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出会ったばかりの頃、ジェマさんは言っていた。
――『幸いとはなにか、それは世界中で最も難しい問いの一つです。ただ、あえて定義づけるのであれば、私は他者からの愛情ではないかと思います』
――『孤独では、自らが本当に幸いかを見極めるのは困難です。他者の存在によって基準が作られます。私は、自らになんらかの適切な愛情を与えてくれる存在がいるか、それが大切だと考えています。親からの愛、友人からの愛、恋人からの愛、種別は問いません。愛情の有無が重要です』
その言葉を、僕は否定しなかった。
ジェマさんと出会うまで、僕は自分を不幸な子供だと思っていた。母親を亡くし、父親は家におらず、友人も作ることができないでいた。いつも独りぼっちで、いつも孤独だった。自分は幸せだなんて、一度も考えたことがなかった。
だけど僕は、一度も『死にたい』と思ったことはなかった。キャシー先生のように自殺願望を抱くことはなかった。
僕とキャシー先生は似た者同士だと思ったけれど、結局のところはまったく違っていたのかもしれない。それが種別か程度の問題かは分からないけれど、確かな差異があったことは確かだ。
僕は父さんとほとんど会うことはなかったけれど、父さんが働いて稼いだお金で生活していたのだから。それはそれで、生かしてもらうだけの愛情を受けていたと言えるのかもしれない――十二歳の誕生日には、素敵な友人とも巡り合わせてくれたし。
所詮は僕の孤独なんて、キャシー先生に比べれば表面的なものでしかなかったのだと思う。だからジェマさんの存在や言葉だけで、簡単に幸福感を得て、簡単に立ち直ることができた。なんて単純なガキだったんだと今にして突っ込みたくなってしまう。
キャシー先生が抱えていた孤独は、彼女の過去を聞いた限りでは容易に解消されるものじゃない。
彼女は何度も愛した人を失い、何度もこの世界から裏切られてきた人だ――強い愛情を知っていたからこそ、それを喪失させてしまったことへの絶望は大きなものだったのだろう。
ずっと死にたがっていたのも、単に生きるのが辛かったからではなく、これ以上はもう、誰も愛してしまいたくなかったからではないだろうか。
誰かを愛してしまうことは、失ってしまう未来をも生んでしまうことと同じ――そんな風に考えてしまったから。
その悲しみが常に凄絶だった彼女は、再び経験することを強く怖れたのだろう。心の底から愛すれば愛するほど、永遠に別れてしまう日が辛いものになると。
僕もいつかは、ジェマさんと別れる日が来る。時が流れ続ける限り、それは避けようのない未来だ。もしかしたら僕の方が先に、ということも充分にありえる。
僕もきっと、大きく悲しむのだろう。たくさん泣いてしまうのだろう。その時が訪れたら。
だけど僕は、どれだけ大きな悲しみに苛まれても、ジェマさんに笑って伝えたいと思う――僕を独りしないでくれて、ありがとうと。幸いを教えてくれて、ありがとうと。そういう教訓の絵本を昔、読んだことがある気がする。ジェマさんと会うよりもずっと前、誰かに読み聞かせてもらったことがあるのだ。それが誰だったのかは、僕はもう思い出すこともできないけれど。
願わくは、キャシー先生にとってアスミが、僕にとってのジェマさんのような存在になってくれることを、幸いを与えてくれる存在になってくれることを――、
僕も、心から祈っている。
♦
国際空港の出発ロビーは人混みで賑わっていた。僕は空港にあまり来たことがないけれど、普段より人が多いことは想像できていた。夏休みの終わりというのはどこも混み合うものだと思う。ピークにはほど遠いかもしれないけれど。
国内線は盆休みが明ける頃くらいがピークだろうか。国際線はいつが最も混み合うのかよく分からない。日本への観光客と言えばなんとなく中国人が多いイメージがあるから、夏よりも春節の時期くらいが一番人が多いのかもしれない。
そもそも夏休みなんて、日本にとっての夏休みでしかないし。ほかの国の夏休みがどうなっているのかも僕はよく知らない。
ターミナル内に搭乗案内のアナウンスが流れ、それはキャシー先生とアスミが乗る予定の便についてだった。搭乗までにどんな手続きがあるのかはよく知らないけれど、余裕を持ってそろそろ行った方がいいんじゃないだろうか。万が一遅れたりしたら大変だ。
「手続きはもうないわよ。あとは保安検査くらいだから」
心配無用と言わんばかりのトーンで、キャシー先生は答えた。彼女らしい朗らかな笑みと共に。
考えてみれば、キャシー先生は何度も飛行機に乗ったことがあるのだったか。だとすれば僕なんかに忠告されずとも遅れるわけがない。
「慣れている人でも乗り遅れることがないわけではないわ。それに保安検査で引っかからないとも限らないし、そろそろ行った方がいいのも確かね」
キャシー先生はベンチから腰を上げる。彼女と手を繋いでいるアスミも一緒に立ち上がった。
