第4話
石材で出来た椅子の冷たさが、身に染みていた。
氷の上で眠っていたかと思う程に、冷え切った身体。その下にある椅子は、雪が舞う程の寒さの中で眠る様な場所ではない事は確かだ。それに加えて夢から覚めた感覚と、さして変わらず、ぼんやりする頭を無理やり起こすと、目に入ったのは東屋の周りを行ったり来たりしている桂玉の姿だった。その表情は驚いていたが、安心もしたのか、ほっと胸を撫で下ろしている。
「良かった……ご気分は如何ですか?」
正直、
「寒いって事以外は。俺、結構眠ってましたか?」
「大して時間は経っていません」
そうは言っても、外に出てから時間は経っている。桂玉が寒さを紛らわせる為に歩き回っては我慢をしているのだろう。白い息を吐くと同時に身体がカタカタと小刻みに震えていた。雪も積もる程では無いが、ちらほらと舞っては消えていく。何もする事もなければ、その場から逃げる事が出来ない桂玉には辛いはずだ。燼は立ち上がり、外套を脱ぐと桂玉に渡した。
「良かったら使って下さい」
「……寒くないのですか?」
「多分、桂玉様程寒さは感じていませんので」
桂玉には燼の強がりかどうかは分からない。それでも、外套を纏っていても、身に沁みる寒さに限界だったのだろう。差し出された、燼の外套をそのまま肩に掛けた。寸法が大き過ぎる所為で、手で押さえていないと、肩からずり落ちそうになっている。少々不恰好だが、それも致し方無い事だ。
「それで、祝融様と槐様は?」
「雑木林の中で話をされているはずですが……何故、祝融様が来られた事を知っているのですか?」
大した事ではなかったが、少々迂闊ではあった。夢の中で、神子がそう言っていたからなどとは、口が裂けても言えない。
「……何と無く、槐様が人を待っている様な気がしたので」
その答えに、桂玉は少々首を捻るも、「そうですか」と小さく頷くだけだった。
燼は、開いたままになっていた風呂敷から、蜜柑を一つ取り出した。椅子は冷たく、外套を脱いだ今、座る気にもなれない。呆然と立ったまま、皮を剥いては蜜柑を次々と口へ放り込んでいると、ペチンと頭を軽く小突かれた。
「行儀が悪い。せめて座って食え」
いつの間にか、背後には呆れた顔を見せる主とその妻が二人で立っていた。
「気分はどう?」
桂玉同様に心配気な顔を見せる槐。目の前で、突然倒れたのだから、矢張り心配させてしまった事が申し訳ない。
「問題ありません」
そうは言ったものの、祝融には報告すべき事が出来てしまった。燼は、何も無いふりはしつつも、それ以上の心配は掛けまいと、笑ってみせた。祝融は、明らかに怪しんでいるものの、槐が安堵している為か追及はなかった。
「なら良い、帰るぞ」
残りの蜜柑を口に放り込み、再び風呂敷の口を結ぶと、歩き始めた一向に慌てて続いていった。
――
――
――
「全然帰って来ねぇな」
掌の上で、小さな植物の種を転がしながら、鸚史がポツリと呟いた。ころころと転がり、時折種が勝手に動いている様にも見える。彩華は鸚史が異能を持っていると知っていても、不思議な物を見ている気がしてならなかった。遊んでいるのか、その種がぷくっと膨らんだかと思うと、芽が出始めている。掌の上という事以外、普通の植物と何ら変わらないそれは、にょろにょろと大きくなっては、大きな葉と花を咲かせるまでになっていた。硬い木々にまで成長し、寒空の下で見る季節外れの牡丹の薄紫に、彩華は目を奪われていた。
「綺麗ですね」
彩華は羨望の眼差しを向け、幾つも咲いた牡丹に手を伸ばした。本物と大差ない手触りに、牡丹の香り。祝融の炎と同様に神の力の片鱗が目の前に現れていた。
