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 それからジェマさんは、キャシー先生の過去についてかいつまんで話してからアパートを出て行った。

 キャシー先生に――いや、カタリナ・メイ・アークライトに会うために。この怪死事件に決着をつけるために。

 ジェマさんから語られたキャシー先生の過去は、聞いているこちらが苦しくなってしまうほど凄惨なものだった。

 ――孤独な学校生活、両親の殺害、少女兵時代……。

 リハビリセンターでは再び孤独と薬物の禁断症状に苛まれ、ようやく分かり合えた恋人とも死に別れ、身籠った子供さえも……。

 これ以上ないほどの絶望を経験した彼女は、冠城教授の家で家庭教師をすることで、心の傷を少しずつ癒していった。癒されていったはずだった。

 けれどもまた――彼女は失ってしまった。その凄惨な過去と同じように。

 それはもう、キャシー先生にとって堪えがたい現実だったのだろうか。

 ジェマさんはこんなことも言っていた。

 ――『冠城教授は、怪死事件の犯人がこのネブリナであると感づいていたようです。遺体の傍に置かれた制服などは、冠城佳奈が入学することを夢見ていた私立中学の制服であり、冠城佳奈の母親が着ていた時代のものと同じであると。その制服は誕生日プレゼントとして冠城佳奈に与えられたそうですが……冠城佳奈の死後、部屋に残してあったはずの制服は、いつの間にか無くなってしまっていたそうです』

 つまり現場に残されていた制服は、元は冠城教授の奥さんが着ていたもの。それならば現行のものではなく古いタイプだったこととも合致する。

 冠城教授は、問いただせなかったのだろうか。娘の部屋からなぜ制服がなくなっているのかを。キャシー先生に。

 怪死事件の犯人ではないかと感づいていながら……問いただしてしまうことで、キャシー先生がそうだと認めるのを、恐れていたのだろうか。

 ――『ネブリナにとってあの制服を遺体の傍に添えることは、なんらかの儀式的なものだったのかもしれません。冠城佳奈が叶えられなかった、夢の残滓を解き放つための』

 ということは、すでに亡くなっているはずの遺体をナイフで突き刺しているのも、彼女なりの儀式なのか――その部分だけは、ジェマさんも分からないと言っていた。

 ただ一つ言えることは、彼女の精神はもう、壊れ切っているかもしれないと。

 もしもなんの理由もなく、死体に鬱憤をぶつけるためだけにナイフを突き刺しているのだとしたら――救いようがないかもしれないと。

 ジェマさんの言葉には、そうあってほしくないと願う気持ちが、滲んでいたような気がした。

「…………」

 ジェマさんが部屋を出ていったのち。

 僕はまだ、アスミに組み伏されたままだった。

 アスミは無言で僕の腕や頭を押さえ、僕の上に座っている。上手い具合に重心を支配されているため、まったく立ち上がることができない。

 いや、あの、さすがにそろそろ苦しいんだけど。

「ジェマから、言われてるから。拓海から目を離すなって」

 抑揚に乏しい声が降ってくる。

 よかった。ジェマさんが話している時からずっと静かだったから、もしかして僕の体を押さえつけたまま眠っているんじゃないかと心配していた。

「そしたら拓海、抜け出せたと思う」

 ジョークなのだから本気に取らないでほしい。

 というか目を離すなって命令が出ているにしたって、なにもずっとこんな体勢でなくてもいいじゃないか。年端もいかない少女に下敷きにされている姿なんて、誰に見られているわけでなくとも屈辱的過ぎる。もしよければどいてほしいんだけど。

「どいたら拓海、どうする?」

 もちろん僕もジェマさんのあとを追いかける。キャシー先生のもとへ向かう。

「じゃあダメ。それだけはダメ」

 ぎぎぎ。頭を押さえつける力がわずかに強まる。

 しまった、格好つけるのを意識し過ぎて選択肢を間違えたらしい。なんの行動も起こす気もないとアピールして抜け出しておけばよかった。

 でも、どうしてジェマさんはここまでするのか。僕についてきてほしくないのか。

「危険だから。とても」

 端的に答えるアスミ。

 まあ確かに。殺人犯ではないにしても、今のキャシー先生が異常であることは間違いない。自殺幇助に死体損壊、死体遺棄、おまけに警備会社のクラッキングも。これは何罪か知らないけどまあ犯罪だろう。

 とにかく今のキャシー先生が恐ろしい犯罪者であることは間違いない。ジェマさんの話を鵜呑みにするならば。

 でも、――だからこそ僕は、行かなければならない気がした。

 キャシー先生が本当はどんな人なのか……どんな想いでこんな事件を起こしてしまったのか、知るために。

「拓海が知って、どうするの?」

 それは、分からない。

 本当は信じたくないだけかもしれない。受け止め切れないだけかもしれない。

 どちらにしても僕は――こんなところで寝ている場合じゃない。

 だってキャシー先生は、僕にとって単なる先生じゃない。大好きな友達なんだから。

「大好きな、友達?」

 そうだ。そもそもアスミが訊いてきたことじゃないか。キャシーのことが好きなのかって。

 僕は好きだって答えた。答えてしまったんだから。そんな人が凶悪な犯罪者だって言われて、はいそうですかって納得するだけで済むものか。

 それにアスミだって、僕なんかを押さえつけている場合ではないはずだ。

「どうして?」

 だって、アスミも言っていたじゃないか。今日、僕とキャシー先生と、三人で遊びに行った帰りに。

 ――「またね」って。

 あの約束は、嘘だったのか?

「約束……」

 ああそうだ。あれはまた会おうって約束のはずだ。

 もしもここで行かなかったら、キャシー先生とは二度と会えないかもしれない。

 だから僕もアスミも、今すぐ会いに行く必要があるじゃないか。

 それとももう、――アスミは、キャシー先生に会えなくてもいいのか? 二度と遊びに行けなくてもいいのか?

「会えない……キャシーと…………」

 それからしばらく、アスミは黙り込んだ。

 いや、口数が少ないのはいつものことだけれど。黙っている時間の方が圧倒的に長い少女だけれど。

 この時の沈黙は、それまでの静けさとはなにかが違った。

 アスミは今、考え込んでいる。なにかを悩んでいる。

 僕の言葉のなにがきっかけになったのかは分からないが、彼女の中で揺れている感情がある。僕にはそんな風に感じ取れた。

 それからアスミは、長いこと黙り込んだ末、――僕の上からどいてくれた。

 突然のことで僕は驚いた。圧縮された体を引き延ばすように伸びをしながら立ち上がり、僕は問いかける。

 どうして急に、僕を自由にしたのか。

「会いたいから。キャシーに」

 か細い声で、アスミは答える。

 しかしなにを思ったか、すぐにぶんぶんとかぶりを振り、

「会わないと、いけないから……そのために、ジェマが……」

 と、曖昧な具合に訂正する。

 普段と変わらないはずの無機質な目は、静かな熱を湛えているように見えた。



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