第5話

 陽は完全に沈んだ。月の無い夜道に、行燈の灯りだけが燼の足下を照らしていた。


「(腹減ったな……)」


 市井でも夕食の時刻だったのか、竈門から立ち上る湯気や煙からは、空腹を助長させる匂いばかりが漂っていた。今も、通り過ぎる大衆食堂や居酒屋からは賑やかな声と共に、何とも唆る匂いがそこら中から立ち込めている。うっかり、主人が報告を待っているのも忘れて、店に踏み入れてしまいそうな程の空腹を抱えながら、燼は一人宿を目指し歩いた。


 歩きながら、燼の頭の中は、初めて足を踏み入れた神殿の内部で一杯だった。

 神殿は香の匂いから逃げる様に出てきてしまったが、横目で見えた男神の姿だけは、はっきりと瞳に映っていた。叡智の象徴であり、この国を造ったとされる存在。例え偶像であろうとも、そこに魂が宿っているとでも言う様に傅く者すらある。


 燼はその姿を見ても尚、これと言って胸に感じるものは無かった。件の夫婦は病に罹るより以前から熱心に神殿に通っていた。一体、何を祈っていたのだろうか。そこまで熱心に祈る事が二人にはあったのだろうか。神に胸の内を晒しても、神官や、ましてや他人になど誰も言わない。紹神官の話では、妻の方が熱心に祈っていたのだそうだ。何を思えば、そこまでの信仰心に辿り着けるのだろうか。

 ふと、燼の思考は立ち止まった。


「(そういや、女房はどこに行ったんだ?)」


 立ち所に疑問が湧き上がる。紹神官の話はあくまで、夫の話のみ。女房は行方知れずとだけで、それ以上何も言わなかった。恐らく、紹神官は妻に関しては何も知らないのだろう。


「(女房に関しては、何とも言えないが……死ぬと分かってる亭主を置いて消えちまった)」


 夫婦は紹神官の目から見ても、仲睦まじく、おしどり夫婦だったと言うが、情愛を持っていた相手を死に追いやる程、彼女を追い詰めたものは何だろうか。


「(これも、殺人なのだろうか)」


 罪人を裁くのは、燼の仕事の範疇では無い。どの道、法律にも司法にも詳しくは無く、燼に判別はつかないのだが。

 燼は、考えるのが苦手だ。勉強も苦手だったが、政治や司法が関わって考えなければならなくなると、思考が止まった。


「(後は、静瑛様に判断してもらうしかないか)」


 兎にも角にも、一度主人に報告するしかない。何より、腹が限界だった。腹の虫が盛大に鳴り響いては、燼に訴えるまでになっている。足早に歩いては、着々と宿までの道のりを歩いて行った。


――


「ご苦労だった、が……遅かったな」


 既に食事を済ました静瑛と飛唱を尻目に一人、夕餉を口へと運ぶ。漸く空腹から解放されるとあって、報告よりも先に食事にありつけた事が嬉しかった。


「いえ、それらしい場所は見つけたのですが、目で見て初めて根源とわかる程度でして」


 食事を口に運ぶ合間で答えると、取り敢えず食べてろと、静瑛は少々不機嫌に酒を飲んでいた。

 下手に動けないとあって、暇なのだろう。外套で身を隠せば、そこまで目立たないからと、燼と共に静瑛も街に出るはずだったが、うっすらと感じる陰の気配の方角から考えて、市井の端とわかると諦めた。どう考えても、明らかに平民でもない男が、そんな場所を歩き回るなど目立つ。一番身軽な燼が一人請け負う事になったのだった。それに関しては、燼は何の文句もない。考え無しな部分だけが、静瑛の心配する所ではあったが、一番の適任な事は確かだ。

 燼は、膳に並んだ全てを食べ終わると、静瑛に全てを話した。考えが纏まっていたわけではないが、考えるのは静瑛の方が向いている。燼は、それまで会った者の中で、誰が一番頭の回転が良いかを聞かれたなら、静瑛と素直に答えるだろう。


「病の男に、看病する妻……か。」


 燼の話を聞いて、静瑛は杯をつまみが置かれた膳の上に置いた。腕を組み、そのまま杯を見つめる。


「以前、祝融様と共に人でないものから生まれた業魔を見ました。そう言った事も有り得るのではないかと」


 祝融と出会って間もない頃に相対した業魔。今もはっきりと残っている記憶ではあるが、何故生まれたかなど、結論は出ていない事柄でもある。


「……何とも言えんな。が、気配は未だあるのだな」

「ありますが、範囲が広い割に弱い。男が死んだ場所が一番はっきりと浮き出ています」

「で、お前から見てどうだった?」


 漠然とした問いだった。何が正解かが分からず、今答えられる事は単純な事だけだった。


「俺には、いつ生まれるかなどわかりません」

「状況を聞いている。どう思った?」


 それなら、答えられる。思った事をそのまま述べるなら、苦でもない。


「違和感は感じました。妻が行方知れずになったのに、何故、誰も男の様子を見に行かなかったのか」

「燼、お前なら男を……例えば友人が同じ状況でも見捨てなかったか?」

「見捨てません」


 燼は、間髪入れずにはっきり答えた。友人は少ないし、燼にとって一番大事なものも昔から変わっていない。殆どが与えられた環境だが、どれも失いたく無いものばかりだ。


「それが、只の隣人や軽い付き合いの友人でもか?」

「……」


 燼は押し黙ってしまった。彩華にもしもの事があれば、迷う事なく答えられる。何を差し置いても、それが自分の命すら天秤に乗せれる程の一等大切な物である事に変わりは無い。だが、それ以外なら?

