第3話

 それは、突然だった。


「燼?」


 燼の身体が何の前触れもなく揺れたかと思うと、その場に横たわった。突拍子もない事だっただけに、槐も桂玉も慌てるばかり。先程まで、何事もなく会話をしていたのもあって、槐の思考は追いつかないでいた。

 慌てて燼に駆け寄り揺り起こそうとするも、一切の反応を見せない。


「燼!」


 ただ眠っている様にしか見えず、呼吸もある。槐の困惑は増していった。事態は飲む込めないが、その場でじっとしている訳にもいかない。槐は、腹に抱えていた怒りなど忘れ、自身の居場所を神殿に伝え遣いを出そうと桂玉を向いた。


「桂玉、神官を見つけ祝融様に宛て、遣いを出すように伝えて……」


 そう口にした矢先だった。

 

「槐、どうした」


 今まさに、待っていた相手であり、怒りを向けていた相手……祝融が目の前に現れたのだ。慌てている様子は無いが、寒さを物ともしないのか、外套も羽織らず、庭園を辿る道に立っていた。慌てる様子の槐に近寄り、宥めようと背を摩る。それでも、不安は治らず声は震えていた。


「燼が急に倒れて……」


 そう言って、槐が目を向けている先を見た。東屋に備え付けられていた卓と椅子の影に大の男が一人、静かに眠っている。


「此処にいたのか、どうりで時間になっても現れないわけだ」

「燼は鍛錬を抜け出した訳ではありません。私が桂玉と二人きりでしたので、宮に帰るまでは共をすると」


 偶然にも出会した槐が、護衛を連れていないと判断し、護衛を買って出た。何とも、燼らしい理由だ。だが、祝融には疑問も残った。何故、倒れてしまったのか。

 

「それで、居眠りって訳じゃないだろう?」

「兆候は全く無くて……突如倒れたのです」


 祝融は、燼の顔を見るも、矢張り、眠っているとしか判断がつかなかった。


「(顔色も悪くないうえに、呼吸も正常。だからと言って、仕事中に居眠りする様な男でもない)」


 ふと、祝融は神殿を見た。


「(呼ばれたか……?)」


 確信は無いが、燼と神殿を相乗して考えるならば、それが一番妥当だった。だとしたら、祝融には待つ事しか手段が無い。

 

「祝融様?」


 判断が付かない槐を、それ以上不安にさせる訳にもいかず、現状を述べるしかなかった。

 

「元気そうだが、目覚める迄待つしかない……その間に、話をしよう。その為に、此処に来たのだろう?」


 祝融は、槐に手を差し出した。

 出会ってから、お互いの姿に変化は無い。不死は不変の存在と言われるも、長く年月を共にする者がいて、初めてそれを実感するのだ。槐にとって、この瞬間は、それに近いものはあった。祝融の手に、それを重ねると、彼の異能の影響か、その手は熱を帯びて芯まで冷えきっていた槐の手を、暖かく包みこんでいた。


「桂玉、暫く燼の様子を見ていてくれ。そのうち目覚めるとは思うが、何かあれば呼べ」

「承りました」


 桂玉に背を向けると、二人は池に沿う様に歩き始めた。寄り添い歩く姿は、長年の連れ合いを思わせた。

 

 ――


「気が付くのが遅くなってすまなかった。寒かっただろう」


 気遣ってか、歩きながらも祝融は槐の冷え切った手を握りしめたままだった。


「偶には、祝融様との喧嘩も悪いものでも無いやも知れません。久しぶり燼と街歩きが出来ました」

「久しぶりと言うが、俺は初耳なんだが……」

「燼が、彩華と共に皇都に来て間もない頃に、何度か」


 懐かしい思い出を語る顔は、至福の時を過ごした表情を見せている。普段、温厚と称される男も、流石に妻が見せる顔に穏やかではいられなかった。珍しくも、ムッとする様な表情見せた夫に、槐は笑みを溢した。


