36



 蒸し暑い夜だった。そんな中を走れば汗だくになるのも無理はない。普通であれば。

 が、音もなくすいすいと進んでいくアスミは僕ほど暑さに苦労していないようだった。上下黒ジャージなんて格好で僕より厚着のくせに。

 ここまで来ると暑さに強いとかではなく汗腺が正常に機能していないんじゃないかと疑いたくなる。

「汗? さあ。気にしたことない」

 というのがアスミ談。僕とは体の作りが違い過ぎるらしい。

 ――アパートを飛び出した僕らは、ひとけの薄い夜道を駆け抜けて廃ビルの前まで来ていた。

 ここは確か、解体工事が中断されているビルではなかっただろうか。二週間前、それこそアスミを預かることになった日に、不良の溜まり場になっているかもしれないから近づかない方がいいという情報をネットで見た。

 キャシー先生はこういう場所で少女たちと密会を続け、自殺を促していた。自らの中に鬱積したなにかを晴らすために。あるいは、冠城佳奈の夢の残滓を解き放つために。

 どちらにせよ、僕は確かめなければならないだろう。本当に事件を起こしたのがキャシー先生なのか。なぜこんなことをしてしまったのか。

 廃ビルの周辺は夜更けだからか不良グループの噂のせいか、僕ら以外の人影は見当たらなかった。アスミの話によれば、ジェマさんはこの廃ビルの中でキャシー先生と相見える手筈らしいけど、正面から堂々と入って大丈夫なのだろうか。解体工事が中断されているとは言え、勝手に侵入することはやはりためらわれる。

「大丈夫。アラームもカメラも機能してない」

 アスミの頼もしい言葉に手を引かれ、僕は仮囲いのない場所から敷地内へと足を踏み入れる。朽ちかけたドアから廃ビルに侵入し、月明かりだけしか光源のない階段を恐る恐るのぼっていく。

 階段にはガラスの破片が散らばっているため、どれだけ静かに進もうとしてもパキパキと音が鳴る。しかし不思議なことに、アスミの足元からはまったく音がしていない。とてつもない隠密スキルだ。これもネブリナとしての訓練で身につけたのだろうか。

「ジェマ、七階にいる」

 ぼそりと言いつつ、七階をスルーして八階まで上がっていくアスミ。どういうことだ、と不思議に思いながら僕は大人しく小さな背中を追う。

「ジェマに言われてた。もし拓海と一緒に来ることになったら、上で待機って」

 僕が知る限り、アスミの口から一番語彙が続いた瞬間だった。謎の感動。

 というのはともかく、なるほど。ジェマさんは僕がアスミに無理を言って廃ビルに来ることまで想定していたのか。さすがの用心深さ。

 八階はそれまでの薄暗さとは違い明るかった。それもそのはずで、八階とはこのビルにおける屋上だったのである。ほぼ真上にある月の明かりが障害なく注がれているのだから。明るいのも当然と言える。

 屋上は中心のコンクリートが割れ、大きな穴が開いていた。自分の足場まで抜け落ちないか心配になりながらも、僕らは穴の傍まで近づいて階下の様子を確認する。

 そこには――月明かりに照らされた二人の影が対峙していた。

「――ナイフをしまって。私は、あなたと争いに来たわけではないから」

 一人は、ジェマさん。

 先ほど僕の部屋にいた時と同じメイド服姿のまま、毅然と佇んでいる。

 声音は明るいものの、その顔にはいつものような微笑みがない。普段僕と話す時のような、丁寧な口調も影を潜ませている。

 それもそのはず――ジェマさんの視線の先には、いつもの青縁の眼鏡をかけていないキャシー先生がナイフを持って構えている。

 ジェマさんとは対照的に、薄らと笑みを浮かべて。

「争いに来たわけじゃない? ふふっ、おかしなことを言うじゃない。あなたは私を殺しに来たんでしょう? だから自殺志願者のふりをして私をここへ呼び出した。そうじゃないの?」

