37



 生暖かい夜風が、屋上に吹き渡る。

 その風は、吹き抜けとなっている階下にも届いたのだろうか――ジェマさんの前髪がふわりと舞い上がり、彼女の決意を湛えた眼差しが露わになる。

 対してキャシー先生は、当惑したように瞳を震わせ、

「子供を、失ったですって……? あなたが、子供を孕んでいたと言うの?」

「ええ、そうよ」

「嘘――嘘よ。だって、あの時のあなたは、まだ誰にも……一体、誰に孕まされたって言うのよ!」

「ラルフよ。……私が捕らえられた日の夜、あの忌まわしい宴の時にね」

「そんな……だってあの男は、あなたを逃がそうと……」

「それも私を逃がすための、苦肉の策だったの。アジトの周辺警備に回っていたあなたは知らなかったでしょうけど、私はあの宴で反乱軍の兵士に犯されかけた。それを阻止するために、ラルフは私と交わった。そこで私に気を失うよう指示して、アジトの裏にある川で目を覚まさせてくると言って私を宴から遠ざけてくれたの。……カタリナに見つかったのは、そのすぐあとのことよ」

 滔々と語るジェマさん。キャシー先生は動揺したように言葉を失っている。

 動揺しているのは僕も同じだった。

 ジェマさんが、妊娠したことがあるだって? それも、十二歳で……。

 僕はふと、隣にいるアスミに視線を向ける。

「…………」

 アスミは黙ったまま、階下の二人を見つめていた。普段の無表情とはかすかに違う、切なげな気配を漂わせて。

 十二歳と言えば、今のアスミと同じくらいのはずだ。

 どこを取っても未成熟で、あどけなさばかりが散りばめられた体躯。

 こんな幼い体だった時に、ジェマさんは子供を産んだというのか。

 いや、ジェマさんだけでなく……キャシー先生も。

 想像もできない世界が、確かなリアリティを持って僕に襲いかかってくる。一度には受け止めきれないほどに。

「私も、カタリナと同じなのよ。愛する人を失って、その人から授かった命さえも失ってしまった……だから、あなたの気持ちが分かるの。あなたがどれだけ辛い思いをして、センターでの時間を過ごしたのか。わずかでも道を違えていたら、今回のような事件を起こしていたのはあなたではなくて、私の方だったかもしれないから」

 手にしたナイフを見つめながら、ジェマさんは言う。

「あの夜、カタリナは私に言ったわね。冷徹でなければいけない、綺麗事を言うだけでは生き残れないって……」

 それからジェマさんは、『死骸を抱いて歩くなら、手は冷たい方がいい』と諳んずるように言った。僕には意味がよく分からない英文だった。

 だけど二人には、なにか通じ合うものがあるみたいだった。

「あの言葉を、私はラルフからすでに教わっていたの。だけど私は、あなたのような解釈はしなかった。きっと、私とあなたの違いは、たったそれだけのことだったのよ。

 でもカタリナ、今のあなたならもう大丈夫。あなたは誰も殺せなくなった、自分で自分を殺せなくなった……けど、それでいいのよ。ためらってしまって、いいのよ。それはあなたの言うような呪いなんかじゃない。過去に囚われているんじゃない。