「あの頃、燼は成人前の子供でしたよ」

「知ってる……俺は大人気ないか?」

「ええ、とても」


 そう言って、槐は祝融の腕に、そっと寄り添った。自身の麾下達の前では決して見せないであろう夫の表情を見れば、自然と槐も余裕ができる。含んだ笑みをしながらも、その温もりを只、楽しんでいた。

 槐にとって燼との思い出は単純なものだった。只、目的も無く皇都を歩いたり、飴玉や菓子を買っては分けあってっは子供時代の様に過ごしたりと、何気ないものばかり。燼は槐が彩華の友人程度の認識しか無いのもあって、拙い丁寧語を話しては隣を歩いた。燼は幼く、大した行儀作法も身につけていないからこそ、自然に過ごす姿が、槐には真新しく心地が良かったのだ。

 偶然にも、今日出会した事は、昔を思い出すきっかけにもなったが、同時に思い出は遠い記憶と成り果て、寂しさも募っていた。

 

「燼は変わっていましたね。私の隣を歩く事は無く、背後で距離を保っていました」

「分別を弁えている。一度、失態を犯してからは尚の事。成長したと誉めてやるべき事だ」

「……えぇ、只、私にとっての変化は遠い過去です。燼が皇都へ来て十二年。私は何も変わっていない。それが、より物悲しいと感じてしまいました」


 成長し、少年は青年となった。その目で、肉体の成長を見届けてはいたが、はっきりと大人になった姿で「奥様」と、友人でない呼び方をされると、記憶は更に遠ざかっていた。

 

「私の姿は変わらないのに、周りが目紛しいばかりに変わっていく。兄上達の事も、燼の姿も……祝融様もです」


 槐の口調が、強くなった。

 

「怒っていたのは、昨日の話だろう?」

「えぇ、ご存知でしたか」

 

 怒りが湧き戻ったのか、槐は祝融から手を離すと足を止め、正面に向き直った。強い意志の宿った瞳が、祝融を捉えて離さない。先程までの、穏やかな会話が嘘だったかの様に、きつい口調が祝融に突き刺さっていた。

 

「燼に、話したのか?」 

「いいえ、心に留めておきました」

「……彩華の件に関しては、俺も腹は決めていない」

「ならば、何故静瑛様にその場ではっきり言わなかったのですか?迷っているからでしょう?」

「……迷っている。それは否定出来ない」


 強気で、はっきりと自分の意思を言葉にする槐。祝融に面と向かって意見する者は少ない。槐も普段は奥ゆかしい妻を演じ、祝融を立てるが、どうにも腹に収まらない事もある。

 槐にとって、彩華の件もその一つだった。

 

 始まりは、一通の手紙だった。差出人は、玄家当主と祝融自身には、馴染みの無い人物からとあって、内容を想像する事すら出来ない。しかも、それを持って現れたのは、彩華の父親である、郭家当主叡齋えいさい。どう考えても嫌な予感しかしない状況だったが、とりあえず手紙を読んで欲しいと促され、仕方なく目を通したのだ。一度、封を開ければ、頭を抱え悩ませる内容でしかなかったのだが。


