君とフィルム

軍艦 あびす

君と、私と。

 蝉の声が響き始めてから少し経った頃だろうか。七月の後半に差し掛かる現在、暑さに支配されるこの街は変わらずに同じ表情を見せていた。

 古きを描く歪んだ緑色のフェンスは、相変わらず植物のツタに巻かれている。そんな姿も、何十年と重ねて作られた景観の一つであった。

 アスファルトに囲まれて日差しを反射させるプールの水や、熱気に包まれたグラウンドを制する野球部による声。これらも、夏とはこういうものだという古くからの固定概念を表現するそれぞれの要素へと変わりゆくのだ。

 そんな固定概念に近年加えられた空調を身に感じながら、己の身は脚を急がせるばかりだった。何故このような事になってしまったのかというのは、あまり思い出したくもない。

 最初にいた教室の扉を開け、一年の教室がずらりと並べられた廊下を一直線に突っ切る。突き当たりを右に曲がり、美術室と会議室を横目に通り過ぎて、階段を登る。

 一階に居たはずの身体はいつの間にか五階に迫り、そこにてようやく目標の人物を発見した。

 どうやら、あまり運動をしていないという事には気付いていたが、この程度で息を荒げなければならないとは。少しくらいは鍛えるべきかと己に問いかけた。

 と、内心に浸っている間にも眼前ではとんでもない事が行われていた。最早理解だとか、そういう言葉で纏められる出来事ではなさそうだ。

「お前……本気で開ける気か⁉︎」

 防火扉に苛まれていた行方は、容易くその先から光を漏らしていた。真夏の十五時辺りでは、少し傾いた太陽が顔を覗かせているらしい。

 そのまま防火扉の小さな隙間へと姿を眩ませた姿を追って、自動的に閉鎖しようとする防火扉を勢いよく引いて太陽の光る方へと脚を急がせた。

 

 屋上では陽の光を防ぐ術が存在せず、異様な暑さがじりじりと照らす。追っていた姿は、立ち止まってこちらを見つめていた。

「どうです、藍川先輩。すっごく良い景色じゃありませんか」

 まるで、そう答えるのが当然かのような口振りで彼女は語る。確かに彼女の言葉はその通りなのかもしれないが、今はそんな事を言っている場合ではないのだ。

「水戸、お前はなんで追われていたのか忘れたか?」

「覚えてますよー、コレでしょ?」

 ふざけた態度でポケットから取り出した一本の鍵を人差し指で振り回し、八重歯を見せて笑っている。

 彼女の名は、水戸涼香。この学校にひっそりと存在している写真部に唯一属する一年だ。

「何の目的か知らんが、学校側が閉鎖した扉を開けるなんて許されると思うなよ」

「何の目的って……先輩は私らが何の部活してるのかも忘れたんですか?」

 大方、ここからの景色を収めたかったと言うつもりだろう。だからといって承諾を得られると思っているのも考えものだが、彼女だけを特別に許可などということは断じて出来ない。

 というかそれ以前に、決定権はこちらも持ち合わせてない。

「お前の言いたいことは分かるが、俺は写真部の部員である以前に風紀委員だ。このような事態を見逃すことは出来ない」

 こんな言葉を並べている隙にも、彼女はこちらへレンズを向けてシャッターを切っていた。どうやら、真面目に話を聞いてくれていなかったらしい。

「んー、先輩写真写り悪いですね。なんか表情が硬いというか」

「お前なぁ……」

 小さな箱を両手で構えて覗き込む水戸は、こちらへと視線を向けて不満を垂れていた。そもそも、許可なしに人の顔を写すのもどうにかしなければならない。

「大体、ルールを破って撮った写真が美しい訳ないだろう。こんなことは今すぐに辞めて、鍵を元あった場所に返すんだ」

 自論に塗れた言葉だというのは理解しているが、これは事実だと解釈している。どれだけ美しい景色を写そうと、その当人が犯罪者であれば価値は下がってしまうだろう。それと同じなのではないだろうか、

「先輩、もうちょっと笑ってみてくれません?」

 だめだ。彼女は完全に何も聞いていないらしい。これ以上なにも聞かないというのなら、最悪教師側に協力の要請をしなければならないだろうか。

「先輩は、どうやったらもっと表情豊かになってくれるんです?」

「水戸が鍵を返して、しっかりと教師陣に謝罪をしたらお前の望み通りの顔をしてやるよ」

「それじゃあ駄目ですよ、今ここで見せてくれないと……」

 何のこだわりがあるのかは知らないが、無論言うことを聞いてやるほど甘くはない。彼女には、そう簡単に理想が手に入る訳がないと分かってもらわなければ。

「じゃ、これはどうですか」

 水戸は左脚から、一歩二歩と後ろへと下がっていく。一定を保ったまま離れる彼女は、遂に背景となっていたフェンスに衝突した。しかし学校という教育の場としては、それはあまりにも無力を絵に描いたようなものだった。

