へと訪れた。その顔は余裕が無いのか、憂いを帯びている。

 雲景が部屋へと招き入れても、彩華は何も語らなかった。ただ、雲景の隣に座り、その肩に頬を寄せるばかり。

 雲景は、彩華が落ち込む姿の理由は何となく察してはいた。彩華を悩ませるのは、いつだって、一人の男だからだ。


「燼と、話したのか?」


 その言葉で、彩華はぴくりと反応したかと思えば、雲景からその身を離し、憂いた顔は消えていた。


「……知っていたのですか?」

「私が知ったのも、つい先日だ」


 雲景は彩華に向き合うと、逃げない様にその手を取った。


「受け入れられなかったか?」

「いいえ、全て納得できた様に思えて……」

「ならば、何故そんな顔をしている」


 彩華の顔は、俯き再び沈んでいた。透き通る金の瞳は揺れ、納得できたと口にはしても、まだ何か蟠りが残っている様子だ。


「今は、何も考えたくありません」


 そう言った彩華は、雲景の首に腕を絡ませ、唇をそれで塞いだ。雲景は驚くも、彩華の頭を抑え、応える様に深く、深く、重ねていた。


 ――

 ――

 ――


 人定にんじょう(二十二時ぐらい)の鐘の音が鳴り終わり、夜も深まるばかりの頃合い。満月を灯りの代わりに、風鸚史は外宮に足を向けていた。昼間と違い、家路に着く者が多い時刻とあって、人は減り今もすれ違う者も無い。特に官吏が少ない外宮とあって、兵士も少なく静寂の中響くのは、自分の足音だけだった。

 鸚史は目的の宮へと辿り着くと、女官に応接間に案内された。応接間には呼び出した本人とその弟が会話も無く置き物にでもなったかの様に、椅子に腰掛け待っているではないか。


「こんな時間に呼び出しやがって、しかも二人揃って辛気臭いときた。面倒事か?」


 横柄な態度で、祝融の居宮に訪れた男は、疲れた顔の上に、何とも嫌そうに口をへの字に曲げていた。神妙な顔をして風鸚史を待っていた二人の兄弟を見れば、事の深刻さだけは窺い知れる。


「まあ、座ってくれ。酒ぐらい出す」


 そう言って、祝融は鸚史を案内した女官に酒を持ってくる様に言い渡す。「あぁ、疲れた」と見た目の若さと反する様にぼやきながら鸚史は空いている椅子へと腰を下ろすと、酒を待つ間も口は回り続けた。


「お前ら珍しく新年も皇都に居たらしいな。色々噂が出回ってる」


 皇宮は絶えず噂で溢れている。皇宮で文官として勤める鸚史には耳に胼胝が出来るほどに、噂と言う名の情報が入ってきた。使えるもの使えないものを選り分けては、手土産がわりにする事とも暫しあった。


「別に意図は無い。陛下の勅命で此方にいただけだ」

「正直、陛下の意図が読めなくて困っていますが」


 二人は些か不満気だった。何の為に勅命を下したかが、全く分からないままに宴が終わりを迎えたからだ。何か意図がある、そう構えていただけに肩透かしを食らったどころか、彩華にとって良い見せ場になっただけだったのだ。

 悪い話では無くなったが、どこと無く気味が悪い。


「あと、彩華も中々面白い事になってるな、軍部が引き抜こうとしてるって話だ」


 鸚史は楽しそうに語るが、笑える話題ではなかった。

 

「武官を軽々押さえつけたからな……適当に牽制しないと面倒事になりそうだ」

「問題無い。俺が別の噂を流しておいた」

「……どんなだ?」


 怪しんだ眼差しを向ける祝融に、鸚史はまたも笑っていた。

 

「郭彩華女士は、祝融殿下に跪き忠誠を誓った身だとな」


 事実ではあるが、時代錯誤と言う者もいるだろう。何より、彩華は目立ちたくて、その手段を用いたわけでも無い。


「彩華が嫌がりそうだが、まあ良いか」

「まったく、人が育てた人材を横取りしようと考えるなど……」


 呆れ顔で、静瑛は溜息を吐いていた。彩華は最初から実力を伴っていたのでは無く、鍛抜き、更には実践での経験を詰んだからこそ今がある。その過程を無視し、結果にだけ飛びつく者に蔑視でもむけているかの様に、顔は険しくなっていた。

 

「手間なんて考えちゃいないさ、重要なのは実力が有るか無いかだからな」


 文官として、それなりの年月を重ねたからか、格好も様になり、鸚史は余裕を見せている。

 そうこうしている間に、女官は酒やつまみを盆に乗せて戻ってきた。手際良く三人が囲う卓に並べ終えると、颯爽と下がっていく。女官の足音が遠のき、鸚史は楽し気だった様相から真剣な顔へと変わると、酒器を傾けながら口を開いた。


