第5話
白仙山。神住む山と名高い神域でも有る。だが、神域は他にもあるが、白仙山程、他に影響を及ぼす神域は青海ぐらいだと言われている。頂きにある神域が、その地を雪で埋める程の神の威光を放ち、其処に神が住んでいるのだと示していた。
強い北風が吹き荒れていた。凍える寒さに、降り積もった雪の中、燼はじっと耐えるばかりで立っている。熊の姿の方が楽な気もするが、転じた姿では警戒されるかもしれないと我慢していた。だが、そろそろ限界も近い。
「(死にそうだ、毛皮が欲しい)」
毛皮付きの外套は着ているが、足りない。冗談を言う相手もおらず、僅かでも寒さを凌げる様にと身を縮めていた。
丹省 最北部 イルド村
曇り空の中、視界の殆どを占めるのは、霊峰白仙山。噂に違わぬ猛々しく立ち上がる山々に、本当なら見惚れて見上げるものなのかもしれないが、燼にその余裕は無かった。
ひたすらに寒い。冷気の篭った風が、肌に当たる度に鋭利な刃物が切り付ける様な痛みが走る。足も、地面からの底冷えで感覚は麻痺しかけている。南部で育った燼にとって、北部がこれ程寒いなど、想像できようか。出来る限りの厚着をしたいところだが、身動きができないでは困る。ただ、立ち尽くし耐えるだけと言う、何もしていない状況が何よりも辛かった。
村は静かだった。穏やかと言うよりは、人が居ない。降り積もった雪の所為で、誰一人として外には出ていないのだ。特に、太陽が隠れ風が強く吹く日は誰も出たがらないだろう。どの家も、煙突から煙が出ている。この地域では、火を絶やすと、寒さで凍えるからか暖炉で家を温めるのが当たり前なのだそうだ。
その内の一軒、この村の村長の家の軒下で、燼は主人が交渉が終わるのを待っている。勿論、村長の家も同じ様に煙が上がっているが、煙を見ると、より寒気と虚しさが込み上げていた。
何故、そんな状況下で外で過ごさなければならないのか。理由はただ一つ、村長が燼を見ると身を縮めて怯えてしまい、まともに話にならなかったからだ。
どうにも、燼は獣人族から見ると……正確には獣の本能かもしれないが、その目には異質に映るらしい。燼もそれをよくわかっているから、甘んじて待遇を受け入れていたが、寒さに関しては、本当に限界だった。
「(もういっそ、熊になっちまうか)」
南部育ちだから仕方がないと言う、適当な理由でもつけそうになった時、漸く燼の背後で扉が開き、祝融と雲景が姿を現した。そして、その背後には見慣れぬ少女が一人。
「外で待たせて悪かったな。大丈夫か?」
寒さでガタガタと震えながら待つ姿に、主人は軽く笑いながら吹き出す始末。
「もうちょっと遅かったら、熊になってましたよ。北部ってこんな寒いんですね」
「此処は白仙山の影響が強いからな」
そう言った祝融も、寒そうではあるが、多少は慣れているのか燼程寒がってる様子はない。単に顔に出ていないだけなのかもしれないが、それを思うと燼は自分に忍耐が足りないだけな気もしてならなかった。
「それで、そちらは?」
そうだったと、祝融の背に隠れていた少女に前に出る様に言った。
「鎮守の森に選ばれた者だ」
おどおどとした様子で、燼を見上げる姿は一見して幼子の様にも見える。快活そうだが、身分の高い者に挟まれ、緊張しているのか、祝融や雲景とは目を合わせようともしない。
取り敢えずと、寒さで震える燼を目にした少女は場所を移そうと、自らの家へと案内した。少女が両親と住む家は他の家々に比べて、大きく広い間取りに、彼女が如何に重要かを物語っている。
暖炉のある居間へと案内されると、少女の母親らしき人物が白湯を差し出した。燼を横目で見ては、何やら言いたげだ。
「母さん、後は良いから」
「……分かった」
それを悟ってか、少女が母親を締め出したが、心配なのか、此方を伺う様な気配だけが、常にあった。
燼はパチパチと音を立てる暖炉を見た。南部には、存在しない物だ。北部でも一部の限られた地域でしか、見られないものだと言う。締め切られた室内を照らし、暖め、更には湯を沸かすと合理的だ。
「……えーと、それで、しゅく…ゆう様とうんけい様?で良いんでし、たっけ?」
「そうだ、それで、こいつは、お前と同じ獣人族で燼と言う。自己紹介してやってくれ」
祝融に指差され、少女は燼の顔をじっと見た。見慣れないが、獣人族と聞いたからか、どこかほっとしている。
「あたしはナギ……です。一応、森神様に選ばれた者で、祭主をしています」
拙い話し方で、一応高位の者として接しているつもりなのか、それと無い丁寧語を使うが、祝融が含み笑いをしながら普通に話せば良いと伝えると、辿々しい顔付きは一転して気の抜けた顔へと変貌していた。
「一応って……丹の獣人族の中じゃ一番偉い」
白神に選ばれた者が存在する。神子とは違い身近な存在であり、扱うのは小さな祭や祝事や神事だ。そして、その祭主は九つ存在する鎮守の森につき、一人。森に入る事を許された者で、白神の御使とも呼ばれている。
権限があるわけでは無いが、そこらの族長よりも発言力があると言われている。その割には、おどおどとした態度を見せ縮こまっていた。