 どうやら、水戸の肩辺りまでしかそれは適応されていないらしい。彼女は勢いに任せて身体を仰け反り、堕落したようにフェンスへともたれた。

「昔の画家とかって、死んでからの方が絵の価値が上がったりするらしいですよ」

 何を言っているのかはわからなかったが、その行動を見れば彼女が何を企てているのかはすぐに理解できた。

「ねぇ、先輩。私がここから飛び降りるって言ったらどんな顔を見せてくれますか」

「馬鹿か⁉︎何考えてんだ‼︎」

 かなりの声量で叫んだとは思う。だが、眼前で行われているそれに対する精一杯としてはまだまだ足りない具合なのではないだろうか。

 今からどう足掻いたとて、この身体がどれだけ手を伸ばしたとて。きっとその姿を捕らえることは出来ないだろう。だからこそ、無意味な声へと変換されたのだ。

 そして、そのままバク宙を決めるかのように、水戸の身体は美しい弧を描いてフェンスの向こう側へと重力のまま消えていった。

「嘘だろ……アイツ……」

 先程駆け上がった階段の数を数え直すも、心臓がうるさく鳴いていた為に集中が出来なかった。このまま前進して下を見下ろすことも出来るだろうが、明白な理由がその行為を拒んだ。

 ただ、己が一番にすべきは通報か。しかし、慌てて飛び出したが為に教室へと携帯電話は置いてきてしまったらしい。となると、教員への報告が最優先か。

 踵を返して、一番近くに居るであろう教員を探す為に防火扉を開け放った。

「見てください先輩‼︎この顔めちゃくちゃすごくないすか⁉︎」

 取手に手をかけた途端に、背中の方向から声が響いた。それは先ほどまで聞いていた、高い声だ。

 もう化けて出たのかと顔を後ろに向けると、フェンスの向こう側から小さな顔とカメラを握った手が姿をのぞかせていた。

「水戸……‼︎」

 先ほどまでは役に立たなかったこの脚も少しは使えるらしく、一気にフェンスの側へとたどり着けた。

「先輩みてくださいよー、この顔ものすごい良くないですか⁉︎」

 フェンスから顔を出して見下ろすと、そこには微妙な段差がもう一つ存在していた。その小さな空間にて、身体を小さく丸めながら辛うじて息を潜めていたらしい。

「馬鹿か⁉︎こんな危ないこと……‼︎」

「先輩の表情が硬いのが悪いんですよー……あれ、登れない……」

「いや、この件は圧倒的にお前が悪い」

 こちらの方向に手を伸ばして這い上がろうと奮闘するも全く手応えのない水戸を引きずり上げ、温められたコンクリートの上に腰を下ろして説教ということにした。

「とりあえずお前はこれから生徒指導だ」

「嫌です離してください」

「今のお前に拒否権は無い」

 この間にも響き渡る野球部の声と蝉の声。掻き消されそうになるこの会話は、儚くも生徒指導室へと向かっていった。

 

 

「全く、なかなか恐ろしい生徒が入学したものですね」

「あぁ、本当だよ。藍川が居なかったらどうなってたか……」

 自身の目は、二本の針を用いて、午後四時半を指すシンプルな壁掛け時計を確認して語る。

 続けるように、生徒指導の高田先生、通称タカセンが机に並べられた三枚の原稿用紙に目を落とす。ごめんなさいとか、もうしませんという文面が並べられているが、水戸の顔を思い浮かべると全く反省してなさそうに感じる。

 しかし自身がいなければどうなっていたかという発言だが、恐らく何も起こっていなかったのだと思う。この件に自身が深く関わった故に、彼女があのような行為を行ったというのだから。

「全く、屋上の鍵を盗むなんて……」

 ここまで言って、ようやく思い出した。あの後何処かに寄るでもなく生徒指導室へと水戸を押し込みタカセンに全てを任せたことにより、鍵の回収を忘れたまま彼女を帰宅させてしまったのだ。

