第10話
山から省都に向かって農地は荒らされ、省都を囲う城壁に大きいのから小さいのまで、無数の業魔が城壁近くに群がり、へばりついていた。低く濁った薄気味悪い声を吐き出しながら、一体、また一体と壁を登っている。
業魔が歩いた道は瘴気が漂い、次々に妖魔が生まれていた。
城壁の上で見張りをしている者達は、恐怖で震えて腰が引けている。仕方が無い事だろう。妖魔を相手取っての実戦に参加した事はあっても、業魔など見た事も無い。
獣と異形の違いを見せつけられ、何故今日だったのかと、さぞ心の中で自分の運の無さを呪っている者もいるやもしれない。
それでも、兵士の役割である以上、逃げ出すわけにもいかず、大した装備も無い城壁の上で業魔が登って来ない様に、槍やら、壊れかけた城壁の石材を落としては見るものの大した意味も無い。一瞬、動きが止まるだけで、又ゆっくりと動き始めるのだ。
―もう駄目だ……
刻一刻と近づく死の淵の存在に、誰しもが、頭の片隅に最悪な状況が浮かんだ事だろう。だがそれも、空に翳りが見えると、皆空を見上げた。
「兵士は全て城壁の中へ!」
空に白い龍が幾重にも舞っていた。
先頭は雲省
全てを将軍等に託し、見張り役を担っていた兵士達は逃げる様に、その場を去った。
城壁を降りた後、見張り役の一人が何気無く空を見上げると、見慣れない朱色の龍が遅れて空を舞って城壁へと辿り着いていた。
「(軍内部に赤龍族が居ただろうか?)」
混乱の最中、はっきりと映った朱色の龍が気にかかるも、今はそれどころでも無く、指示を仰ぐ必要があると、見張り役達は城を目指した。
――
静瑛は、前に立つ唐将軍の隣に立つと、城壁の下を眺めた。
小さく素早い業魔はもう目前まで迫っている。小さいと言っても、人とそう変わらない大きさと言うだけで、脅威である事に変わりは無い。
「唐将軍、昨日の件は?」
「無論、滞りなく。既に、平民達の区画は退避が進んでおります」
「そうか、此方の急な願い出を聞き入れてくれた事に感謝する」
今正に、目の前に迫り来る脅威を前にしても、二人が慌てる様子は無い。
軽く段取りを話したかと思うと、静瑛は武官等の後方で控えていた燼を呼んだ。周りは場馴れした者達ばかりで落ち着いている。軍に所属していない燼にとって、居心地良くは無いだろう。
「燼、あちら側は私が行く。お前はもう一つを警戒していろ」
「そんな、数が異常です。お側を離れるわけには……!」
「だが、時期に目覚めるのだろう?」
「それは……」
燼の確信から来るもので無いからか、肩を落とし、自信の無い姿を見せ、どう説明して良いかも分からず、口籠る。
静瑛は、その姿を見ても叱咤しなかった。ただ、燼の肩に手を当て、顔を上げる様に言った。
「燼、理由など今は不要だ。僅かでも違和感を持ったのなら、動かねばならん。我々が相手をしているのは、そういった存在だと言う事を忘れるな」
静瑛の瞳は、真っ直ぐに燼を捉えていた。静瑛の元に下った理由こそ、燼の失態だ。だが、それでも信頼されている。燼の瞳から、迷いが消えた。
「承知しました」
「任せたぞ。飛唱、燼の援護を」
「分かりました。静瑛様、無茶をなさらぬ様に、お願い致します」
「兄上じゃ無いんだ。無茶などせん」
飛唱の言葉に、冗談混じりに返し悪戯に笑うも、ほんの一瞬で、その顔は殺気だったものに変わった。
「唐将軍、背を貸してくれ」
「御意」
その言葉で、その場に居た者達の空気も変わった。敵意を業魔に向け、一人が今正に城壁を登り切らんとした業魔の頭を剣で貫いた瞬間だった。
唐将軍が龍に姿を変え、静瑛を背に勢いよく飛び立つ。一定の距離まで、業魔等の背後に回り込んだかと思うと、その場に静瑛を下ろした。
唐将軍が人の姿に戻ると、二人は剣を抜き、走り出した。静瑛の足元が波の様に盛り上がった。二人が走るより早く、業魔を目指して大地は道と為っていた。