「いや、柄じゃないって言うか苦手……姜家の家に招かれたり、報告したり、敬われたり……誰かに変わって欲しい」
幼い顔とは裏腹に人嫌いの毛があるのか、目は虚ろだ。
「この村は、姜家の援助で成り立っている。只の祭主よりも役目は重いかもな」
「言わないで……あたしは村で静かにひっそりと暮らしたいのに……森神様は意地悪だ」
祝融の追い討ちに、更に憂鬱な顔を見せる。余程目立つのが嫌いなのだろうか、頭を抱え込んで、目線を上げようともしない。だが、息を吐くと憂鬱そうな顔を燼に向けていた。
「それで、森に入りたいんだよね」
「ああ、一応許可を貰おうと思って」
面倒というよりは、扱ったことのない事例に困惑しているのだろう。白神に選ばれた者の役目は単純な伺いを立てるのみだ。森に入り、神に言葉を貰う。不死として生まれている訳でも無く、只、許されているだけなのだ。
「……燼さんに言葉があったと言うなら、あたしは信じるしかないけど、白仙山は領分から外れるよ」
「手前までの案内で構わない」
それならと、ナギは頷いた。
「森はそんなに寒くないから軽装で大丈夫だけど、白仙山がなぁ」
「荷物として持って行くさ」
「食べ物に関しては必要無いと思うけど……」
燼とナギが白湯を啜りながら、段取りを話していると、一人の男が突拍子も無く口を開いた。
「試しに俺も森に入ってみたいんだが」
あまりにも突然だった。何の前振りもなく、祝融がとんでもない事を言い始めるものだから、それまで話し合っていた二人も、口を挟まずにいた雲景も、ぽかんと口を開けたまま呆けている。
だが、ナギに関しては、時折似た様な事を言われるのか、直様冷静を取り戻していた。
「別に良いけど、不死でも辛いよ?」
あっけらかんとした回答に、思わず雲景は祝融に向かって抗議の言葉を発していた。
「何言い出すんですか!反対です!」
雲景の怒りは最もだった。従者として、主人を危険極まりない場所になど行かせるわけには行かない。業魔をいとも簡単に倒せる男でも、神の領域の前では無力なのだ。
「入ってすぐ死ぬ訳じゃないのだろう?物は試しだ」
どれだけ雲景が怒りを露わにしたところで、祝融は物ともしない。普段、真面目で、道理を外さないと言うのに、ごく稀に、とんでもない事を言い出す。それが今など、誰が予想できようか。
「じゃあ、今なら吹雪もないし行こう。燼さん、あんたも試しに入ると良い。どっちみち、この大きな、お方が倒れたら、あたし一人じゃ運べない」
ナギは小柄だ。どう考えても、大柄で逞しい身体つきの祝融をおぶさるのは無理だろう。
「倒れる前提じゃないですか」
「雲景、お前は此処で待て。俺が倒れたら、すぐ省都の城に戻る。それで良いだろう?」
「もしもの事態を考えて下さい」
楽観的に考えている祝融とは違い、雲景は依然として険しい表情のままだった。立場を考えても、雲景の意見は筋が通っている。小言ではなく珍しく真剣に怒っている雲景の姿に、燼は口出しする余裕もない。というより、純粋に怖い。
「珍しく譲ってくれないな」
いつもならば、折れるのは雲景だ。小言をぶつぶつと垂れるが、結局は強くは出れない。だが、今の姿は違う。
「こればかりは譲れません。神の領域に踏み込めるのは、許しがある者か、その領分に生きる者です。祝融様はどちらにも該当しません」
「……面白半分に入る訳ではないぞ?」
「わかっています。ご自分を試したいのでしょう?その手段に神域を利用されるのは、神への冒涜と取れます」
雲景は龍人族らしく、敬虔な面もある。だが今は主人を足止めにする為に態とらしく信仰を前面に出しているだけだ。それだけ言わなければ、止められないと分かっていた。祝融もそれが分かってか、一歩も譲ろうとしない雲景の剣幕に、流石に諦めるかと息を吐いた時だった。
「龍の兄さん、迷い子は時々いるよ。この方は自分から迷い子になるだけ。心配しなくても、危ないと思ったら連れ戻すよ?」
思わぬ助け舟だった。確かに最初から祭主が入れば良いとは言っているが、危険が無いとは一言も言っていないのだ。
「その方は……」
「姜家の方でしょ?知ってるよ。あたしも、自分の立場と、この村の立ち位置ぐらいわかってるから……信用無い?」
恐らく、祝融が本当は何者かは知らない。だからこそ、軽口で入れば良いと言っているのだろう。だが、祝融の身分を簡単に明かせるものでも無い。雲景は、チラリと燼を見るが、諦めろと言わんばかりに、肩を竦めてお手上げの姿勢を見せていた。その姿に、雲景が大きくため息を吐いたのは言うまでもない。
ナギを見据え、真摯に向き合った。
「……では、無茶をせぬ様にとだけ、お頼み申す。燼も、祝融様をしっかりと見張ってくれ」
「承知しました」
返事こそ真剣だったが、燼は含んでは笑っていた。
「俺が一番信用無いな」
「当たり前ですよ。一番年長者の主人が一番の無茶を言っているのですから」
祝融もまた、静かに笑みを見せた。
「確かにな。戻ったら、改めるだろうよ」
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