 あなたはただ、死を怖れるようになっただけなのよ。どこにでもいる、ありふれた子供のように……あの内戦で狂わされてしまった感覚が、元通りになっただけなのよ」

 ゆっくりと、ジェマさんは歩き始める。

 一歩ずつ、一歩ずつ。

 俯き、立ち尽くしているキャシー先生のもとへ。

「カタリナ、もしあなたが生きることを諦めないのなら、聞いてほしいことがあるの。それがあなたにとって、必ず心の救いになるはずだから。だから、カタリナ――」

「――救いなんて、必要ないわ」

 低い声がジェマさんの声を遮る。

 刹那、キャシー先生の手がジェマさんの腕――ナイフを手にしている方の腕を掴み、力づくで切っ先を自分の方へ引き寄せようとする。

 ジェマさんは手を震わせながら抵抗し、

「か、カタリナ――なんの、つもり?」

「私が求める救いは、これだけだからよ。私は、私を殺してほしいの」

 キャシー先生の目が、鋭くジェマさんを捉える。

 睨みつけているようにも、泣きつこうとしているようにも見える。

 数多の感情がない交ぜになった涙が、瞳の中いっぱいに光っている。

 ナイフの切っ先が徐々に、キャシー先生の体に近づいていく。

「ぐっ――やめてカタリナ、手を離して……っ」

 ジェマさんが必死に抗うも、キャシー先生は聞く耳を持たない。

「愛する人を失った? 子供を失った? ――そんなこと、私には関係ない」

 それは小さな笑みと、大きな絶望を孕ませた声だった。

「私の気持ちが分かるんでしょう? それならなぜ、私の望みを聞いてくれないの? あなたは私を殺せばいいのよ。それだけが私の救いなのよ!」

「落ち着いて、カタリナ……私は、あなたと話がしたくて……っ」

「説教ならもうたくさんよ!」

 痺れを切らしたのか、キャシー先生はジェマさんの両腕を掴み、引き剥がすようにナイフを奪う。

 その反動でジェマさんは投げ飛ばされる形となり、ガラスの破片が散らばった壁際に倒れ込んだ。

「結局、あなたは偽善者のままだったのね……あの藪医者となにも変わらないのよ。慰めの言葉なんて誰も欲しがってない」

 倒れたジェマさんに向け、ナイフを向けるキャシー先生。

 狂気に支配されたその目には――はっきりとした殺意が浮かんでいた。

「あなたに私を殺す気がないのなら、その気になるまでいたぶってあげる。LDEで多少の訓練は受けてきたのでしょう? ほら、立ちなさいよジュリエッタ。あなたの手が使いものにならなくなる前に。私を殺してみなさいよ!」

「ぐっ……!」

 ガキンッ、と甲高い音が響き渡る。

 突如として切りかかってきたキャシー先生のナイフを、ジェマさんが拾い上げたガラスの破片で受け止めたことで。

 しかしガラスは脆く、キャシー先生の鋭い一閃によりすぐに砕け散る。破片がジェマさんの頬や腕を裂き、血が流れているのが見えた。

 ――このままじゃ、まずい。

 いても立ってもいられなくなった僕は、傍観をやめて階段の方へ行こうとする。

 が、寸でのところでシャツの裾を掴まれた。

 隣にいたアスミによって。

「どこへ行くの?」

 決まってる。下の階にだ。

 あの二人を――いや、キャシー先生を止めなきゃいけない。

「今のキャシーは、危険。拓海が行ってもなにもできない。怪我をするだけ」

 そんなことは分かっている。

 同じ内戦や悲劇を経験したジェマさんでさえこんなことになってしまっているのだから。僕なんかの言葉が届くわけはないかもしれない。

「それじゃあ、どうして、行くの? キャシーのところへ」

 それは、アパートでも言ったじゃないか。

 キャシー先生は、僕にとってただの先生じゃない――友達だからだ。

 友達が間違った方向に進もうとしているのなら、止めてあげなきゃいけないんだ。それがどんなに危険で、難しいことだとしても。

 こんなところで、傍観しているわけにはいかないんだ。

「友達……」

 ふっと、アスミの手が離れた。

「拓海にとっては、キャシーは、友達なんだ」

 それから、不思議なことを呟く。

 僕は言った――アスミにとっては、違うのか?

「アスミに、とっては……」

 考え込み始めるアスミ。

 なにをそんな、俯いてまで悩むことがあるんだ――僕は、彼女の言葉を待っていられなかった。

 アスミのもとから離れ、階段へと急ぐ。

 下の階へと駆け下りながら、僕は考えた――キャシー先生に、どんな言葉をかければいいのか。

 薄っぺらい同情や慰めを向けたって、ジェマさんのように突き放されるだけだ。なんの意味もない。

 僕には一体、なにが言える? 死を願う彼女にどんな台詞を言えばいい?