「ほんの、お遊びだけどな」
植物を操る力。それが、鸚史が授かった力だった。種は子供時代、異能を鍛える為に考えた遊びの一つだ。能力を知り、細部まで操り、自らの一部とする。そして、今も感覚を忘れない為に、欠かす事なく能力を鍛えている。
「龍にも、異能が有れば良かったのですが」
「龍は、転じた姿が異能みたいなもんだろ。俺からしたら、空を飛べる方が羨ましいけどな」
無いものねだりだ。龍は異能を持って生まれる事は無いと言う。不死という存在だけが、その力を所有出来るとされ、神に選ばれた者と言われるのだ。だが、龍は全てが二つの姿を持って生まれてくる。龍の姿を異能と称するとしても、全てが特別な存在など、あり得ないのだ。
「どうやって飛んでるんだ?」
「どう?」
彩華にとって、空を飛べるのは至極当然の事だった。言われてみると、考えた事も無かったのだと、腕を組み空を見上げるも、答えはない。
「どうやってると思います?」
結論は出ない。彩華は思わず、横で話を聞いているだけだった同じ龍人族の雲景に話を振った。先程まで、鸚史と剣を交えていたとあって、今も滴り落ちる汗を鬱陶しそうに拭っている。雲景は、考えるそぶりもなく、即答だった。
「考えた事も無いな」
「ですよねぇ」
龍にとって、飛べる事は当たり前だ。それこそ、息をするのと同じくらいに。鳥の様に羽ばたく訳でもなく、滑空するでもない。ただ、飛べるのだ。
だが、雲景は何かを思い出したのか、そう言えばと付け足した。
「昔、疑念を抱くと飛べなくなるとは聞いたことがあるが」
彩華にとっては、初耳だったのか驚きと共に、顔を歪めていた。
「えっ、それは困ります」
「私も困る」
「そんな教えがあるのか」
「教えと言うよりは、言い伝えですよ。考え過ぎると、地に落とされる。龍である事を疑うなと言う意味合いだと思いますが」
「じゃあ、時々飛ぶのが苦手って言ってる奴って、そういう事なのか?」
雲景の答えは、何とも言えないだった。人にも、得て不得手があり、器用不器用がある。龍も、同じだ。
「まぁ、あくまでも言い伝えなので……」
結局は何も分からないのだ。鸚史は自身が咲かせた牡丹を見た。確かに、これもどうやって咲かせたかを説明しろと言われたら、出来ない。何となくではない。頭で花を成長させる姿を想像すると同時に、手に力を込めるのだ。祝融も、言っていた。扱い方を最初から知っていたのだと。生まれた時から、呼吸の仕方を知っている様に、炎は自らの身体より生み出せたのだ。
「考えるだけ無駄かぁ……」
そう言うと、鸚史は手に力を込めた。手の上にあった花は、萎み蕾に戻っていく。更には、するすると伸びていた枝や葉までが時が巻き戻るかの如く縮んでいき、遂には種の姿に戻っていた。種を懐に仕舞っていた袋に入れると、剣を手に持った。
「さて、彩華、相手をしてくれ」
「お願いします」
休憩は終わりだ。彩華も矛を手に持つと、鸚史と距離を取り向き合っていた。先程まで、雲景が相手をしていたというのに、鸚史は汗一つかいていない。生きている年数、経験値、全てが上回っている相手だ。
彩華が得意とするは、矛。剣が扱えないわけでも無いが、子供の頃より仕込まれたそれが、一等得意なのは確かだった。間合いをとり、剣に手をかけた鸚史が、彩華の出方を伺っている。
鸚史が、彩華が女だからと手を抜く事は無い。一介の武人として生きている彩華に失礼であると共に、そんな事をすれば恥を掻くのは自分自身だからだ。
