ラストワード

ひなみ

本文

『だから

 言ったじゃない。

 好きとか

 嫌いなんてそんな下らない事なんて。

 第一あんたには分からないと思う。まあ、そうね。ハナから考えてみたら?

 ヨーロッパにでも行きたいな~』



 雨の音の響く家の中。そう届いたメッセージをいつもみたく、何となく既読だけをつけて返す事をしなかった。

 つけっぱなしのテレビ、テーブルには煙草に埋もれた灰皿。飲みかけのジンジャーエール。今日もこれといって何もなかったな。これでもかってくらいつまらない人生だ。

 どこを間違った? どこで間違った? 正解のルートはここじゃなかったのかよ。一体どこで間違えたんだ?

 雨音の強まる音を耳にしながらそのまま意識は遠のいていった。


 それから数日が経った頃。彼女がビルの屋上から飛び降りて死んだとニュースで見た。


 どうせ何かの間違いに違いない。同姓同名の別人。下らない性質たちの悪いフェイク。どうせすぐにまた会える。だからこれといって特に何の感情も浮かぶ事はなかった。


 連日の雨の中、傘も差さずに既読が一向に付かない画面を5分おきに確認する。なあ。都会の喧騒けんそうってのはさ、どうしてこうも耳には残らないんだろうな。自分には向けられてないせいなのかな。その癖やたらと頭に響きやがるのは何でだろうな。

 見飽きた応答のない通話画面をオフにする。

 なあ、最後の『不在着信』は何を言いたかったんだ?

 頼むよ。面倒くさそうに「なんでもない」って一言だけでいいから答えてくれよ。


「――!」

 不意の着信に心臓が飛び跳ねる。心配させやがって。まったく。俺には用意していた言葉があるんだ。「おいおい、どうした。また何かあったのか?」。


 知らない番号に思わず苦虫を噛み潰す。


「あぁ? 誰だよっ……!」

「あなたは西山一也にしやまかずやさんで間違いないですか?」


 電話口には若干しわがれた知らない男の声。


「……そうだけど?」

「いやね、八幡はちまん署のたちばなと言いますがね。少々お伺いしたい事がありまして。いまどちらに?」


 あるじのいなくなった彼女の部屋はいつも通り、いまだ生活を続けているような甘いあの香りがわずかに残っていた。

 その部屋には俺と橘と名乗った刑事の二人だけが佇んでいる。


「君は白川美香しらかわみかさんのご友人か何か? それとも近しい……恋人とか?」

「いや……ただの、知り合い。んな事よりおい、本当にあいつは死んだのか? どうせ何かの間違いだろ。そうなんだろオッサン!」

「残念だけど遺体は間違いなく美香さんのものだったよ」


 遺体。いたい――遺体。

 その言葉に視界はぐらりと揺れて座り込む。足に力が入らない。それでも絞り出すようにかろうじて出た、


「なんっ、で……!」

「それを私は調べているんだ。一見自殺のようだが、そうではない線も捨てきれていない」

「じゃあ誰かが……! おいっ!」


 勢いよく立ち上がれなかった俺を見る事もなく、その刑事は小さく首を左右に揺らす。


「落ち着くんだ。……あくまで可能性としての話だよ。君は他に何か知っている事はないかな」


 それからはもうほとんど記憶がない。まるでどこか別の世界に迷い込んでしまったような感覚。


「やはりこの着信の直後に彼女は亡くなったようだね。悪いけどこの携帯、少し借りていくよ」


***


 それから数日間は特に何をするわけでもない。うまくいきかけてたバイトも辞めた。いっそ実家にでも帰ろうか。親からは口うるさく言われるだろうけど、こんな所にもういなくてもいい。


「あれ、西山君じゃない? 相変わらずウーロン茶なんだね」


 残ったつまらない時間を潰そうと近所の飲み屋で一人うつむいていたところ誰かに声を掛けられた。


「……長谷部はせべか」

「どうかした? 何かものすごい負のオーラが出てたけど」


 この店で出会った年齢不詳のオタク気質の酒飲み。

 こいつとは正直そこまで仲がよかったりとかそういう関係ではない。まあ、向こうがどう思っているかは知らないがやたらとお節介で鬱陶うっとうしい。

 奴から注がれた日本酒に少しだけ口をつける。やっぱり合わねえ。それでも体に広がっていくアルコールのせいで警戒心が緩んだんだろう。

 もともと話しやすい類の男だったのもあったかもしれないが、あのメッセージの事を話してしまった。


「それってどういう事だよ」

「いやそのままだよ。例えば」


『あなたは相変わらずなんですね。

 理恵も言ってましたよ。気分を

 害されたって。

 当然ですよね?