『郭家息女彩華に縁談を申し込みたく――』


 玄家。龍人族五家の一つであり、黒龍族筆頭。厄介な件を祝融の元に持ち込んだ男も、同じ様に頭を悩ませている様だった。


「私は、どの様な結果であろうと殿下と彩華の意向に異論はしません」

「断ったとして、玄家と郭家の関係はどうなる」

「これと言って変わりはないでしょう。強制力を持たせるならば、最初から手紙でなく玄家の遣いが私の元に来ていた筈です」

「……暫し考える」


 今一つはっきりとしない返答だった。叡齋としては、彩華の主人である男に決断を委ねたのは確かだったが、考えていた返答と違っていただけに、思わず本音が溢れた。


「てっきり、お断りされるかと」

「彩華の意向を確認しておく。あいつが断るのなら、それで終いとする」

「承知いたしました」


 叡齋は暫く皇都の宿で過ごす予定とだけ告げると帰っていった。そして、入れ替わる様にして、部屋に入ってきたのは静瑛だった。


「今帰っていった男は?」

「彩華の父だ」

「わざわざ墨省から何用ですか」


 そう言う静瑛に、祝融は手紙を見せた。一通り目を通した静瑛の顔付きは、途端に厳しくなった。


「これは、利用できるのでは?」


 静瑛の目は鋭く険しい。


「玄家と繋がりが出来ますよ。しかも相手は当主の孫、悪い話では無いでしょう」


 利益が優先しているせいか、彩華の意思を無視した状態だ。だが、祝融もまた同じ考えが脳裏に浮かんでいた。相手も、彩華が祝融の麾下である事は理解している筈だ。分家だからと、郭家を蔑ろにしていないと、そちらを立てつつ強制力の無い只の文を寄越した。相手も良好な関係を望んでいると考えても良いはずだ。

 打算では無いが、政治的に考えても玄家との繋がりが惜しいとも考えたが、それに彩華を利用するのは気が引けると考えたのも確かだった。

 

「……彩華に決めさせる」

「ならば、私から告げましょう。兄上からは言い難い様ですので」

「いい、俺から話す」

「どう仰るつもりですか?どちらでも構わないとでも言うつもりですか?」


 挑発としか思えない口ぶりだった。兄弟だからこそ、思ったままを口にしているだけだが、時々静瑛の心無い物言いは、祝融を煽っているとしか思えなかった。それは、祝融が迷い悩む時程、静瑛がそう言った態度になる。静瑛からしてみれば、利益を優先して祝融が有利になる道を選んでいるだけだが、祝融も又、同じ考えを抱いていただけに、強くは言えなかった。


「……とにかく、俺から話をする」

 

 奇しくも、槐はこの会話を聞いていた。客人が帰り、本来なら、聞き流すべきだったのだが、祝融のはっきりしない口ぶりが気に掛かり、その後問い正した所で、濁した口ぶりでしかない。そして、今に至る訳だが――。

 

「彩華は祝融様に跪いたと仰いましたね。ならば、貴方が命ずれば彩華は拒否しないでしょう。静瑛様が伝えても同じ。彩華は自分を利用価値があると判断するでしょう。貴方が断らない限り、結末は見えています」

 

 冷たい目を見せる槐から、祝融が目を逸らす事は許されない。

 

「その判断で燼がどう反応するかも予測できないのでしょう?」

「痛い所ばかり突いてくるな」

「彩華にまで、風家や姜家の政略的な考え方を押し付ける様なやり方は反対です」


 耳が痛い。恐らく彩華は婚姻自体に興味もない。龍神族に婚期なるものが有るかは判らないが、彩華の普段の素振りでは興味は無いのだろう。

 何より、彩華は良く尽くしてくれる上に、この十二年で腕も上げた。いなくてはならない程に技量を持つ従者を手放せないのも、又事実だった。

 

「……では、こうしよう。話をする時、槐も同席すると良い。俺だけだと、命令と考えるかもしれんからな。彩華が婚姻自体に興味が無ければそれまでだ。これで良いか?」

「ええ、出来れば静瑛様には席を外して頂けたらと考えておりますが」

「わかってる……そろそろ、戻ろう。身体も冷えたろう」

 

 祝融と槐も又、政略結婚だった。だが、そこに愛はあった。お互い知人でもあり、槐の兄、鸚史とは友人。槐の事も、見知った相手でもあったのだ。だが、彩華は違う。ある日突然、全く見知らぬ相手と、自分の意思となく婚姻を決められるのだ。槐自身も、そうなり得たかも知れない、そう考えれば、とても見過ごせる事柄ではなかった。

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