 分からない――なにも、思いつきやしない。

 にもかかわらず体だけは進み、いつの間にかジェマさんたちがいる部屋に入るためのドアが目前となっていた。

 しかしその時――僕は目を疑った。

 開かれたドアから、予想だにしない人物が入っていくのが見えた。

 どうして……あの人が、ここに?

 僕は飛び降りる勢いで階段を駆け下り、ドアの向こう側へと入る。

 その人物は、ナイフとガラスの不毛な弾き合いをする二人を見つめ――、

「やめなさい、キャシー」

 と、低い声で言い放つ。

 その瞬間、ナイフを振りかざそうとしていたキャシー先生が手を止め、振り返る。

 ハッと両目を見開き、――ドアの前に立つ冠城教授の姿を捉えていた。

「……慶士郎さん、どうして……」

 それはおよそ、問いかけとしての響きではなかった。

 どうしてかなんて決まっている。ジェマさんが呼んでいたのだ。それ以外にはありえない。

 冠城教授はぎゅっと両の拳を固め、

「キャシー、私は君に謝らなければならない……君が過ちを犯していることを知りながら、私は君にどんな言葉をかけてやるべきか、ずっと迷っていた。迷っていた結果、君にずっと辛い思いをさせてきてしまった……だがキャシー、君の過去を聞いて、私は遂に決心したんだ。君に言うべきことがなんなのか、ようやく気づかされた――君は、一つだけ思い違いをしている」

「思い違い……?」

「ああ、そうだ。――君は、佳奈が苦しみながら死んでいったと言った。なに一つ、あの子の望みを叶えることができなかったと……けれど、それらは君の負の幻想に過ぎない。佳奈はただ苦しみながら死んでいったのではない。最期まで懸命に病気と闘い、天寿を全うした――大好きな君に、看取られながらだ」

 声を振り絞るように、冠城教授は言った。

 ずっと迷い続け、探し続けていたのであろう、キャシー先生への言葉を。

「私もずっと、妻のことで後悔し続けてきた……彼女は佳奈を産むために、たった一人で懸命に闘った。その時私は、彼女の傍にいることができなかった。なにもしてやれなかった。結果的に私は、妻の最期を看取ることができないまま逝かせてしまった……それだけが、ずっと心残りだった。

 だからこそ、私は佳奈が幸せに逝くことができたと思っている。確かに、今際の際では病に侵され、何度も生きることを諦めかけたかもしれない。君に死を乞うこともあったかもしれない……しかしそれでも、私は君を責めたりはしない。君は、あの子の最期の最後まで、傍にいてくれた。私からの指示を全うしてくれた」