「鍵……?」

「あぁそうですよ‼︎アイツ屋上の鍵盗んでたんです‼︎俺はなんで回収するの忘れたんだ⁉︎」

 これは、割と大きな失態である。最早彼女なら何をしだすか分からないというお墨付きをあらゆる教員から貰っているというのに、それを抑制できなかったというのだ。

「と、とりあえず明日も部活あるんだろ?そのとき返して貰えばいいじゃないか」

 タカセンの手に握られた、3枚目の反省文。最後の最後に「あと屋上の鍵勝手に使ってごめんなさい」と記されていたのだ。

 流石に全てをこの場で読んだりはしないだろうと踏んだ水戸が巧妙に仕掛けた罠により、しっかりと反省の意思を示しつつ逃走を図るというなんとも知的な作戦が張り巡らされていたのだ。

「本当に申し訳ありません‼︎」

「藍川君が謝ってどうすんのさ」

 

 

 帰路に着く。駅までの数キロを徒歩で移動し、電車に乗って四駅先に向かう。

 この青く茂る木々も、いつしかは桜が咲き誇っていたものだ。一年のうちわずかな期間にしか咲き誇れない花というのは、随分と気分屋なのだなと解釈をした。

 しかし、花はいいなと何度思った事だろうか。

 仮にも短い期間しか咲かないと言えど、この場所で咲くというのを人々は知っている。それも、毎年毎年。

 そうすれば、多くの人が咲くその瞬間に注目してくれるだろう。

 だが、我々人間は違う。咲き誇れるのは、本当に短い期間に限られているのだ。群れるほど美しくなる桜と違って、周囲から抜きん出なければ注目されることすらないのだから尚更だ。

 

 現在の自身は、高校二年の夏。

 今まで多くのコンクールに応募してきたが、どれもが平凡に落ち着いてしまっているのか、受賞なんてものを手にしたことはない。

 分かっている。写真なんてのは才能の世界なのだ。

 審査に集まる描写は、どれもが美しいことを当然のように振る舞っている。そのなかに存在する、微々たる差で勝敗を付けなければならない。

 それならば、最も才能を持ち合わせた人間が賞を手に入れるのは当然なのだろう。

 世界遺産だとか、奇跡の瞬間だとか、そんな売り文句に塗れたこの界隈に飛び込んだのが間違いだったのだろうか。己の好きなものと言って、ただ平凡でありきたりな日常を切り取った絵は、前者に劣ると常識のようにあしらわれてしまう。

 結局、多くの金と時間を持っていて、美しいものを探しに行く暇を持て余した人物が勝つのだろうか。だとしたら、最早努力というのも信じられなくなってしまう。

 なんて、名誉が欲しい為にしていることなのかと言われて仕舞えばそれ以上反論が出来ないような不満を内に秘めながら、少しずつ見えてきた駅の影を捉えた。

 

 

 この学校の写真部というのは、あまりに細々としたものだ。部員数は現在五名で、水戸が入部しなければ廃部という危機的状況に陥ったこともあるほどである。

 部員は誰も彼もが自由に動き回り、求める景色を収める為に奮闘している。だからこそ、この部室に全員が集うというのも年間を通してほとんど無いと言ってもいい。

 一年一組の教室を部室とし、近くの倉庫に必要な道具を突っ込んで活動しているこの部屋には、当然ながら水戸の姿は無かった。ただ、荷物はあるので一度ここに来たということだろう。ここで待ち伏せていれば、いつかは現れるに違いない。