 燼に反論の余地など無かった。即答出来ない、それが答えも同然だった。


「上部だけなら、軽口は誰でも言える。誰かが助ける。自分は関わりたくない。誰でも、面倒事には関わりたくないものだ」


 冷たい物言いだ。祝融と違って、甘い考えが無い。現実を突きつけられるが、何も間違ったことは言っていない。


「でも、家族なら、見捨てないのでは?」

「夫婦なんぞ、他人には分からんものだ。まあ、私も結婚など経験は無いが。どれだけ愛があろうが、時には重くのし掛かる時もある。特に、平民なら、お互いに助け合って生活が成り立つ。を抱えてなど、先は見えなかったのかも知れんな」


  病の男を荷物と言い捨てた目が、何とも冷淡だった。


「燼、他人を慮る者ばかりで無いのは、お前もよく知っているだろう。そして、その心があったとしても、永遠に続けられるかどうかは別だ」


 人の心は脆く弱い。獣人族の村や、郭家邸で過ごした日々は、思い出したくない事が多い。心の弱さか、人本来の心の醜さゆえか、燼に向けられた目の殆どが、悪意に満ちていた。


「しかし、妻は確かに気になるな。他に、気配は無かったのか?」

「はい。墓地に関しては、位置からして男の遺体が原因かと。ただ、それだと火葬で浄化しきれなかったという事になってしまいますが……」

「……何とも言えんな」


 炎には浄化の力がある。火葬されても尚、陰の気配がこびり着いたままというのは、些か疑問だ。だが、前例が無い事だからと無視は出来ない。


「掘り返すか」

「墓は掘り返せば良いですが、女は……」

「それこそ、聴き込むしかないだろうな」


 ならば、明日も聴き込まねばならない。燼はそういった事柄は得意ではないが、地道にやれば何とかなるだろう。


「燼、明日は女を探ってくれ」

「承知しました。墓はいつやりますか?」

「女を探った後……と言いたいが、いつ目覚めが来るかもわからないな。今日やるか」


 墓も掘り起こすなら、不信がられないように夜だ。だが、今日やるとなれば、女を探りにくくなる恐れがある。


「男の墓を掘り起こすと、女の事を話さないかもしれません」

「気づかれればな。墓掘りで私の異能程役に立つものはないかも知れないな」


 淡々と言うが、あまり自慢できる事ではない。土に還った者を掘り起こすなど、死者に対して失礼だ。そうは思っても、原因は探っておくべきと言う考えも捨てられなかった。


「兄上がいれば、そのまま骨を燃やしてもらうのだがな」


 あまりにも男が哀れに思えた。苦しんで死へと追いやられ、更には死後も安らかな眠りを妨げられようとしている。


「……死後もまた、痛めつけられるとは」


 ぽつりと溢れた同情の言葉に、静瑛は静かに燼を捉えた。


「珍しいな、お前はそう言った類の話をしないと思っていた」


 燼に信仰心が無いのは静瑛も知っていた。本来なら、余り良しとしないが、咎めた事は無い。境遇から考えても、燼がそう言った思いを抱けないのだと静瑛は考えていた。何より、目に見えぬ存在よりも、心酔する存在がいる事が一因であるとも。


「例え、骨だけになろうとも、それは誰かがこの世にいた証です」

「形がなければ、人は存在せぬか?」

「わかりません、俺は、曖昧なものが苦手なだけですから」


 燼はたまらず目を逸らした。曖昧なものは、目に見えぬもの。不可視の神もまた、同義である。

 姜一族は様々な神を祀り、神事を中心となって執り行っている。静瑛に向かって言い放つのは、些か気まずいものがあった。


「形に拘るな、龍は死後何も残らないと聞く。人もまた、残されたのは文字通り残骸だ。そして、その残骸が陰の存在となって、この世に縋り付いている。燼、経典を読んだ事は?」

「……無いです」


 目を逸らす燼に、静瑛は目を伏せ息を吐いた。貴族以上なら神事に関わる事も多く、必須科目と言える。だが、燼は平民の出だ。仕方無いとは思っても、ため息を抑える事は出来なかった。

 炎帝より以前に国を治めたとされる存在、太昊たいこう。そして、その太昊が記したとされる書。神を信奉し、崇め、人の行く末を記したと言われている。今も、神学では必ず取り扱われるものであり、派生の経典は存在せず、その教えが全てとされている。

 燼も一度は手に取った。だが、内容はまるで呪文の様で頭に入ってこない。何が言いたいか、何を意味するか。ただ文字が読めるだけでは難解で、彩華に質問しようにも、何がわからないかが、わからない状態のまま投げ出してしまったものだった。


「経典には死者の魂の行方が記されている。死後向かう先が重要とされ、魂が抜けた肉体は土に帰るだけだ。重要視されていない」


 死後、火葬によって肉体から解放された魂は黄泉の国へと旅立つと言われている。うつつを抜け、肉体という楔を無くした魂は夢を抜け黄泉へと向かう。死者だけが見える道を歩き、一歩一歩と進んでいくのだ。

 だが、怨みを持つと、道を見失う。魂は夢に留まり、怨みを大きくしながら現へと戻ってくると言われている。


「燼、お前に見えずとも、黄泉への道も、それを歩く死者も見える者が存在する。」

「……はい」

「信仰を持てとは言わん。だが、その力が確かなものだと心得ておけ。神の力然り、陰もまた同様だ。その時何が重要かを見極めろ」


 そう言った男は、酒の続きを飲み始めた。兄程では無いが、この男も中々の量を嗜む。墓を掘り返すにも、異能の方が断然早いだろう。出来れば、その時までは素面でいて欲しいものだと、燼も同様に酒を喉へと流し込んだ。

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