数体の業魔がそれに気付き振り返るも、既に遅い。静瑛の剣となった大地の力が、業魔や妖魔に降り注いだ。全てに当たった訳では無い。それでも無数の中の大半が動きを止められていた。
そして、同じく城壁の上から時期を伺っていた武官達も自らを奮い立たせる様に雄叫びを上げ、それぞれ武器を手に一斉に飛び降りた。
直ぐそこまで迫っていた業魔の頭に、武官達の剣が突き刺さり、呻く業魔の声が響いた。
「燼、行こう」
「はい」
遠くに、主人の姿を捉えながら、無事である事を願い、燼は業魔と戦う者達に背を向けた。
全てを見届け、飛唱は龍へと姿を変えた。その手には、忌まわしい箱。再び封を掛けても尚、禍々しい空気を放つ。燼は、それを一瞥すると、言われるがまま、飛唱の背に乗った。
農民達の区画まで、それ程距離は無い。飛唱は真っ直ぐに目的地である男の家を目指した。
既に、住民達の退避が終わり、人の気配はない。だが、地上を眺めていた飛唱の目に二人の人の姿が映った。親子と思しき、女と少女の姿。
「燼、人がいる。保護を優先するぞ」
「逃げ遅れたのでしょうか」
燼も、その姿を見ようと、身を乗り出した。
「(あれは……)」
ある晩に枝垂れ桜の下で出会った平民の娘と、その母親。落ち着き払って、逃げるというよりは、目的があって何処かへと向かっている様だ。偶然か、向かっている方角は同じ。それどころか、その家そのものに入る寸前だ。
飛唱は慌てて、目的の家の前に降り立ち、その体で入り口を塞いだ。突然目の前に龍が降り立てば驚くかもしれないが、そんな事に構っている余裕などない。
「これ以上先は危険だ。皆、城の方に退避している筈だ。二人も早く……」
そこで、飛唱の言葉は詰まった。二人の顔は驚くでも、慄くでもなく、不気味に口の端を吊り上げ、狐の様に目を細めて笑っていた。
「あぁ、あんた。そこにいたんだね」
女は飛唱を見てなどいなかった。その目に映るのは、飛唱の手中にある箱。再会を喜んでいるのか、うっとりと、艶のある女の声が悍ましいとすら感じる。
「飛唱様!背後へ!!」
咄嗟の燼の声に、飛唱は一瞬で龍から人に戻ると、箱を抱えたまま後ろに飛んだ。ほんの僅かな差。女の手だった部分は黒くどろどろとしたものに変わったかと思うと、一瞬で飛唱に向かって蔦の様に伸びた。必死に絡め取ろうとするも、今度は燼が獣に転じ、女の手を切り落とした。女は悲鳴をあげる事も無ければ、表情は不気味な笑顔の儘。
魂の存在の方が、余程良かったと言えるだろう。幽霊などと言う存在よりも、質が悪い。女は死に、新たな肉体を得て異形の存在となって、舞い戻って来た。
「あんたの夫は死んだ。箱の中身は只の白骨だ」
燼は、人型を保っているなら、もしやとも思ったが、女は燼に見向きもせず、後ろに下がった飛唱が持つ箱に目を奪われている。
「飛唱様!上空へ!」
「承知した」
狙いが箱とわかれば、空へ逃げた方が良い。飛唱は箱を抱えて再度、空へ舞い戻ろうとした時だった。
「何処行くの?」
女に気取られすぎたのか、飛唱の背後に、娘が立っていた。女と同じ様に、娘の腕はどろどろと溶け飛唱を捕らえんと絡みつこうとした。
飛唱は箱を片手に腰に携えていた剣を抜き、腕を斬り払うも、今度は娘の身体が一瞬で完全に溶け、飛唱を箱ごと飲み込もうと全身に纏わりつく。飛唱が必死に剣で振り払うも、切りがない。
更には、再び封が解け始めたのか、抱えていた箱が次第に重さが増していた。
そして、鼓動が、始まった。生暖かい感触と、生き物としか思えない脈打つ音は、燼の耳にすら届く程だった。
燼は、嫌な感覚を覚えた。背筋をぞわりと撫でる感覚。昔感じたものが、目の前ともう一つ。
「飛唱様!箱を捨てて下さい!」
「だがっ!」
女と娘の狙いは、箱だ。それを手に入れた途端、何が起こるかなど考えたくもない。だが、飛唱は燼の必死の声に箱を手放した。ずどんと、とても白骨の重みとは思えない音が鈍く響いた。娘と女の気は箱に向けられ、飛唱と燼は、見ている事しか出来ない。
人の姿に戻った二人は箱に擦り寄り、女が布を取り払い、蓋を開ける。
