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『飛行機は無事に出たのかい?』
――いいえ、送迎デッキで見ていますが、まだスポット内に待機しています。
――ですが、もうまもなくかと。
『そうか……君には、色々と苦労をかけたね。まさかこんなに大事になるとは』
――いえ、元はと言えば、私が提案したことですから。
――しかし事件のことは予想外で、もっと早く彼女と会えていたらと……悔やまれます。手にかけることはなかったとしても、彼女が罪を犯したことは、事実ですから。
『確かに、彼女の罪は重いものだ。たやすく許していいものではない……けれど今回ばかりは、君の判断を尊重したいと思うよ。彼女の過去をよく知る君だからこそ、彼女にとっての本当に償うべき機会を与えることができただろうから』
――そう仰っていただけるなら、いくらか救われます。
『君の行いが正しかったとは言わない。けれど、正しいばかりがすべてじゃない。時には正しさを捨てることで、大切ななにかを守れることだってある。君はそう言いたいんだろう?』
――克己様には、すべてお見通しですね。
『すべてではないが、大抵のことはね。もしかしすると拓海のことよりもよく分かるかもしれない』
――ご冗談を。
――それで克己様は、次はいつお帰りに?
『まだ分からないが、年内には一度……いや、むしろ拓海が春休みの時がいいかな?』
――私はどちらでも構いませんが。
――細かな日程よりもまずは、ちゃんと帰ってきていただけのかどうか。そこからではありませんか?
『確かにそうだね……最善を尽くすよ』
――ぜひお願いいたします。
『だからまだ、拓海には言わないでおいてくれ。本当に帰ってこられるかも分からないしね』
――いいえ、お伝えしておきますよ。でなければ克己様、いつまで経ってもお戻りにならないでしょう?
――気まぐれではなく約束となれば、克己様も守る義務が発生します。
『参ったな……今から上手い言い訳でも考えておくか』
私は思わず噴き出しそうになった。まったく、いつまで経ってこの方は……。
送迎デッキのウィンドウの先では、まだ二人を乗せた飛行機が動く気配はない。時計を確認すると、出発時刻まではもう少し余裕があった。
『拓海は? そこにいないのかい?』
――はい。一緒に来られた冠城教授が先に帰ると仰ったので、そのお見送りをされています。もうそろそろ戻ってこられるかと。
『そうか。もうすぐ飛行機が発つ頃だろう。拓海が戻ってきて君と話していることがバレたら厄介だし、そろそろ切らせてもらうよ』
――あら、なにが厄介なんですか? せっかくですからお話されればよろしいのに。
『あいつと話すと長くなりそうだからね。帰ってきた時にゆっくり話した方が効率がいい』
――まあ。親子だというのに、効率だなんて。
『それよりも、本当によかったのかい?』
――なにがですか?
『あのネブリナ……確かアスミちゃんだったかな? こんな形で預けてしまって、君は本当によかったのかと訊いているんだ』
私は言葉に詰まった。
都合の悪い話になると、すぐに話題を変えようとする。克己様の常套手段。
『あの子の
私はわずかに上を向いた。
窓の外に広がる真っ青な空の果てを見て、込み上げた熱を瞳の奥でぎゅっと堪えた。
――正しいことばかりが、すべてではありません。
――それにきっと、彼女たちも気づいていたのではと思います。
――私はどうやら、嘘をつくのが下手くそな偽善者みたいです。
それだけ答えると、電話の向こう側で克己様が小さく笑った。
『下手くそな嘘はきっと、どこかの誰かに似てしまったのだろうね』
それからまもなく、克己様は通話を切った。
私はポケットにスマートフォンをしまい、胸の辺りに手を当てた。ちょうど、ペンダントのロケットがしまい込まれている位置に。
――ごめんなさい、ラルフ。私は、あなたが残してくれた最後の宝物を手放してしまった。本当に、ごめんなさい。
だけど、あなたなら分かってくれると信じているわ……いつか、私に微笑みかけてくれた時のように。
それに、――私にはもう、守るべきものがあるから。幸いの在処を知っているから。
あなたから最後に授かった希望を、私の友人に託すことを許して――ねえ、ラルフ。
「ジェマさん、飛行機、もう飛んじゃった?」
聞き慣れた声がして、私は振り返った。
わずかに焦った様子の拓海様がこちらへ駆け寄ってきていた。
私は微笑みと共に出迎え、まだですよ、と答える。
「そっか。間に合ってよかったよ。空港の中って結構迷うものだね」
ええ、人も多いですからね――そう相槌を打とうとした時。
「あ、あの飛行機じゃない?」
拓海様の言葉で、私は窓の外に視線を戻した。
カタリナとアスミの乗った便が、今まさに滑走路に入り、離陸するための助走を取ろうとしていた。
「ねえ、ジェマさん」
普段より少しだけ小さな声で、拓海様が私に呼びかける。
「また今度でもいいからさ……その、教えてくれないかな。父さんの仕事がどんなものなのか」
拓海様はこちらを向かず、ジッと飛行機を見つめていた。
その横顔はまだ垢抜けていないながらも、確かに克己様と似た気配があった。私は密かに口元を緩めた。
――めずらしいですね。拓海様が、克己様のことについてお訊ねになるなんて。
「うん……でも、知りたいって思ったんだ。おかしいかな?」
――いいえ、そんなことはありません。拓海様と克己様は親子なのですから、お互いのことを気にかけるのは自然なことです。
――しかし、克己様のお仕事にご興味があるのでしたら、もっと頑張らなければなりませんね。
「頑張るって、なにを?」
――英語のお勉強を、です。
努めていたずらっぽく、私は言った。
予想通り、拓海様は苦笑いを浮かべ、
「そんなこと、今はいいじゃん……大体僕は、父さんの仕事について聞きたいだけで、別に継ぎたいとか思ったわけじゃ」
――ええ、分かっていますよ。
微笑みと共に答えて、私は拓海様の手を握った。あえて不意を突くように。
「え、ちょ、急にどうしたの?」
分かりやすくたじろぐ拓海様は、中々に可愛らしいものだった。こういう表情は出会ったばかりの時とほとんど変わっていない。
――私の手、どうですか?
「いや、どうって……すべすべ、というか。あとちょっと、ひんやりしているというか……」
――そうですか。拓海様の手は、私より温かいですね。
「見送りで、外に出てきたからかな……それで、どうして急に、手なんか?」
――いいえ、単なる気まぐれですよ。
「気まぐれって、そんな……」
照れた様子の拓海様に、私はほら、と窓の外を見るよう促す。
カタリナとアスミが乗った飛行機は、滑らかに滑走路を走り抜け――雲一つのない空を目指し飛び立った。
心の中でそう呟きかけて、私は小さくかぶりを振った。再び両目の奥に込み上げてきた熱を堪え、真っ青な空を見上げる。
機体は徐々に空港から遠ざかり、その背中はいつの間にか小さな白い点となっていた。私は機体が見えなくなるまで空を見つめて、拓海様の温かな手のひらをぎゅっと握り締めていた。
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