 キャシー先生の笑みは、上階から眺めている僕にも分かるほど、狂気に満ちていた。

 その眼差しは、普段のキャシー先生が見せるものではない。

 ジェマさんのラップトップで見た肖像と同じ、見る者すべてを凍りつかせるような、邪悪な気配を漂わせている。

 これがキャシー先生の、本当の姿だとでも言うのだろうか。

「それにしても驚いたわ。LDEが私を止めに動くことは分かっていたけど、まさかあなたを送り込んでくるなんてね……日本語までそんなに話せるようになって。随分とこの国での生活が長そうね。それとも、英語なんてもう忘れてしまったのかしら?」

「どうでしょうね。試しに英語で話してみる?」

 ジェマさんのからかうような問いかけに対し、キャシー先生はうざったそうに鼻を鳴らす。

「相変わらず忌々しいわね……もう、とっくの昔に死んだのだと思っていたのに」

「それはこっちの台詞よカタリナ。あなたの方こそ、あの夜……」

「その名前で私を呼ぶのも、もうあなただけかもしれないわね――ジュリエッタ」

 ジュリエッタ……?

 まさかジェマさんもキャシー先生のように、ジェマ・ノエル・アーレイスが本名ではないということだろうか。

「そういえばジュリエッタ、あの傭兵は死んだそうね。私を不意打ちで気絶させたあの傭兵……あなたはあの傭兵を囮にして生き残ったのでしょう? そして私とは違う地区のリハビリセンターに入ってネブリナになった。そんなところかしら?」

「……ええ、概ねその通りよ。だからお互い、生き延びているとは知らずに生きてきた」

「それが今になって、こんな形で再会することになるなんてね。これも運命かしら。だけどそのふざけた格好はなに? 私を殺しに来たとはとても思えない格好だわ」

「見ての通りよカタリナ。私は今、ハウスメイドをしているの……あの夜、私を助けてくれたお方の、ご子息のお世話係をしているの」

「お世話係……奇遇ね。私も、あなたと似たようなことをしていたわ。それもすべて、終わってしまったけれど」

 わずかに、狂気的な眼差しに悲哀の色が混じる。

 ジェマさんは「知っているわ」と、宥めるような声で相槌を打ち、

「日本でのあなたのことは、調べさせてもらったわ。LDEのセンターでどんな経験をしたのかも……あなたの雇い主である冠城慶士郎にも、話を聞いた」

「慶士郎さんにも……?」

「彼は、あなたがこの事件に関与していることに気づいていたわ。だからこそ、すべてを明かしてくれた――随分、辛い思いをしたのね」

「……ッ」

 キャシー先生の目つきが、鋭くなる。

 微笑みが失せ、ジェマさんへの敵意がより鋭利さを増す。

「相変わらずの偽善者ね、あなたは。こそこそと私の過去を嗅ぎ回って、おまけに慶士郎さんにまで。――大方、あの子もあなたの差し金なんでしょう? そう、名前は確か……アスミちゃん」

「…………」

 ジェマさんはなにも答えない。

 その様子を見て、キャシー先生は「やっぱり」と笑い、

「あの子の尾行は只者じゃなかった。私は気づくことができたけれど……一瞬でLDEの人間だと悟ったわ。てっきりあの子が、私を殺しに来たのだと思っていたけど、差し詰めあれは最後の確認とでも言ったところかしら? もしかして、宇佐見君を私に接近させたのもあなたの考え?」

「いいえ、それは偶然よ。拓海様が通われている大学にあなたがいた。ただそれだけのこと」

「あっそう……なるほどね。あなたがメイドとして働いているのは、宇佐見君の家ということ。それは運が悪かったわ。まさかそんな偶然であなたとお近づきになってしまうなんてね」

「いいえ、それも違うわカタリナ。私は元々、あなたと会うためにあなたを探していたの。あなたの過去を詮索していたのだって……」

「そんな台詞はもうたくさんだわ!」

 ブンッ――ナイフが一閃、月明かりを反射させる。

 振りかざすその手つきは、ジェマさんが切り裂かれる未来をイメージさせるような、確かな殺意を纏わせていた。

「ジュリエッタ、あなたがどんな目的で私に会いに来たのかなんて関係ないわ。私があなたに望むことはたった一つだけよ。それがなんなのかは分かっているんでしょう? 本当に私のことを調べ上げたって言うんなら」

