第15話
あれから、一ヶ月が経った。神子が来訪したと言う話は無いままに時だけが過ぎていく中、燼と飛唱、どちらも万全では無いが、動き回れる程に回復していた。だが、体は鈍ったままだ。多少は動かしておきたいが、今は白家分家であり、雲省将軍の家に世話になっている身の為、下手に申し出も出来ないでいた。だが、そろそろ少しずつでも体を動かしておかないと、拙い。
そこで、唐将軍に試しに頼み込んでみると、軍の修練に参加すれば良いとあっさりと言ってのけた。何とも軽々しく言うものだから、冗談かと思ったが、次の日には、そのまま城へと連れて行かれたのだった。
片手で持つには平気だが、軽く振ってみるも、馴染みがないだけに違和感しかない。
「とりあえず、構えてみると良い」
面白がっているのか、余裕の笑みを見せる唐将軍。本当ならば、彼は燼など相手にしている暇などないだろう。数多の優秀な武官を失って、軍を再構築しなければならない筈だ。静瑛に恩義を感じているのか、燼と飛唱を家に招き入れたのも、唐将軍の申し出があったからだ。
だが、軍の一将と相対する事など、そう出来る経験でもない。燼は、矛を構える彩華の姿を思い出しては、見様見真似で構えて見せた。どう扱うか、どう動くか、どれだけの間合いがあるか。全てが今までと違ってくる。身軽なその身を好んだツケが、ここに来て大きく出た。
兎にも角にも、振ってみなければ始まらない。幸いにも、重みは感じるが軽々と振れる。燼は、一歩前に出ては唐将軍に向かって大きく振り上げた。
力を込めたつもりだったが、あっさりと柳葉刀によって簡単に防がれた上に、受け流されてしまった。勢いと反動で、糸も簡単に喉元に剣を向けられていた。
「参りました……」
「どれだけの武人だろうと、ある日突然武器を使いこなせるわけではない。これから修練を積めば良い」
屈強な武官らしい男を前に、燼は再び構えた。
――
「燼、程々にしておけと言っただろう」
汗まみれで地べたに座り込む燼を前に、飛唱は呆れていた。ひと月前まで穴だらけで、殆ど身動きも取れなかった。今日は軽くと、飛唱は念を押していたが、そんな事も忘れて、燼は将軍相手に大立ち回りをして見せていたのだ。
「いや、意外に動けるなと思って……」
「素直に忘れていたと言え。ここの所、神学の勉強ばかりで憂さ晴らしも兼ねていたのだろうが、言う事を聞けないのなら、紹神官に頼んで更に教本を積み上げて貰う事になるぞ」
「うっ……」
途端に、燼の顔は苦々しいものへと変わる。ただでさえ毎日神学の教科書と向き合っているのに、これ以上増えたら気が狂うかもしれない。そんな考えすら浮かんだ燼には、素直に応じるしか手段は残されていなかった。
「分かりました、自重します……」
「悪化でもしてみろ、静瑛様に何を言われるか……」
その言葉に、燼にぞっと悪寒が走った。優男顔で、温和な顔を見せるも、その実、目は笑っていない。あの目のなんと恐ろしい事か。
「唐将軍に礼を言って……」
「朱飛唱殿、燼殿!」
今まさに、唐将軍を武官等の中から探そうとしていたが、どうにもその手間は省けた様だ。鍛錬場にそぐわぬ文官と対峙し、何やら慌てて二人を呼んでいた。
「神子様がお見えになった。燼殿を呼んでいると……」
――
――
――
しんと静まり返った小神殿。押し寄せる香の匂いが、燼の鼻を苦しめたが、同時に安心感も与えていた。顔を顰める燼を他所に、紹神官は緊張しているのか、何も語らず硬い顔つきで神子の元へと案内するだけだった。
いつもの和やかは消え去り、真剣そのもだ。それだけ、神子が小神殿に姿を表すという事が、地方の一神官にとっては大事なのかもしれない。
そして、いつもの部屋を通り過ぎ、神殿の最奥と呼べる聖廟。吊るし行燈が灯り、神々が立ち並ぶ中で、白銀の髪の女が一人、祈りを捧げていた。
「瑤姫様、姜祝融様が従者、燼をお連れしました」
紹神官の声で、女は振り向く事無く、透き通った声だけが聖廟に響き渡った。
「此方へ」
燼は、紹神官に促されるまま、神子へと近づいた。
畏れ多い。
普段から、雲上人である皇族と接しているが、神子ともなると別格の気がした。
恐る恐る、神子に近づくと、背後で聖廟の扉が閉まる音が鳴り響いた。
「(えっ……)」
神子の傍に、護衛や侍従らしき人物はいない。やましい考えは無いが、余りにも無防備だ。皇族の従者というだけで、燼は信用されているとも思えず、不安が胸をよぎり始めている。巡る思考を抑え、燼は神子の背後に跪くと、頭を垂れた。
ゆっくりと、体が燼の方を向いていた。
顔を上げる事は出来ず、見えるのは僅か足先だけ。
「お名前を、聞かせていただけますか?」
またも凛と響く、鈴の音にも似た美しい声。
「燼……と申します」
緊張で、声が上擦りそうだった。場慣れしたとは言え、大らかな祝融達とは訳が違う。そもそも、身分の格差がありすぎて、不手際ばかりが浮かんでしまう。
「顔を上げて下さい」
―神子とは、高徳なる神の子なり。その尊顔を拝謁する事、決して叶わん。
いくら、燼が信仰無き者だろうと、それぐらいの常識は知っていた。顔を上げる事すら、畏れ多いとすら感じるも、先程の言葉を命令としたならば、そのまま叩頭したままでいるわけにもいかず、燼は立ち上がり、ゆっくりと顔を上げた。