「それで、本題は?」


 祝融は腕を組み、何も無い一点を見つめていた。そして、燼の間にあった全てを語った。嘘偽り無く、だが、あくまで燼に害は無いという事。それを踏まえた上で、鸚史は杯を玩具の代わりか、手の上で転がすと小さく唸りながらも、再び口を開いた。


「……神子の上に、お前を殺す使命を負ったと。対処は考えたのか?」

「今まで通りだ」


 害は無い。それはあくまで現状で対処出来ているからだ。彩華も死にかけはしたが、彩華の声が全てを止めた。それを害無いで済ませるかどうかは、少々危ない橋を渡っている様な気もしたが、一つの手段と取ればそれまでだ。静瑛も、異論は無いのか黙ったままだ。

 

「お前がそう決断したのなら、異論は無い」


 鸚史も燼と付き合いが長くなるにつれ、無愛想だった子供は成人して好青年へと変貌した様を間近で見ている。実力もさる事ながら、人柄も友好的で好ましい。出来た男を屠るなど、勿体無いの一言だった。どの道、神の子を弑するなど、影響は計り知れない。

 

「鸚史、皇宮にそれらしい噂はあるか?」

「無いな。燼に関しては、ある程度強さは認められてるが、目立って探る奴もいないな」


 神子が言葉にしなければ勘付く者は、まずいないだろう。それでも警戒は怠れない。

 

「しかし、お前を殺したいって割に手緩いな」


 あまりにも軽く鸚史が口にした言葉に、静瑛の目は鋭さを増していた。

 

「鸚史!」


 殺意すら篭った声を向けるも、鸚史の態度は変わらず更なる軽口を叩きそうだ。


「まあ、落ち着けよ」


 今も睨み続ける静瑛を物ともせず、酒を口に運び続ける。そんな二人を尻目に、祝融は肘を突き、こめかみに手を当て考え込む様な仕草に心此処にあらずと、茫然と一点を見つめたままだった。

 

「待ってるのさ」


 茫然としたまま、呟いた声は、どこにいるとも知れない、正体の分からないを指し示していた。

 

「兄上?」

「機が熟すのを、じっと待っている」


 祝融もまた、待っている様だった。が姿を現し目の前に現れた時、全ての答えが、そこにある。


「俺を殺さねばならん理由を、是非とも知りたいものだ」

「おい」


 闇に引き摺り込まれてしまったとでも言う様に、虚な目を見せている。流石の鸚史も、祝融の様子に笑ってなどいられないと、厳しい目を向けていた。


「祝融、俺はお前が狂っちまったなら、手は貸さねえ」

「俺は問題無い」


 さらりと言ってのけ、祝融は酒器を傾け酒を煽った。つまみを無視しては何杯と飲み干し、酒器を空にする勢いだ。飲み過ぎるという言葉を知らない男ではあったが、些か勢いがあり過ぎる。


「本当に大丈夫か?」


 心配する鸚史を他所に、祝融はポツリと言葉を零した。

 

「……俺も、鎮守の森に入った」


 その言葉に、怒りの形相を見せたのは静瑛だった。


「何を考えているのですか!?」

「全くだ。あまりに馬鹿をやる様なら、父上に報告も辞さない」


 鸚史の顔色は怒りを通り越していた。冷たい眼差しは、それ以上の不用意な発言は許さんと言っている。

 

「それで、何が知れた」


 声色にも怒気が含まれ、下手な相手なら不遜を問われるだろう。だが、祝融は動じなかった。ただ一言、あの時白神に告げられた言葉……祖父から贈られた言葉に意味をそのままに伝えた。


「俺は人だそうだ」


 馬鹿げている。そう答える事も出来た。だが、静瑛も鸚史も、それを口にはしなかった。


「英雄であれ。俺が祖父から言われた言葉だ。白神は、そっくりそのままの言葉を俺に告げたのさ」


 静瑛は杯を見つめた。

 不死とは人だ。異能を持っていようが、人である事に変わりは無い。兄は何か違うのではないのか?そう、頭の片隅に浮かんだ事もあった。だが、神は違うと言う。


「兄上は、そう解したのですか?」

「『英雄たる人物であれ。それが、お前が祝炎の力を持って生まれた意味でもある』。俺は人であり、その力を人の為に使え。ある意味で、それが使命なのだと考えている」


 そう答えた祝融の瞳は、何も映してはいなかった。

 

 ――

 ――

 ――


 満月が、眩しく輝く。月光が部屋を照らしては、赤と黒が混じり合い、部屋の主と女の睦言を映していた。

 唇を重ね、手を重ね、肌を重ね、その体温と温もりを奪い合い、快楽に身を委ねる行為に没頭していると、何も考える余裕が無くなってしまう。それが、何よりも心地良かった。

 二人は逢瀬を重ね、擬似的な恋人の関係が妙に心地よく、もう何年も続いている。

 男は愛を囁くが、女がそれらしい言葉を口にする事は無い。

 だからと言って、女が男を手玉に取っているかと言えば、そうでも無く、女は、が湧かないのだと言う。


『雲景様が嫌いな訳では有りません、尊敬しております』


 同僚として、先達としては尊敬しているが、それ以上の感情が生じる事は無いと女は断言した。

 酷い女だ。どれだけ身体を重ねても心揺れる事すら無いのだろうか。そうは思っても、いつか心変わりするやもしれないと、閨を共にする度に男は言葉を送り続ける。閨の中でだけは女は男を受け入れ、男も女が乱れる姿に酔いしれた。まるで、女が自分の手中に収まった感覚に捉われながら。