「すべてが分かったわけでは、ないわ。あなたがなぜ自殺志願の少女たちと会っていたのか、それはなんとなく想像がつく。あなたも少女たちと同じように死を望んでいたことも。

 だけど実際に自殺したのは少女たちだけで、あなたは生きている。少女たちの遺体にナイフを突き刺して……ねえカタリナ。あなたはなぜあんな真似をしたの? なぜあなた自身は、あなたを殺さなかったの?」

「殺さなかった……いいえ、違うわ。殺さなかったんじゃない。私は、私を殺せないのよ……ねえジュリエッタ、あなたに想像ができる? そこにはいない誰か――愛してしまった人の、もうありはしないその手が、自分の手を支配しようとしてくるなんてこと」

「支配?」

「――こういうことよ」

 刹那――キャシー先生はナイフの刃を自分に向け。

 そのまま、喉元へと勢いよく突き刺そうとした――が、

「……ッ!」

 切っ先が喉に触れる、寸でのところでナイフが止まる。

 キャシー先生の両腕はびくびくと震えていた。歯がゆそうに顔を歪ませると、苛立ちを爆発させるようにナイフをコンクリートの上に叩きつける。

 ナイフは甲高い音を立てて跳ね、ジェマさんの足元まで転がった。

「……ふふっ、滑稽でしょう? 笑いたければ笑えばいい」

 吐き捨てるように、キャシー先生は言った。嘆いているようにも感じさせる声だった。

 ジェマさんはナイフを拾い上げ、

「そう……やはりあなたは、死にたがっていたのね。自殺していった少女たちと同じように。だけどそうすることができなかった……」

「ええ、そうよ。思えば、センターにいた時からずっと願ってきたわ。だけど叶えられなかった……常に私は、新たなしがらみに足を取られてきた。この手を支配されてきたの。今もまだ、そうなのよ」

「遺体にナイフを刺すことも、制服を添えることも、そのしがらみを断ち切るのに必要だったと言うの? ……あの制服は、あなたが誕生日プレゼントとして用意して与えたものだったのでしょう? あなたがずっと面倒を見てきた、冠城佳奈に向けて」

「……そんなことまで、よく調べた上げたものね。ふふっ、慶士郎さんが明かしたのかしら。あははっ」

 脈絡のない笑い声を上げると、キャシー先生はポケットからなにかを取り出す。

 それは真っ赤なスカーフだった。まるでセーラー服の胸元についているもののような。

 いや――ようなではなく、そのものなのだろう。

 あれが今回の自殺志願者の遺体に添えるために用意していた、セーラー服の一部。

 冠城佳奈の、夢の残滓。

「ねえジュリエッタ、覚えている? 初めてあなたとアジトで会った時、私が訓練で捕虜を殺す話をした時。……そう、私が殺人を犯したのは両親に対してだったけれど、その次は捕虜だったわ。私の前に政府軍の捕虜があてがわれて、上官が私に銃を渡した。好きに殺せと言ってね」

 惨たらしい話を始めるキャシー先生。

 まるで戦争映画のワンシーンでも諳んじているようだったが、ジェマさんの神妙な面持ちを見る限り、それがフィクションでないことは明白だった。

 これは現実の話なのだ――少なくともこの二人は、実際に経験した世界の話なのだ。

「命乞いする捕虜に向けて、私は銃を撃った。銃弾を浴びて死に損ねた捕虜は私に言ったの。殺してくれって。命乞いしていた時よりも切実に、銃弾の痛みに悶え苦しみながら……あの子も、同じだったの」