 宇宙にでもどこにでも行ったらどうですか?』


「これ読んでどう思った?」

「こっぴどく振られたな、としか」

「どこか不自然なところはない? まず、違和感のある文章の区切り方。唐突に宇宙なんて言い出したところとか」

「言っても文章なんて人それぞれだろうよ」


 長谷部はジャーキーをつまんでいた手を拭うと画面をまたこっちによこす。


「そうかもしれないけど。とりあえず、それぞれの頭の文字だけを下に読んでみてよ」


『あ

 理

 害

 当

 宇』


「あ、り、がい、とう、う」

「2文字になる部分は1文字でいいよ」

「あ、り、が、と、う」

「そう読めなくもないよね?」


 煙を大きく吐き出すと煙草を灰皿に押し付ける。


「……こんなのたまたまだろ」

「そうかなぁ。適当に打って偶然そうなるものかな?」

「つうか、そんな気付かないようなやり取り意味あんのかよ? こういうのは伝わんなきゃだめだろ」

「まあね。でもそういうのもさ、一つの方法としてはあるんじゃないかなって思ったんだよ」


 しばらくの無言の間。

 何とも言えない感情がわき上がって席を立つ。


「聞いてすっげー損したわ。じゃあな」


 餞別せんべつだ。奴の分の勘定を置いて店を出た。


***


 夜の街の独特な空気。

 遠くから聞こえるサイレンやクラクション。

 車のライトはせわしなくどこかへと流れていく。

 ぼんやりとした頭のまま、彼女の住んでいたマンションの屋上へ足は向かっていった。ここか。あの刑事が言うにはここから落ちたのか。

 ……どうして。


 よく飲んでいたはずのサワー系の甘い酒と、部屋に飾ってあったのと同じホワイトジンジャーを手向たむける。

 何がお前をそうさせたんだよ。つうかそんなタマかよ。俺が言えた義理じゃないけど、どうして。……相談してくれなかったんだよ。俺じゃないにしても他に助けを求める所はなかったのかよ。


 やっぱりここを去ろう。


 そう決意してからもう1週間が過ぎた。何を食べても、飲んでも、煙草を吸ってても味を感じる事はない。毎夜ここに来て星のない真っ暗な空を見上げては、それが明るくなるまで何の進展も望めない毎日をこの屋上で過ごした。