まず、目に入ったのは眩いばかりの白銀の髪色だった。生まれながらに、神の色を持って生まれるとされ、この世の者とは思えない麗人が、真剣な眼差しで、燼を見つめては、そこに居た。
「私は瑤姫と申します。そう固くならずとも大丈夫ですよ。祝融から、話は聞いています」
「(この方が……)」
麗人は静かに微笑み、聖人と呼ばれる姿そのものを顕現していた。
「……手を」
差し出された、深層の姫君の手。燼は戸惑い躊躇うも、壊れ物にでも振れるかの如く、その手を取った。
燼の手は、震えていた。緊張と、何も説明されないまま、
ふと、空気が変わった気がした。景色に変化は無いが、違和感だけが燼に纏わり付いた。
「燼、目を開けなさい」
声に促され、瞼を押し開く。瑤姫のか細い手が、変わらずそこにあったが、
「今、
燼は辺りを見渡した。覚えのある感覚に、途絶えた香の匂い。
「此処は……」
あの男の顔が過ぎった。確証があるわけでは無かったが、確かに
「
思わず、肩が飛び跳ねた。そして、燼が頭に浮かべた人物と、瑤姫が口にした言葉が、同じ人物を指し示しているとしか思えなかった。
「此処は、理の世。夢であり、夢でない場所。そして、招かれるか、夢見の力が無ければ此処には来れない」
瑤姫は、繋いだままだった手を離した。
「此処に、彼は居ません。此処で有れば、彼の干渉を遠ざけることができる」
確信めいた事は、何一つ告げず、全てが遠回しに言っている様にも聞こえる。まるで、経典だ。はっきりとは述べず、あくまで神の言葉や囁きと主張する。彼女も、そう言った信仰の、対象の存在なのだから、当然と言えば当然なのだが。
「神子様なら、俺が何者かお解りになっているのでは?そして、俺が会った男の事も。とても夢とは思えない場所……
燼を見つめたまま、瑤姫はそっと、燼の頬に触れた。
「貴方には、二つの使命がある。そして、その二つは反発しあって、より貴方の力を濁し続けている。どちらかの使命を返上する事も出来ず、従うしかない」
燼の命運は、何一つとして燼のものではなかった。あまりの不条理に拳に力が入るも、ぶつける先が無い。
「待って下さい、誰が俺に使命を与えたと言うのですか!?何故、反発させる必要があるんですか!!?」
「貴方の最初の使命は、天命を受けし者と共に戦う事でした」
「……もう一つは?」
「天命を受けし者を殺す事」
瑤姫は眉一つ動かさなかった。燼は天命を受けた者と言われる人物は、一人しか知らない。何より、その人物は彼女にとって甥の筈だ。何故、淡々と語れるのだろうか。
「俺に祝融様を殺す気も無ければ、実力もありません」
「今は、まだ……」
世界が、揺らいだ。瑤姫の言葉や感情に呼応しているのか、蜃気楼の様に揺らめく。やはり、此処は夢なのだ。
「神子様は今、何が見えているのですか?」
瑤姫は、目を伏せ、答えなかった。だが、焦りだけは見えた。そして、再度、燼の手を握った。
「燼、どうやら、ここまでの様です」
瑤姫は、燼の目を掌で覆った。それが、目を閉じる合図だと、それとなく理解していた燼は、それ以上の追求は出来ないのだと、静かに瞼を閉じた。
「揺らぎない精神を持ちなさい。それが、貴方の命運を分つ事になるでしょう」
そして、目を開けると、鼻に付く香の匂いで、そこが現実と実感させた。瑤姫は手を離すと、再び燼に背を向け、神々に祈りを捧げていた。
「戻りなさい。これ以上、話せる事は何もありません」
燼は、一礼だけすると、聖廟を出て行った。
――
聖廟は再び静まり返った。瑤姫は祈った。深く深く。その祈りは、聖人としての祈りだけではなかった。
ふと、また空気が変わった。
「瑤姫、燼に何を話した」
突然降り注いだ男の声に、瑤姫はそっと振り返った。
貴人を思わせる装い男の姿に瑤姫が驚く事は無い。男は、表面では笑っているが、それも直ぐに、翳りが見えた。
「何の話でしょうか」
燼に向けていた温和な表情など無く、無にも等しい顔を、男に向けた。
「久しぶりに会ったと言うのに、随分と素っ気無いな」
「気の所為では無いのでしょうか」
警戒した言葉が紡ぎ続けた所で、何の意味も無いだろう。男は、瑤姫の様子を気に留める事も無く、喉を鳴らして笑うだけだった。
「瑤姫、余計な事は話してくれるな。折角育った種が、台無しになる」
男は、瑤姫に近づくと、静かに髪を撫でた。
「私が、貴方の子である様に、彼も又、白神の子。どうか、彼を開放して下さいまし」
翳りは見せても、その目には瑤姫への愛情が宿っていた。愛しい我が子。永劫変わる事の無い事実がそこにはあった。
「聖人である、お前には酷に思えるだけだ。案ずるな、あの男さえ消え去れば、全て終わる」
「祝融は、私の甥です。どうか、考え直して下さい」
男の目が、暗く澱んだ。
「血に意味など無い」
月の無い夜の様に、深い闇がそこにあった。冷酷で、この世の何よりも恐ろしい存在を前にして、瑤姫が男の、その姿を恐れる様子は無い。
ただ、ただ、胸を締め付けられ、一筋の涙を流した。
「我が子よ、大人しく神殿に帰れ。お前が出来る事は何一つとして無いのだから」
その言葉を最後に、男は消えた。
瑤姫は一人、祈りを続ける事しかできなかった。
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