中身は闇が詰まっていた。血の様にどろどろとした何かが、箱から溢れ出ては、そこら中を黒へと染めていた。女は、それを両の手で一掬いすると、娘に向けた。
優しい母親を演じているのか、静かで愛しいものに向けられた声は目の前の悍ましい光景さえなければ、そこらの親子と何ら変わりない。
「さあ、飲みなさい」
娘は、向けられたそれを、女の手から飲み干していく。女も同じように、それを掬っては飲み干した。
「これで、家族が揃った」
それまで、優しい母親の声だったものが、野太い男の声に変わった。地の底から響いてくる様な声に燼は思わず身震いした。その声、その存在、そして未だ箱から溢れ続ける黒。全てが、燼に危険だと告げていた。
―存分に、楽しむと良い
あの男の最後の言葉が蘇った。とても、楽しめる状況では無い。黒は、そこら中を黒で染め上げたかと思うと、それは沼となり、水面の如く揺れている。
「……飛唱様、来ます」
「あぁ、流石の私でも嫌と言うほど、この身に畏怖を感じる」
二人が身構えると、同時だった。女と娘は黒い沼に全身を包まれたかと思うと、中へと呑みこまれ、悍ましいとすら感じる声にも似た音が、沼の中から鳴り響いた。男とも女とも取れる声は悲鳴にも奇声にも聞こえる。そして、声を上げているであろうものが、黒い沼の中から少しずつ姿を現した。
人。形は、人だった。ただ全身がどす黒く、顔は無い。口がないのに、奇妙な声だけが鳴り続けている。関節が一つ多いのではと思う程に長い手足を引きずり歩いては、ゆっくりと二人に近づいていた。
燼が動いた。
「飛唱様は、妖魔を!!」
飛唱の力量では、業魔を相手取るのは難しい。だが、そんな事を考えての事でもなく、燼は動かずにいられなかった。飛唱も、援護に回るため前に出た。出たと、思っていた。
「うっ……」
背後から、腹を貫かれ、飛唱の体は宙に浮いていた。何が起こったか分からず、後ろを向くと、もう一体、同じ人型がそこに居た。目に映るそれの気配に気取られ、家の方に意識は完全に途切れていた。
―此方の種が芽吹けば時期に封の意味も無くなるだろう
「飛唱様っ!」
腹に風穴を開けている黒い腕が、傷口を抉る。口から血が流れるも、痛みのお陰でか意識は、はっきりしていた。
燼は、攻撃目標を変え、飛唱の腹を貫いた腕を裂き、飛唱を抱え一度離れた。
「……悪いな、燼」
龍は丈夫だが、痛みがない訳ではない。幸いにも、剣は手中にあるままだ。動きは鈍が、剣は振れる。
二体の
「飛唱様、休んでいて下さい」
「燼、足手纏いに見えるだろうが、当初の予定通りだ。私が妖魔の相手をする。省軍も全てが出払った訳ではないだろう。その内応援も来る。それまでの辛抱だ」
少しばかり、息が荒い様子を見せるも、それも次第に落ち着いた。
「すまんな。静瑛様と燼に危険な役回りばかりで」
「俺は良いんです。多分、これが俺の役目だから」
生まれ持った、大きな身体。最初から、業魔に立ち向かう為に用意されたと思えば、自分の醜い姿を嫌悪しなくて済む。
「燼、死ぬなよ」
「飛唱様も御武運を」
その瞬間、飛唱は立ち上がり、走り出した。妖魔を斬り裂きながら、人の気配を辿った妖魔を追って行った。一人残された燼は、既に手が触れそうな所まで迫っていた
悍ましい姿を瞳に映すだけで、震え上がりそうだった。これは、業魔ではない。燼の中で、確信めいた考えが浮かんでいた。
燼は、業魔相手に、恐怖した事は無かった。妖魔の上位種程度の相手にしか見えておらず、苦心もしない。だが今、恐怖は呼び覚まされ、死すら覚悟している。そして、恐怖に苛まれた所為か、その
「(大人しくしていてくれよ……)」
自身の胸中に声は届くか。燼は自らを奮い立たせる為に、空を見上げ大きく吠えた。
―死んでたまるか
爪と牙を研ぎ澄ませ、二体の
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