「誰、君……?」


 とある日、妙な雰囲気をまとった男が声を掛けてきた。


「あんたこそ誰?」

「いやぁ。あはは、今日は星空が見られるかなって。思ってさ」

「ここからは何も見えないけど?」


 それから毎夜この男と顔を合わせるようになった。


「なあ。あんた、この場所に何かあんのか?」

「別に」

「じゃあここじゃなくてもいいだろ……」

「あ、うん。そうだね」


 消えてくれ。とにかく邪魔をされたくない一心で、その男を追い返すように言葉を投げ続けるがそれでも男はやってくる。

 それが幾度となく続いたある夜。


「またあんたかよ。なんなんだよ」

「君こそどうしていつもここにいるの?」

「お前には関係ないだろ」


「もしかしてだけど。君は白川美香さんの知り合い?」


 その名前を耳にすると、夜にも関わらず視界が明るくひらけたような気がした。

 思わず駆け寄り、


「――お前、あいつを知ってんのか!」

「あ、やっぱり。そうなんだね。ていうかそこ、缶と花だらけだしさ」

「何でここから飛び降りたんだ。お前、何か知らねえか……?」


 とびきり明るい調子の声で目の前の男は、


「美香さんさぁ……他に好きな男がいるって言うから。おかしいじゃん、僕という恋人がいながら。でもこれって彼女が100%悪いよね――」


 考えるよりも先にその男の胸倉に掴みかかっていた。


「……あのさ」

「な、何……?」

「少し黙れよ。その薄汚ねえ口を閉じろ」


 にんまりと口角をあげたその男の表情は、元からの薄気味悪さに拍車を掛けていく。


「あ! もしかして。君も美香さんが好きだった一人とか? あっはは、あっはははっはは! でも残念だったね、僕が二度と会えなくしちゃったからねぇ!」


 ――殺す。


「あーあ、しまった。でも――もうこれで君を帰すわけにはいかなくなったなぁ!」


 花と缶を蹴散らしながら、鉄柵を越えて相手を叩き落そうと激しくもみ合う。


「彼女がどんな気持ちだったか教えてあげるからさぁ、落ちてよ。そしたらあの人と一緒になれるかも、よ!」

「この、クソ、黙れ、死ね!」


「警察だ! そこの二人、大人しくしろ!」

 その最中さなか背後から別の男の声が響いた。


「待ちやがれこの野郎!」

「ひいいいぃ、助けて! 僕この暴漢に襲われてます! 人殺しです!」


 隙をついて俺から逃れた男は、警察と名乗った人物の方へと助けを求める。だがその直後取り押さえられる。始めは暴れていたがしばらくすると大人しくなった。


「詳しい話は署で聞かせてもらうぞ」

「何で僕がっ……。何で! あいつです、どう見ても悪そうな顔してるあいつ!」



 それをさえぎるようにして俺の目の前には見覚えのある男が立っていた。


「あんたは……あの時の」

「橘だよ。あれは我々がマークしていた容疑者でね。あの男から付きまとわれていると、生前の美香さんから相談があった事が調べでわかった」

「やっぱり!」

「泳がせていた所に君がいるとは思わなかったけどね。……落ち着いて。私が責任をもって何としても罪を償わせる。だから早まった考えはよしてくれないか」


 ふつふつと体の奥底から熱いものが全身を巡っていく。

 橘の制止を振り切って突破しようとする。


「離せよ。あいつを殺して俺も死ぬ」

「君はあれと同等までに落ちてもいいのか?」

「んなの知らねえよ。俺にはもう何もないんだよ」

「答えろ。いいのかと聞いているんだ!」


 両肩を強く掴まれ揺さぶられる。


……ってぇな。警察が暴力振るっていいのかよ」

「君があの男を殺したところで美香さんは帰ってくるのか? 笑って喜んでくれるとでも? はそれで満足するのかと聞いているんだ!」

「へっ、ありがたいお説教ですか? ははは、だったら俺をこの場で殺してくださいよ。あんた拳銃、持ってんでしょ?」


 強引に橘の手を振りほどく。ちょうど正面に立って心臓の辺りを指しながら、


「撃てよ。それでもう全部終わんだよ!」


「西山、歯ぁ食いしばれ!」

「がはっ……」

 右頬への強い衝撃の後、気づくと俺は地面に転がっていた。直後口いっぱいに鉄の味が広がっていくとようやく殴られたのだと理解した。


「頼む。君のような若者が軽々しく死を口にするんじゃない……この通りだ」


 その声が聞こえると彼は膝を折って頭を下げていた。それは明らかに大人としても、刑事としてもひどく不釣合いな格好に思えた。


「何だよ。あんた、めちゃくちゃ過ぎだろ。あんたは、一体なんなんだよ……?」


 頭の中はぐちゃぐちゃで、体中の力が抜ける感覚の中何か喋っている。


「どんなに辛く悲しくても生きていくしかない。それが残された者の義務だと私は思っている」


 ホワイトジンジャーの香りに包まれながら

 ただその言葉だけは、やけにはっきりと聞き取れた。


***


『返すよ。ちゃんと読んだのか……これは最期のメッセージなんだろう? だったら君は最後まで逃げずに向き合わないとな』



 こんなものが何だって言うんだ。いつも毎日送ってくる荒唐無稽こうとうむけいな、返しようのない文字の羅列られつだろ。そもそもどうして最後にあの文字が出てくるんだよ。意味がわからなさすぎるだろ。


 ――「どこか不自然なところはない? まず、違和感のある文章の区切り方。唐突に宇宙なんて言い出したところとか」

 ――――「あ、り、が、と、う」


 この期に及んで血迷うなよ。ありえない期待なんてしてんじゃねえよ。


 コンビニで買った缶ビールを一気にあおると、握りつぶし投げ捨てる。通り過ぎる人になど目もくれず、血が巡りすっかりぼうっとした頭で、震える手であのメッセージを確認する。



『だから

 言ったじゃない。

 好きとか

 嫌いなんてそんな下らない事なんて。

 第一あんたには分からないと思う。まあ、そうね。ハナから考えてみたら?

 ヨーロッパにでも行きたいな~』


『だ

 言

 好き

 嫌い

 第

 ヨ』


『**

 ***

 ****

 **

 ***

 *』


『だ

 い

 す

 き

 だ

 よ』



 残っているメッセージすべてをさかのぼっていく。笑った顔がやたらとちらついて、途中から段々と画面がぼやけてきて読めない。

 もちろんこれが正しいのかどうかなんて、今となっては彼女にしかわからない。

 それでも正解のルートはここにあったのかもしれない。いや、あった。あって欲しかったと信じてしまっている。

 美香がいなくなってから半年の間、ずっとどこかに仕舞っていたものが溢れ出てきて、誰も振り返る事のない都会の喧騒の中で人知れず泣いた。


***


「どうも」

「ああ。田舎に戻るんだね」

「俺のいる意味はもうなくなっちゃいましたから」

「そうか……」


 くすんだ色のコートに身を包み、煙草をくゆらせた橘さんはどこか物憂げな表情を浮かべていた。


「……あの時はありがとうございました。あなたがいなければ、俺はどうなってたか」

「いや。私こそ手荒くしてしまって、本当に申し訳ない事をした。でもね、あれは君の心が君を君のままでいさせたんだよ」


 ここにまで来てくれた彼と硬く握手を交わし、そして背中をぽんぽんと優しく叩かれる。その一点の曇りのない強い瞳は俺をしっかりと見つめていた。


「またこの街に来る事があったら……今度は刑事としてではなく一個人として再会したいな。その時は一杯奢るよ?」

「楽しみにしてます、つっても下戸げこだけど。……それじゃお元気で」



 夜行列車に飛び乗ってすぐに眠り込む。ごとごとと心地のいい揺れにいざなわれて、ある夢を見ていた。


『一也、いつまで寝てんの? 今日は出かけるって言ったでしょ? ちょっと!』

『あれそうだっけ。ごめんあと5分。5分だけだから……』

『もう、しょうがないなぁ。またすぐに起こしにくるからね?』


 ――美香と幸せに暮らす、あったかもしれない人生イフを。

 そんな束の間の平穏を夢の中で見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラストワード ひなみ @hinami_yut

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