第2話
神殿敷地内の、小さな東屋で槐は燼と桂玉と共に、白い息を吐きながら庭園を眺めていた。
春ならば、草花と池が相まって美しい庭園なのだろうが、真冬とあって、草木は枯れ、花もない。池も、鯉は泳いでいるが、その動きは鈍い。これと言って、見るものは無く、寒さもあってか、庭園は静かだった。
槐は、誰かを待っている様だった。寒さを物ともせず、何も語らない姿に儚さは無い。見えるのは、強い意志と少々の怒りだけだった。誰に怒っているのか、誰を待っているのか。燼は何と無くだが、それが誰か解った気がしていた。ただ、何故神殿だったのか。それだけが、答えが見つからなかった。
「燼、今日は鍛錬の日だったでしょう?戻らないと叱咤されるのではなくて?」
「今、一人で戻ると怠けていたと言われる事は必須ですので、出来れば一緒に戻った際に口添えをを願いたい所です」
どう口添えするかまでは言わなかったものの、戯けた言葉に槐も思わず、笑みが溢れていた。
「見た目ばかり大きくなったのかと思っていたけれど、昔と違って口が回るようになったのね」
そう言った槐の脳裏に映る情景はいつの頃だろうか。幼かった少年の姿は無く、今目の前にいるのは凛々しくも逞しい青年だ。
背後に立っていられると、落ち着かないからと向かいに座った燼は、手に持っていた風呂敷を開くと途中で買った蜜柑を取り出し、一つ槐に差し出した。
「食べますか?」
皇都で出回っている蜜柑よりも、鮮やかで小ぶり。この時期ならではの珍しい品という程でもないが、燼はそれを十数個も買っていた。
「頂きます。先ほど買っていたのは、それですか?」
槐が受け取ると、さらにもう一つを桂玉に差し出した。
「ええ、墨省の方では、よくある品なものですが……皇都では、この時期にしか手に入らないんです」
物流は限られる。皇都に来てから、全てが今までと同じ訳と行かず、我慢しなければならない事も多かったが、時々昔の生活が恋しくなる時がある。正確には、食べ物だが。市場が開かれると、人混みが嫌いな燼が、毎年必ず買っていたものが、それだった。墨では良くある品種で、これと言って苦労する事なく手に入るが、省が違うと入手が難しくなっていたため、冬の楽しみの一つでもあった。皇都のものよりも甘く、あればあるだけ食べてしまうのだ。自分用にも、一つ取り出すと、薄い皮を剥いていく。上品に一つ一つを千切っては、惜しむように口に含んでいた。
「此方のより、甘いですね」
「難しい事は良く分かりませんが、彩華が言うには、南の暖かい気候が影響しているのだとか」
そう言っては、燼はぺろりと平らげ、もう一つに手を伸ばしていた。本当は、彩華の分も混じっているのだが、また買いに行けば良い。そう考えると、手は止まらなかった。
槐は、そんな燼の姿を見ながらも、自身も蜜柑を一つ一つゆっくりと口に含んだ。食べ慣れたものでは無かったが、甘く水々しいそれに、隣に座っていた桂玉も同じ様に蜜柑の甘さ故の満ち足りた顔を見ると、槐の顔も綻んだ。
「……燼は、此方に来て何年になりましたか?」
「十二年でしょうか」
「故郷を離れて、辛くはありませんか?」
「故郷と言える程、思い入れもありません。それに……彩華が居ますから」
そう言った燼の顔は、優しく情愛で満たされていた。緩んだ顔は、年相応の凛々しい青年から、僅かながらに幼くもなっている。槐はそれが少しだけ羨ましくなった。きっと、燼は何があろうと、それが揺らがないのだと感じる程に。口約束も、契約の関係も無い、そこには血の繋がりすら無いのだ。何と、純粋な心なのだろうか。その心情は、親姉弟にも友人にも恋人にも見えて、どれとも違う、複雑な関係とも言えた。
槐は、また庭園を見つめた。顔つきは元に戻っては思い悩む姿にも見えるが、槐は、それを口にしなかった。ただ、静かな時間が過ぎる中、
冷たい風が、木々を揺らしては庭園を通り過ぎていく。その瞬間に、燼は周りの空気が変化した事に気が付いた。槐や桂玉に変化は無い。静かに庭園を見つめる槐に、それを見守る桂玉。燼だけが、変化に引き込まれていた。
―
それは夢への誘いだった。
木々の揺れ、水面、人、全てが止まっている。そして、池の反対側に突如現れた白い衣に身を包んだ女が一人。神子瑤姫に似た姿だが、髪は短く切長の目は冷たく燼を捉えていた。
「燼、此方へ」
距離など関係なく、直接耳に届く声。神子は、そのまま背を向けて歩き始め、燼の都合などお構い無しなのか、どんどんと先へと行ってしまう。燼は、今一度東屋の向かいを見るも、そこには誰の姿も無くなっていた。
幻夢に招かれ、拒否する術を持たない燼に選択肢は無く、東屋離れ池の向こうへと神子の後を追った。
――
神子達が暮らす区画は壁に囲まれ、門前には見張りがいる筈だが、その姿は見当たらない。言わずと知れた壁の向こうの別世界の門を、神子がそっと開けると、何事もなく入って行ってしまった。
「(夢の中だしなぁ……)」
数年前を皮切りに、燼は幾度となく、自ら幻夢へと足を運んでいた。感覚さえ掴めれば、夢へ入るのは糸も簡単で、燼は事ある毎に幻夢への道を辿って、力の使い方を身につけんとしていたのだが、時折、何の前触れもなく神子瑤姫が訪れる事もあったのだ。だがそれは、夜寝静まった時でしかない。
燼としては、現の様子まで気配りできない為、突如夢に引き込むのは止めて欲しい所だが、夢に引き込まれてしまったのなら用事をさっさと済ませるだけだ。