 ぎゅっと、スカーフを握るキャシー先生の手に力が入る。

 彼女の眼差しは、上階にいる僕にも分かるほど悲愴に満ちたものだった。

「病気に苦しみながら、佳奈は私に言ったわ。死にたいって、もう殺してって。私が見えているのか分からないような目で、ずっと私に願っていたわ」

 だけど、とキャシー先生は語気を強め、

「私は、なにもできなかった。殺せなかった。楽にさせてあげられなかった。なに一つ、あの子の望みを……最後の望みさえも叶えてあげられないまま、逝かせてしまった。

 こんなことってある? 私は何人も殺してきた、何十人も撃ち殺してきたのよ? 政府軍の兵士も、捕虜も、両親さえ殺してきた。……それなのに、私は佳奈を殺せなかった。苦しみながら、もがきながら、少しずつ涙を枯らしていくあの子を、見ていることしかできなかった」

 悲痛な声と共に、――彼女の手にあったスカーフが、コンクリートの上に落ちていく。

「……本当は、あなたが殺してあげるはずだったのね。自殺志願の女の子たちを」

 宥めるような声で、ジェマさんは言った。

「死ぬことを希う少女たちを自分の手で殺めることで、あなたは冠城佳奈の望みを叶えられなかった苦しみから……いいえ、あなたの中にある苦悩から逃れようとした。少女たちを殺すことができれば、自分も殺すことができるようになるのではと考えた。

 だけど――あなたは少女たちを殺せなかった。少女たちが生きている間は、彼女たちの体にナイフを突き刺すことができなかった。自殺が果たされたあとの、もう死骸と化した体にしかナイフを刺せなかった……そういうことね?」

 その問いかけに、キャシー先生は頷かなかった。

 代わりに、「ふふっ」と小さな笑みをこぼし、

「どうしてでしょうね。心臓が動いているか、動いていないかくらいの差しかないのに。どうして、ためらったのかしらね。あの子たちが死へ向かうことを、ただ見ていることしかできなかったかしらね……どうせ死ぬんなら、いっそ私を殺してから死んでくれればよかったのに。みんな、それだけは嫌がっていた。人殺しはできないって」

「カタリナ、それが普通なのよ。誰かを殺さなければいけないことの方が間違っているの。あなたが殺すことをためらったのだってそう。あなたはようやく、内戦の過去から解き放たれようとしているのよ……」

「ええ、そうね――解き放たれる、その通りねジュリエッタ。だってあなたが、私を殺してくれるんでしょう?」

 また「ふふっ」と、キャシー先生が目を細めて笑う。

「今回の一連の事件で、LDEが私にたどり着くことは予期していたわ。本当はもっと、暗殺でもするみたいに葬ってほしかったけれど……ジュリエッタ、あなたが来てくれるなんて思わなかった。あなただって溜飲が下がる思いでしょう? こうして私を殺せる機会を得られて」

「最初に言ったけれど、私はカタリナと争いに来たわけじゃない、殺すために来たわけではないの。私は、あなたにどうしても伝えなければならないことがあって会いに来たの。だから……」

「いい加減にして!」

 遮るように、キャシー先生は声を荒げる。

「ジュリエッタ、あなたはいつもそう。私に手を差し伸べるようなふりをして、結局はなにもしない。なにもできない。それどころか私の神経を逆撫でる……筋金入りの偽善者、それがあなたなのよ! 私の過去を少し知った程度で、辛い思いをしたのねですって? あなたに一体、なにが分かるって言うのよ!」

「分かるわ。――あなたの気持ちは、痛いほど分かる」

 ジェマさんは答えた。

 それまでよりも幾分、声の輪郭をはっきりさせて。

「だって私も、あなたと同じ……同じ痛みと悲しみを味わったから」

「同じですって? ふざけないで! 誰かを撃ち殺したこともなければ薬物に溺れたこともない、そんなあなたが、私とどう同じだったって言うのよ! センターでぬくぬくと暮らして、今だって、呑気にメイドなんてやっているあなたが……!」

「いいえ、同じよ――だって私も、失ったから」

 ふっと微笑んで、ジェマさんは言った。

 自身の下腹部の辺りで、ぎゅっと拳を固めて。

「私も――十二歳の時に身籠った子供を、失ってしまったのよ。

 十二歳の時の、あなたのように」



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