「慶士郎さんの、指示……」

「最初の日に言ったはずだろう? ――『あの子の傍にいて、一人にしないであげてほしい』と」

「……っ」

 息を呑むように、キャシー先生が押し黙る。

 そうか――僕はようやく悟った。

 彼女に伝えるべき、僕なりの言葉を。

 僕にはキャシー先生の気持ちは分からない。キャシー先生のように、悲惨な経験をしたことなんてない。

 だけど――一つだけ、確かに言えることがある。

 僕は冠城教授の隣に並び、――キャシー先生、と呼びかける。

「宇佐見、君……」

 再び目を見開いて驚くキャシー先生。

 震えた手でナイフを持つ彼女に向け、僕は言った。


 ――佳奈さんは、きっと幸せだったと。


 僕だって、そうだったから。


 ジェマさんが家に来てくれるまでは、独りぼっちだったから。


 どうしようもないほど孤独で、孤独でいることが日常になりつつあった。感覚が麻痺しかけていた。


 どうにでもできないことだと諦めて、家族のいない生活が当然なんだと思っていた。


 だけど、違うんだって――独りぼっちは嫌だって、孤独はやっぱり、悲しくて辛いものなんだって、思い出させてくれた。


 それが、僕にとってのジェマさんで。


 そして佳奈さんにとっては、キャシー先生がそうだったはずだ。


 学校に通えない彼女は、僕と同じくらい、あるいはそれ以上に孤独だった。独りぼっちだった。


 だから僕には――キャシー先生の気持ちは分からずとも、佳奈さんの気持ちはよく分かる。


 佳奈さんは、幸せだったはずだ。


 キャシー先生と出会えて、一緒に勉強して、一緒に本を読んで、病気と闘って……。


 お母さんと同じ学校を目指すと決意したことだって、後悔なんてなかったはずだ。


 大好きなキャシー先生が一緒にいてくれたんだから……佳奈さんにとって幸せだった時間には、いつもキャシー先生が傍にいたはずだ。


 もし先生が、佳奈さんの死を憐れんでいるのなら、悲しんでいるというのなら――佳奈さんの分まで生きることが、彼女への最大の弔いなんじゃないんですか?


 自殺志願の女の子たちを殺そうとすることじゃなく、


 佳奈さんが夢見ていた制服を捨ててしまうことじゃなく、


 佳奈さんの分まで幸せになることが、キャシー先生が本当にやるべきことなんじゃないんですか?


 ねえ、そうでしょう――キャシー先生!


「……宇佐見君……」

 確かな熱を宿した光が、キャシー先生の瞳の中で輝いていた。

 そこには、悲しみや憎しみが失せ――、

 あるのは、月明かりに照らされた愛おしさだけだった。

「あなたは本当に、思いついたことをぽんぽんと言ってしまうのね……英語の時も、日本語の時でも……だけど、ありがとう」

 気づけば、キャシー先生の手の震えは止まっていた。

 止まっているからこそ、――ナイフの切っ先がくるりと、彼女の喉元に狂いなく向けられる。

「佳奈は、幸せだった……そう、きっとそうね。そうあることを願うわ。

 ……だけど、私にはもう、佳奈の代わりに生きる理由なんてない。幸せになる資格なんて、ないから……だから私も、あの子のあとを追うわ」

 ナイフが、鋭さを持った動きでキャシー先生の喉元へと近づいていく。

 その一瞬は、まるでスローモーションのようだった。

 キャシー先生、カタリナ、キャシー……僕らの声が、一斉に彼女へと向けられる。

 けれど誰の声も、キャシー先生には届かない。

 遂にナイフの切っ先が、彼女の喉元を突こうとした――その時。

 

「ダメッ!」

 

 上空から、甲高い声。

 それと共に、光り輝くガラスの破片が鋭く降ってきて、ナイフを持つキャシー先生の両手を捉えた。

 衝撃でキャシー先生はナイフを手放してしまい、カランカランとコンクリートの上を弾く音が連続する。

 僕はハッと、吹き抜けになっている天井を見上げた。

 ――アスミが、いた。

 月明かりを背に、稚い体躯の彼女が落下してきていた。

 飛び降りるなんて危険過ぎる、何メートルあると思っているんだ、骨折は免れないぞ――刹那によぎる不安。

 けれどアスミは、猫のようにしなやかな動きで、僕らと同じコンクリートの上に降り立ってみせた。驚くほど綺麗なロールの受け身で、スタントマンもびっくりの神がかり的着地だった。

「アスミちゃん……」

 ナイフを失い、呆然とするキャシー先生。

 なぜアスミがこの場に現れたのか、なぜ自分の自死を止めようとするのか――そんな疑問が聞こえてくるかのような眼差しだった。

 アスミは低い姿勢から立ち上がり、足元に落ちていたナイフを拾い上げる。

「死んだら、ダメ。ダメなの」

 夜気のように静かで、少しだけ震えた声だった。

 アスミはナイフを手にしたまま、キャシー先生の方へ歩み寄っていく。パキリパキリとガラスの破片を踏み鳴らしながら。

 体を揺らめかせながら歩くその姿には、感情が希薄な普段の彼女とは異なる気配があった。

 どこか落ち着きがないような――冷静さを失っているような。

 あるいは、気を昂らせているような。

「死んでほしくない……キャシーに、生きていてほしい」

 再びこぼれる、淡い声。アスミの小さな願い。

 キャシー先生はわずかに後ずさりながら、顔をぎゅっと顰めた。

「やめて、アスミちゃん……もうなにもかもお終いなの。お終いにしたいの。今の私なら私を殺せるわ。だからお願い、そのナイフをこちらに渡して。本当に、私のことを思うんだったら……」