――今日、午後の便で、二人は日本を発つ。ジェマさんの計らいで、ノルウェーにいる知人のもとへ行くのだという。
表向きは罪を犯したネブリナを罰するためで、アスミはキャシー先生の監視のためについていくのだが、実際は違う理由だった。二人は一緒にいるべきで、僕もそれが望ましいと思った。
二人はもう、紛れもない家族なのだから。誰も彼女たちを分かつことなどできないし、あってはならないことだ。
僕としては、キャシー先生がいなくなってしまうことはとても悲しく、寂しいことだった。今度からなにを楽しみに英語の講義に出ればいいのだろう。
それにもし、冠城教授から落単を宣告された時、一体誰が僕の肩を持ってくれるというのか。
「私が目の前にいるというのに随分な物言いだね。それと、単位を落とすことが前提になっているのもどうかと思うが」
冠城教授による当然の指摘が入った。僕がわざとらしくたじろぐと、キャシー先生は「ふふっ」と笑みをこぼした。
「大丈夫よ宇佐見君。慶士郎さんだって有無を言わさずに落第させることなんてないし、それに私がいなくたって、英語を教えてくれる素敵な家庭教師がいるでしょう?」
からかうような眼差しがチラリと、僕の隣にいるジェマさんに向けられる。
空港内でも相変わらずのメイド姿で衆目を集めているジェマさんは、キャシー先生からの問いかけに小さく溜め息をつき、
「拓海様、あまり私を煩わせるようなことを増やさないでくださいね。私は宇佐見家のハウスメイドなのであって、拓海様の家庭教師ではないのですから」
どうやらサービス範囲外らしい。
まあそもそも、今の僕とジェマさんは離れて暮らしているし、どのみち家庭教師は無理だっただろう。キャシー先生だってすべて分かっていて言ったに違いない。
「拓海」
ふと、アスミが僕の名を呼んだ。
いつもの無表情でしげしげと僕を見つめたアスミは、繋いでいない方の手を拳にして胸元まで掲げ、
「
流暢過ぎて聞き取れず、思わずパードゥンと訊き返そうとしたけれど、なんとなく分かったふりをしてサムズアップしてみせた。たぶん激励してくれたのだろうし。
「もういい時間だから、そろそろ行くわ。みんな、色々とありがとう」
再び朗らかな笑顔で、キャシー先生が言った。
まず冠城教授が「うむ」と神妙に頷き、
「体に気をつけて。連絡は、色々と落ち着いてからでも構わないから」
「ええ、そうします」
「それと……もしよかったら、クリスマスの前には一度、帰ってきなさい。私も必ず、時間を空けておくから」
「……ええ、そうですね。必ず」
アスミの手を改めて握り直しながら、キャシー先生は誓っていた――クリスマスの頃に日本へ戻ってくることを。
その時期が二人にとって特別であることは、僕もよく分かっていた。
「宇佐見君も、見送りありがとうね。あなたの言葉には救われたわ……またいつか、アイスクリームでも食べに行きましょう」
はい。今度は二人きりでもいいですよ。
なんならアイスクリームじゃなくて、もっと雰囲気のいいレストランとかでも。
「それはダメ」
遮るようにアスミが言った。普段より幾分、鋭さを持った声で。
「遊ぶなら、みんな一緒が、いい」
これにはキャシー先生も「そうよね」と微笑んでいた。僕の邪な目論みは完全に阻止されてしまったらしい。
「カタリナ、元気でね。向こうで生活するための手配はすべて済ませてあるから、安心して」
不意に、ジェマさんが言った。
キャシー先生は「ええ」と小さく頷き、
「ジュリエッタ、なにかならなにまでありがとうね。あなたには大きな借りができてしまったわ」
「借りだなんて、私は思っていないから。友人として当然のことをしたまでよ」
「組織の人間として、でしょう? ……まあ、あなたが友人と言うのなら、それでも構わないけれど」
皮肉っぽく言ったキャシー先生だが、その表情は明るいままだった。
いつかの夜に感じた狂気さは、もうどこにもありはしない。
「それにしても、ノルウェーでどんな幽閉生活が待っているのかしらね。今から楽しみだわ、ジュリエッタの手配した環境がどんなものなのか」
「とても辛いものよ。今から覚悟しておいた方がいいわ」
「へえ、そんなに?」
「ええ。なにせあなたのことを一番よく分かっているお医者様の家だから……あなたがあれほど嫌っていたカウンセリングが、また始まってしまうかもしれないわね」
キャシー先生は一瞬、言葉に詰まったように押し黙った。
が、まもなく「ふふふっ」と短く笑い、
「……それは本当に、辛いものね。今度はもう、なに一つ誤魔化せそうにないわ」
言葉とは裏腹な、嬉しそうな表情を浮かべていた。
ジェマさんは「そうでしょうね」と答え、肩にかけていたバッグから書類の入ったクリアファイルを取り出した。
「それと、これをあなたに渡しておくわ。きっと役立つと思うから」
「これは?」
「LDEに指示されて行っていた、アスミの定期検査の報告書よ」
ジェマさんの言葉で、僕はあれかと思い当たった。
思えば、あの報告書を提出するアルバイトが始まりだった。あの時はどうしてこんな測定をしなければいけないのか、想像もつかなかった。