だが、燼は本来なら神子と直接面会する事は出来ない。夢の中とは言え、一歩踏み込むにも躊躇してしまいそうだが、中で燼を待っている存在がいると、迷ってもいられなかった。
「良いんですか、俺が入っても」
「貴方であれば、問題ありません」
何が問題ないのかは言わないが、そうまで言われて躊躇する理由は無くなった。燼は中へと一歩踏み込むと、背を向け案内を再開した神子の後を追った。先を行く神子は、何も語ってなどくれない。
夢の中も、現と同じく寒さ厳しく、同様に四季もある。ちらほらと降り始めた雪が、より強い寒さを呼んできた様だ。
「此処です」
そう言って、立ち並ぶ建物の中でも、一際豪奢な廟へと案内した。金の細工が施された門や、門飾り、さらには窓の細工まで、丁寧な作りが見られる。場違いだ。そう脳裏に過ぎるも、燼は一息吐くと、ゆっくりと扉を開けた。
中には、神殿の拝堂と同じく立ち並ぶ神々の姿。それを一頻り眺め、燼は此処まで案内をしてきた神子と向き合った。
「それで、御用命をお聞きしたい」
「失礼しました。私は、神子の一人、
「では、誰が?」
「
そう言って、目を向けたのは、白神達が祀られている一角だった。龍を筆頭とした、獣の姿をした十体の神々。彼等は十で一つの神と言われ、現に神域を創造し大地を守り、山々や大地に恵みと加護を与えていると言われている。それ故か、白神の加護を一番に受けている獣人族の役目とは、森や山と共に生きる事と伝えられていた。
「俺が、獣人族だから?」
「……ある意味では、そうでしょう」
回りくどいの一言だった。連れてきておいて、正解を言わない。瑤姫もそうだ。神子は皆、そうなのだろうかと疑いの眼差しすら向けたくなっていた。簡単に神の使命や言葉を口にしてはいけないのだろうが、此処は夢だ。何を躊躇う必要があるのだろうか。
「今、護衛の最中です。出来る限り手早く済ませたい」
「それならば、問題ありません。
「俺と、何を話したいと?」
「さあ……」
言うが早いか、王扈は燼に手を差し出した。燼もそれなりに力の使い方は覚えたが、神子には到底叶わない事は、燼も理解していた。
燼は、王扈の手に自身の手を重ねた。同時に、それまでに無かった気配の感覚が、燼と王扈を囲んでいる。それも、一つでは無い。
心臓が早鐘を打ち、知らぬ気配と感覚が燼を突き刺していた。
「(何だ、この気配……)」
人とも獣とも違う気配が、辺りを覆うなか、向き合った白神達に目を向ければ、そこに偶像の姿は消えている。そして――
―燼……
何処からとも無く、声が響いた。それも、一つ二つどころでは無く、幾つも重なり合っては、男か女かの判別も付かない。
―神子瑤姫が言っていた通り、陰の匂いが染み付いている
―このままでは、
声に抑揚は無く、感情らしきものは見えてこず、姿も無ければ、本当に白神の声かどうかも分からない。だが、自然と恐怖は浮かんではいなかった。声に返答するつもりはなかったが、自然と燼の口は動いていた。
「では、取り出せるか」
―此処では無理だ
―
―白仙山に向かえ、あの神域であれば、
―龍は気紛れだが、お前にならば力を貸してくれるだろう
突如出た白仙山の名に、燼は驚きと同時に、戸惑いを隠せなかった。
この国には、神域と言われる神が住む場所がいくつかある。代表的な場所は、白神が住むとされる鎮守の森と白仙山だ。神が住む神域は、神の威光が強く人には毒とされ、入れば命は無いと言われている。燼も、獣人族の村で暮らしていた頃は、鎮守の森と関わりが強く、常識も同然だった。
「……白仙山は、人では登れない」
―燼、それとなく分かっていただろう
―お前は、只の
―お前は特別だ
―可愛い我等が子よ
最後の言葉と共に、白神達の気配は去って行った。静寂が戻り、白神達の偶像がまたそこにいる。燼は、王扈から手を離し、彼女を見た。燼は、白神の言葉通り、使命を伝えられた、あの日から、もしかしたら……そんな考えは確かにあった。だから、目の前にいる、王扈に問うてみる必要があった。
「俺は、不死なのか?」
「貴方は私と同じく、白神の子……只、役目が違っただけ」
神子は神の言葉を伝える存在だ。それを証明する為に、神の色を持って生まれ、神殿へと迎えられる。だが、王扈は、それだけが神子の全てでは無いと言った。
「使命の為に、神の子として生まれたのが貴方。それ故に、利用もされてしまった」
燼の脳裏に、
燼は、自分には理解しきれない存在と割り切るしかなかった。
自分の存在は理解出来た。だが、同時に新たな疑問も湧く。
「……一つ、教えて欲しい。祝融様も、神の子なのか?」
燼から見て、祝融の境遇も力も特別だった。無から有を生み出す事が出来るのは、神のみだ。だからこそ、炎の力を持つ祝融は、讃えられると同時に、恐れられる。
「彼も又、重い使命を背負っている。けれど、彼は神の子ではありません」
「では……」
「恐らく、彼に使命を与えたもうた神々が、彼の存在を口にする事は無い。我々も……神子瑤姫ですら、彼の真の使命を知り得ない」
王扈は、目を伏せた、燼から目を逸らした。
「これぐらいにしておきましょう。これ以上は、悟られる」
王扈が燼に目を合わせる事は無かった。これ以上は時間の無駄だ。燼も又、王扈から目を逸らす様に、目を閉じた。
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