「それはダメ。キャシーには、死んでほしくないから」

「どうして? 私が死んだって、アスミちゃんには関係のないことでしょう? それとも、憐れんでいるとでも言うの? 安っぽい同情なら必要ないわ。今の私に必要なのは死だけよ。いいえ、ずっと前からそうだったわ。私には、生きる意味も、理由も……」

「ある――生きる理由、キャシーにはある」

 アスミはなおも近づいていき、――キャシー先生の目の前で、歩みを止めた。

「約束、したから。『またね』って。そしたらキャシー、言った。『また一緒に遊びましょうね』って。キャシーが死んだら約束、叶えられない」

「それは……そんなことで……」

「それに、関係なくない――ずっと、キャシーのことを捜していたから。そのために、ジェマと会いに来たから」

「え……?」

 困惑と怪訝を表情に滲ませるキャシー先生。

 ――そういえば、僕にもまだ分かっていないことがあった。

『私が負っていた任務とは、アスミと共にある一人のネブリナを見つけ出し、会いに行くことでした』

 二人は元々、キャシー先生が怪死事件を起こしているなどとは知らず、別の目的があって会おうとしていたはずだ。

 その目的とは、一体なんだったのか。

 なぜジェマさんとアスミは、キャシー先生を捜していたのか――。

「初めは、戸惑った。もうどこにもいないって思ってたから、そう聞いていたから」

 だけど、とアスミは続け、

「日本にいるって、教えてもらって……どうすればいいのか、分からなかった。どうしたいのか、分からなかった。でも、会いたいって、会わなきゃいけないって思った。どうしてか、分からないけど……会って、言わなきゃいけないって」

 ――カランと、甲高い音がする。

 アスミの手から、ナイフが滑り落ちていた。

 それはキャシー先生の足元に落ちたが、彼女も拾おうとしなかった。

 キャシー先生はアスミを見つめていた。アスミの言葉を待っていた。

 ――アスミの呼吸が、はっきりと聞こえてくる。

 小さく息を吸い込み、意を決したように吐き切る音が、夜の静寂にふぅっと響き、

 

私はここにいるよI am here――お母さんMy Mom


 わずかに上ずった声で、アスミは言った。

 胸のうちにしまい込んでいた想いを、彼女なりの精一杯さで解き放つように。

 伝えるべき言葉を、伝え切った。

「嘘……嘘よ」

 か細い声を震わせて、キャシー先生はその場に膝を折る。

 震える双眸が彼女自身の動揺と、アスミの切迫した気配を映していた。

「あなたが、私のなんて……嘘よ、そんなの」

「――いいえ、本当よ。カタリナ」

 遮るように、ジェマさんが言った。

「その子は、――アスミは、あなたの子供よ。信じられないでしょうけれど」

「そんな……ありえない、ありえないわ! あの子は死んだのよ。私の体から取り除かれて、市街の病院に搬送されて、私と会う前にそこで死んだのよ! もうどこにもいないはずなのよ!」

 幻を必死に振り払うような気配で、キャシー先生は叫んだ。

 ジェマさんは切なげな微笑み、小さくかぶりを振って、

「カタリナ……あなたが出産した日、LDEの病棟で、あなた以外にも出産した子がいたのを覚えている?」

 キャシー先生は息を呑んだように押し黙った。

 ジェマさんは続ける。

「LDEではあの日、あなたと別の少女がそれぞれ子供を産んだ。どちらも未成熟児で、すぐに市街の病院へ搬送されたわ……その時、受け入れ先の病院側であってはならないミスが起きてしまったのよ。そして誰も、そのミスに気づくことがなかった」