キャシー先生は差し出されたファイルを見て首を捻り、
「LDEの定期検査って、あの身長とか体重とか、食事内容を記録するものでしょう? 私が持っていて役に立つかしら」
「身体情報については、そうね。LDEが計測内容を元に健康状態の変化を記録するだけのものだから……でも、食事内容の方は、きっと興味深いと思うわよ。アスミの好物がなにかまできちんと報告されているから」
ジェマさんはチラリと僕を見て、ひっそりと微笑みかけてくる。
そういえば、アスミがアイスクリームや僕の焼きチーズカレーを好んでいる話をジェマさんにした時。
――『なるほど……興味深い事実です。アスミが自分からなにかを望むことは、あまりないようでしたから』
なにか有益な情報を得たかのように、ジェマさんは話していた。
「なるほど……確かに役に立つかもしれないわね」
キャシー先生も意図をしたのか、おもむろにファイルを受け取っていた。
なるほど、これがジェマさんの魂胆だったのかもしれない。
ただ組織に言われたことを僕に委託したのではなく、僕をアスミと生活させることで、アスミが心を開かせることを期待していたのだろう。キャシー先生がアスミと生活する上で重要になる情報を僕に引き出させるために。
なんとも用意周到な人だ。僕がアスミと打ち解け合うことまで予想通りだったのか――ほんと、この人には頭が上がらない。
ファイルを手渡したのち、ジェマさんはアスミに視線を移し、
「そういえばカタリナ、アスミの名前はどうするの?」
「え?」
「アスミって、拓海様に頼まれて私が付けたものだから。元々このネブリナには、名前がなかったのよ」
そういえばそうだった。なんとなくみんなそう呼んでいたけれど、元はと言えばジェマさんが名付け親だった。しかも僕の名前をもじったものだし。
「カタリナが望むなら、新しい名前を付けてあげてもいいのよ? あなたにはそれだけの権利があるんだから」
「……いいえ、このままでいいと思うわ。もう私の中では、この子はアスミになってしまっているから」
それに、とキャシー先生は続け、
「アスミって、凄くいい名前だと思うわ。漢字で書くならきっと、美しい明日、と当てるのでしょう?」
そう訊ねられ、僕は首を捻った。
アスミは完全に外国人だから、漢字でならどう書くか考えていなかった。自然とカタカナの文字列で思い浮かべてしまっていた。
でも一般的な読み方で考えるなら確かに、『明日美』と書くのがいいかもしれない。
あるいは明日を見るで、『明日見』とか?
「そのどちらでも、綺麗な名前だと思うわ。私は好きよ、アスミって名前」
柔らかく微笑むと、キャシー先生は穏やかな手つきでアスミの髪を撫でた。
ジェマさんもその場に屈み込み、アスミと目線を合わせ、
「それじゃあね、アスミ。……あなたも、元気でね。カタリナのこと、よろしく頼むわね」
「…………」
アスミはなにも答えないまま、ジェマさんのことをジッと見つめていた。
アスミが無口なことはめずらしいわけではなかったが、こんな風に応答しないのは稀有な事態だった。一体どうしたのだろう。
僕も不思議に思い始めた頃、――アスミはキャシー先生と繋いでいた手をふっと離して、ジェマさんに抱きついた。外国人特有のハグではなく、ぎゅっと力のこもった抱擁だった。
けれどそれも短いもので、アスミはすぐにジェマさんから離れ、
「
と、囁くように言った。頬にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ジェマさんも「
アスミはまたキャシー先生の手を取った。二人はもう何年も一緒にいる親子のように、自然とお互いの指を絡ませていた。
「ねえ、ジュリエッタ。最後に一つだけ、あなたに言っておくわ」
保安検査場へ向かう間際、キャシー先生はジェマさんに向けて言った。
「やっぱりあなたは、どうしようもないほどの偽善者よ……嘘をつくのがとびきり下手くそな、偽善者」
とびきり皮肉っぽく言うと、キャシー先生は「See you whenever」と続けた。そうして、アスミと手を繋いだまま、保安検査場へ続くベルトパーティションの通路を歩き始める。
ジェマさんは口を噤んだまま見送っていたが、二人が検査場に入るための扉の前まで来たところで、
「カタリナ!」と、声を張った。
二人が振り返ると、ジェマさんは子供のように無邪気な笑みを浮かべ――「Let's play together! I want to be friends!」
英語が苦手な僕でも分かるくらい簡単で、聴き取りやすい発音で、けれど脈絡のない言葉に思えた。
キャシー先生は、少しだけ戸惑ったような顔をして、しばらく俯いた。
けれど最後には、ジェマさんと目を合わせ、
「That's enough!」
そう答えて、嬉しそうに笑みを咲かせた。
とびきりチャーミングな笑顔だった。
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