黒龍族は、龍人族の中でも特に武人の色が強い。皇軍に務める者も多く、禁軍の将の一人も玄家の者だ。彩華もその習いのお陰か、この十数年で更に腕に磨きをかけ、恐らく皇軍の将の実力にも劣らない程だろう。
気を抜けば負ける。彩華が矛を構える事で纏う空気が、よりそれを思わせた。
彩華の足元がじりっと音を立てた瞬間、僅かな動きに鸚史が反応し動いた。ここ数年官吏をしていたとは思えない程の素早い動きと殺気だが、彩華は容赦なく襲いくる剣を容易に受け流した。僅かに鸚史の口から舌打ちが聞こえるも、集中した彩華の耳には届くことは無い。
打ち合いは続いた。実力は鸚史が上だが、彩華は手堅く守る傾向にある。普段、大刀を振るう燼の相手をしているともあって、力に押し負ける事も無い。
隙がない。鸚史が今一つ決定打に欠く中、更に一歩踏み込んだ。更に強く打ち込まれたそれに、彩華は受け止めるも、僅かに気が逸れた。強く弾かれた矛は、僅かに振るのが遅れ、気付けば鸚史の剣は彩華の首に添えられていた。
「負けました……」
二人の息は上がっているが、鸚史には、まだ僅かに余裕が見える。
「うん……俺が負けるのも近いかもな」
「そうでしょうか」
彩華には、とてもそうは見えなかった。勝てる見込みがあった気がしたが、それを生かしきれていない。力量の差が埋まりつつある感覚に捉われるも、それは鸚史がここ数年は皇宮勤だからだ。単純に、身体が鈍っているとも言えなくはない。
近くにいた女官が鸚史や彩華に手拭いと湯呑みに入った果実水を手渡した。外の寒さなど消え失せ、冷えた果実水が喉に染み込む。
ふう、と鸚史が息を吐くと、流石に雲景と彩華二人を立て続けに相手にし疲れたからか、備え付けてあった長椅子に座り込んでいた。
「お前はやり難い。とことん勝ちに行こうとする割に、手堅い手段を選ぶからな。それに引き換え、雲景は俺や祝融相手だとすぐ諦める」
「お二人相手だと、どうしても……」
雲景は幼い頃より、祝融と共に居る。主人を相手していると思うと、どうしても身体が強張った。それは、静瑛や鸚史と対峙しても、癖となって現れる。
「まあ、業魔相手となれば、雲景も苦手意識は出ないだろうし、問題ないけどな」
鸚史は、あくまで実践ではないのだと付け足すと、果実水を口に含んだ。
不意に、鸚史の目線が遠方を指した。祝融と燼が宮の中から、鍛錬場へと向かっているところだが少々顔色は不穏だ。二人で何か話し込んでいる様子だが、今一つ状況は読み取れない。暫くすると、それも終わったのか漸く鍛錬場へと辿り着いた。
「遅くなった……鸚史、仕事は良いのか」
「そんなもの、終わらせているに決まってるだろう。今日は此処で過ごすと決めてる。気を遣っていただかなくて結構」
余程鬱憤が溜まっているのか、その顔は苛つきすら見える。
「夫婦喧嘩は治ったのか?」
「問題ない。燼、官吏は暇だそうだ、相手をしてもらえ」
軽く返事をすると燼は雲景から剣を受け取ったが、その様子に鸚史は顔を引き攣らせていた。
鬱憤を晴らしに来ていた事も確かだが、燼に関しては手解きなどと言う甘いものでは済まない。
「おい、俺はお前が居ない間に、二人の相手をしていたんだ。労われ」
「ご苦労だった、風
嫌味な言い方に、鸚史の顔は更に歪んでいた。
「お前は何をするんだ」
「彩華に話がある」
思わぬ飛び火に、彩華はキョトンとしていた。
「私ですか?」
「あぁ、今すぐ中に来い」
此処では出来ない話なのだろうが、何かを命じるにしては重い表情だ。彩華は首を傾げながらも、宮の中へと入る様に促す祝融の後に続くだけだった。
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