 今日に水戸が屋上の鍵を持ち合わせているのかは不明だが、まあ何もしないよりはマシだろう。

 すると、教室の扉が開く。遂に現れたかと身構え、その姿を捉えた。

「あれ、藍川何やってんの」

「なんだ井浦か」

 同期の井浦だった。全く紛らわしい奴だ。

「なんだって……何?誰か待ってんの?」

「水戸だよ」

 すると、井浦の顔が分かりやすく歪む。凄く鬱陶しいという言葉が相応しいそれだった。

「あー、風紀委員の癖にそういう」

「そうだ。風紀委員としてアイツを正さないとならん」

 腕を組み直し、井浦に向けた視線を鋭くする。それに対して面倒くさそうな顔を見せた彼は、機材を持って無言で教室から出ていってしまった。

「ハズレか……」

 と、呟くと、扉の向こう側から井浦が顔を覗かせた。

「ハズレってなんかやな言い方だな。つか水戸なら上の方行ってんの見たぞ」

 上の方に向かった。と、情報を手に入れる。井浦が嘘をつくかと言われればそうでもないが、まあ行く価値はあるだろう。

 荷物をそのままに、屋上へと脚を急がせる。今日は水戸との遭遇を目的として登校している為、既に夕焼けが姿を表していた。

 階段を上り切り、今尚蒸し暑い屋外への道を駆ける。どうやら井浦の言葉は正しいらしく、昨日と同じように屋上への防火扉が開け放たれていた。

 そして、こちらも昨日と変わらない光景が映る。違うとするならば、空が少しずつ暗くなっているという点だろうか。

「やっぱり来ましたね、先輩」

「とりあえず鍵返せ」

 昨日、とんでもない事をした水戸が同じ位置に立っている。また同じことをするのではないかと不安を覚えながらも、そんなことを二度とさせない為に鍵を回収しなければならないのだ。

「……鍵は返しますよ。ただ、その前にちょっとだけお話しませんか」

「ずいぶん素直だな」

「ええ。これで私の目的は果たせますから」

 水戸の手には、しっかりとカメラが握られている。いつも通りの彼女には、どうしてかいつも持ち合わせていない落ち着きが見えた。

「先輩は、どうして写真始めたんですか?」

 視線を逸らし、街の方向を向いて水戸は語り出す。なんとなくの感覚だが、この話が終われば彼女は、大人しく鍵を返してくれそうだ。

「……なんでだろうな。ただ、何か欲しかったんだ、個性みたいなの」

「ふーん……じゃあなんでも良かったんですね」

 確かに、なんでも良かったと言えばなんでも良かったのだろう。だが、今思えば写真よりも向いていた分野があったのかもしれない。

「私はですね、単なる憧れだったんですよ」

「……はぁ」

 憧れとは。なにか、美しい写真に心を打たれたといったところだろうか。こちらの論だが、一度名を馳せると何を撮っても評価されるこの業界では、自身は何も感じることができないのだが。

「私が初めて聞いた先輩の言葉って、知ってますか」

 勿論そんなことは記憶にないが、恐らく写真部への勧誘だとかそういう言葉だった気がする。

 しかし、何故その話題が出るのだろうか。

「覚えてるわけないですよね。その時は先輩、私のこと知らなかったですし」

「どこかで会ってたか?」

 水戸は、ゆっくりとカメラを握り直してこちらに目線を向ける。真剣な眼差しで、彼女は続けた。

「今年の五月くらいですかね。私、電車の中で盗撮されてたんです。それを助けてくれたのが先輩だったんですよ」

 その言葉に、少し朧げな記憶を蘇らせる。確かにその時期にそういう事をした記憶があるが、あの生徒が水戸だったという。

「私は全然気付いてなかったんですけどね、先輩その時言ったんですよ。『カメラはお前のような外道が持つ為に生まれたものじゃない』って」

 その言葉に、朧げだった記憶がしっかりと蘇った。今思い出せばかなり羞恥心のある発言が、このように掘り起こされることになろうとは。

「その時思ったんですよ、真摯に写真に向き合ってる人なんだなって。まあその……なんというか、一目惚れといいますか」

「……は?」

「だから、先輩のこと追いかけてたんですよ。ここの制服だったから、あの日の放課後真っ先に写真部に行ったんです。そしたら先輩が居て……」

 少し時間が欲しい。全く整理がつかないまま話を進められたとて、微塵も頭に入ってくれないのだ。

「それから、私も写真の魅力に取り憑かれました。何が綺麗なのかな、何が評価されるのかなって。でも、先輩は前に言ってましたよね。写真は美しいものが写ってる前提で評価されるって」

 そんな、己の一端の考えでしかない論を述べてしまっていた。皆に影響を与えてしまったのではと後で後悔していた、写真部部員としての最低な発言だ。

「だから、私も先輩の言う通りにしたんです。誰もが美しいことを前提に写した景色の中で、どうやって私の好きなように撮れるのか」

 水戸は、もう一度街の方向を見る。そこでは、屋上に上がった頃から少しずつ日が傾き、遂に暮れる手前の輝きを生み出していた。

「綺麗な景色と、私の好きなもの。両方写せばいいんです」

 少しずつ脚を動かして、ポジションを取る。水戸は、構えたレンズの一直線上に夕景と自身の姿を映し出した。

 そして、シャッターを切る音。

 たった一瞬のそれを身に染み込ませ、気付く頃には日が姿を消していた。

「ねぇ、先輩。もう一度言いますね」

 



「私、好きなんです。先輩のこと」

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