「まさか……それじゃあ、ミスって……」

「ええ、あなたの想像通りよカタリナ――あなたの子供と別の少女の子供が、その時入れ替わってしまったのよ」

「――ッ」

 再び、キャシー先生は口を噤んでいた。

 子供が入れ替わる――そんなことは、普通起きるわけがない。絶対にありえないことだ。

 でも僕がそう感じるのは、日本の優れた医療体制しか知らないからだろうか。そんなミスが起こるはずのない環境でしか生きていないからなのか。

 ジェマさんやキャシー先生が過ごした国は、クーデターによる紛争が起きるほどだ。日本ほど盤石な医療体制が整っているわけではなかっただろう。また、少女たちの望まない妊娠も多くあったとなれば、その凄絶な環境は想像を絶するものだ。

 現にキャシー先生も、否定しようとしない。黙り込んだまま、なにか思い当たる節があるかのような当惑を見せている。

「病院側からの一方的な報告を聞いたLDEの医師は、あなたの子供の方が亡くなったという誤報を受け取ってしまった。それからやむなく、あなたにその事実を伝えたのよ……だけど本当に亡くなったのはカタリナ、あなたの子供じゃなかったの。アスミにDNA鑑定を行ったことで、あなたの子供だったことが分かったのよ。

 だから私はあなたに会って、どうしても伝えなければならないと思ったの。あなたがまだ生きていると知ったから。私と同じ日本にいると知って、私と同じように、大切な人のために時間を費やして……だけど、そんな時間さえ失ってしまったと聞いたから。この子と会わせなければいけないと、そう思ったの」

 どこか申し訳なさそうに、ジェマさんは言った。

 キャシー先生はなにも返さないまま、目の前にいるアスミに視線を戻す。

「…………」

 アスミはずっと、キャシー先生を見つめていた。

 いつもの無表情とは少しだけ違う、様々な感情をない交ぜにさせた両目で。

 それでも、キャシー先生に願うことは、たった一つではないかと僕は思った。そのことには先生もきっと気づいている。

 けれど、躊躇しているのだろうか。あるいはどうすればいいのか、分からなくなっているのだろうか。

 ――キャシー先生の戸惑いが、僕には理解できる気がした。

 今の彼女はいつかの僕に似ている。

 僕が初めて、ジェマさんと出会った日の夜――唐突にできた家族に困惑して、僕はどうすればいいのか分からず呆然としていた。

 だけど最後には、僕は自分が求めていたものがなんだったのかを思い出した。それはずっと胸の奥底にしまい込んでいたはずの感情で、図らずもジェマさんの温もりによって緩やかに解かれていった。

 ――ジェマさんも、きっと分かっている。

 キャシー先生の戸惑いがどんなものなのか。失いかけていたものがなんなのか。

 それを思い出せてあげる術を、ジェマさんはきっと心得ている。

「ねえ、カタリナ。あなたは言ったわね――生きる理由がないって。幸せになる資格なんてないって」

 優しく微笑んで、ジェマさんは言った。

 いつかと同じように、瞳を潤ませて。

「だったら私は、あなたに生きる理由を与えてでも生きてもらうわ。そしていつか、幸せになってほしいの。佳奈さんの分まで……あなたが大切にしてきた人たちの分まで。私は、あなたの幸せを願っているの」

「……どうして、ジュリエッタ? 私は、何度もあなたを邪険にしてきたわ。何度も汚い言葉で罵って、あなたを殺そうとまでしたわ……それなのにどうして、あなたは……」

「忘れたの、カタリナ? ――私はずっと、あなたと友達になりたかったのよ。そう言ったはずでしょう?」

 そんな問いかけに、キャシー先生は唖然としたように振り向く。

 けれどもふっと、ジェマさんを真似たように微笑んで、

「……やっぱり、底知れない偽善者ね、あなたって」と、皮肉っぽく言った。

 それから、眼前に佇んでいるアスミの腕を引き寄せ、ゆっくりと抱き留めた。

 アスミは驚いたようだったが、やがてキャシー先生の手に髪を撫でられると、どこか安堵したように目を瞑っていた。

 無表情ではなく――年相応の少女ように、小さな笑みを浮かべながら。



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