  

 雲景は、腕の中で背を向けながら寝息を立てている女を眺めた。肌蹴た衣から見える首筋には、大きな古傷が二つ除いている。

 一つは、初めて燼を相手にした時に油断した傷だと言った。

 もう一つは雲景も身に覚えのある咬み傷だ。出会って間もない頃、龍の本能が目覚め、彼女を本気で殺さんとした記憶が今でも鮮明に残っている。

 その傷に関しては負い目を感じていた。自分の失態が招いた事で有り、下手をすれば本当に殺しかねない状況だったのだ。

 思い起こすと、雲景は身震いすら起こりそうだった。逢瀬を重ねれば重ねるほど、彩華への情は高まるばかりで、失えば失意のどん底へと突き落とされる事だろう。

 その負い目が、雲景が彩華に愛情を向ける理由では無いが、きっかけになった事は確かだ。それを恋心と理解した時に想いを伝えるも、彩華は受け取らなかった。ただ、お互い相手はいない。何度か雲景が口説いているうちに、彩華は観念したのか、雲景を受け入れていた。

 彩華は愛情深い。口では、決して語らないが恋人になるこの部屋でだけは、雲景に擦り寄り、時には彩華から口づけを送る事もあった。

 もしかしたら、彩華も擬似的な関係に酔いしれているだけかもしれない。そんな思考も浮かんだが、雲景が示す行動の一つ一つを受け入れる姿に扇状を駆られ、抜け出せないところまで来ていた。

 雲景は、起こさぬ様にそっと彩華の身体を引き寄せた。冬の寒さを紛らわせるが如く抱きしめては、傷跡に唇で触れてゆく。


「……う……ん」


 僅かな声と共に彩華が微かに身動ぎ、寝返りをうつと、寝惚け眼で雲景を見た。


「悪い、起こしたな」

「……いえ」


 寝ぼけたままか、小さく返事をしたかと思えば、雲景に擦り寄っては、彩華は再び瞼を閉じる。そうして、幾つも指折り数えないうちにまたも深い眠りへと落ちていった。

 腕に閉じ込めた体温を感じながら、雲景もまた、瞼を閉じた。


 ――


 東の空が、薄明で染まる頃、朝方特有の肌寒さに彩華は堪らず目を開けた。寒さを堪えながら、布団を抜け出し木戸を開ければ、外はまだ薄ぼんやりした空色と、一日の始まりを告げる鐘の音が鳴るにもまだ早い。外の冷気に思わず身震いし、再び木戸を閉め、そのまま未だ眠り続ける男の隣へと戻った。熱を奪うように、体を擦り寄せては、瞼を閉じる。


「(あったかい)」


 布団の中がいくら温かくとも、一度寒さの中に出た所為か、眠気が消えてしまい、彩華は瞼を開けて目の前に眠る男を見た。寝息は聞こえるが、疲れているのか男は身動き一つ見せない。

 床を共にする様になって何年も経ち、既に恥じらいは無い。

 最低な女だ。彩華は客観的に自分を見ては、そう感じていた。雲景の想いを利用して、今、隣にいる。

 口付けも、肌を合わせる事も、嫌悪感は感じていない。

 それでも、昨日、雲景の下へと訪れた理由は衝動だった。燼の話を聞き、彼が白神の子であると告げた時、彩華に一つの答えが浮かんだ。


―私が燼を拾ったのではなく、燼が私を選んだのだ

 

 導き手として、養い手として、同行者として……最初から神の導きがあり、そう仕組まれていたのだと。

 そして、燼を家族として想う気持ちも、全てまやかしなのだと――

 神の意志がそこにあるのなら、従うだけだ。神に尽くし、その為に身を捧げよう。

 だが、そう考えた時、神の意思の外にあるものを考えた。自分の意思で決めたもの、選んだもの。彩華は、何か一つでいいから、自分の意思が残ったものが欲しかった。

 そして、浮かんだのは、美しい赤だった。

 いつ途絶えるとも分からない愛。決して、自分が持つ事の出来ない感情を、自身に向ける男。

 先に想いを向けたのは、男だったが、それを受け入れたのは自分の意思だ。

 せめて自分を本気で愛してくれるであろう、この男の想いだけは――


『この人の想いだけは、私のものだ』


 誰にも打ち明けることのない考えを、そっと胸に仕舞い、温もりと共に再び微睡の中へと落ちていった。

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