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 その年、日本は六月の梅雨前線が長く停滞し、天候が優れない日が続いた。

 その悪天候は夏を迎えても尾を引き、天気予報では冷夏という言葉を頻りに見かけるようになった。

 二月には体調を回復させていた佳奈だったが、無理が祟ったのか気温が上がり切らないせいか、例年であれば快調であるはずの夏頃に体調を崩すようになり、九月から十月と、残暑が引き始めると更に悪化の一途をたどった。断続的な微熱が高熱に変わり、佳奈はまた勉強から遠ざかることになった。

 カリキュラムそのものは、入試をパスするのには充分過ぎるほど進んでいた。状態さえ万全であれば、明日にでも受験させてよいくらいだった。

「ごめん、キャシー……今日も、ダメみたい」

 眠っていることが多くなった佳奈は、目を覚まして私を見ると、いつも謝るようになっていた。今が朝なのか夜なのか、分かっていないような目でこちらを見上げていた。

 ――大丈夫よ、佳奈。あなたはもう、いつでも受験できるくらい賢くなったんだから。あとはもう病気に打ち克つだけ。

「うん……二月までには、治るよね?」

 ――もちろんよ。あんなに頑張っていたんだもの、神様が見放すはずがないわ。

 ――だから心配しないで、今はゆっくり眠って……。

「うん、……ありがとう、キャシー」

 紅潮した頬には、佳奈の静かな熱が音もなく伝っていた。

 私は佳奈の回復を信じていたが、同時に恐れてもいた。彼女の体調は冬が深まるほどに悪化する。十月にこの調子では、十二月には一体どうなってしまうのか……悪い未来ばかりが脳裏をよぎり、その度に私はかぶりを振った。希望の灯火を佳奈の中から消してしまいたくなかった。私は懸命に佳奈の回復を祈った。

 十一月、佳奈はベッドから自立できなくなった。病院にも行けず、家に医師を呼ぶもやはり原因は分からない。そもそも病院で詳しい検査をした時でさえ突き止められない原因が、家の中で少し診てもらった程度で分かるはずがない。解熱剤や鎮痛剤などを投与し、その場凌ぎの治療を施すくらいしかできなかった。

 この頃になると、あれほど多忙だった慶士郎も大学教授の職を休み、できる限り佳奈の傍にいるようになった。慶士郎の話によれば、幼い頃には一度、今と同じくらい苦しんだことがあったという。

「その時には私も、最悪のことを考えたよ。だからできる限り傍にいてあの子を励まし続けた。それを乗り越えてからは、ここまで悪くなることは一度もなかったんだけどね……とにかく、あとはもう祈るしかない」

 一度は乗り越えた――その言葉が、私にかすかな希望を持たせた。

 きっとまた乗り越えてくれる。穏やかな日々が戻ってきてくれる。

 私はもう、受験のことなど頭になかった。ただ、佳奈が生きてさえくれればいい。そう願うようになっていた。

 ――そして、十二月。

 その地域ではめずらしい、大雪の日があった。クリスマスも間近になった半ばのことだった。

 目を覚ました佳奈は、全身を焼くような熱のせいで声を上げて呻吟していた。布団などはすべて床に放り出され、パジャマのボタンまで引き千切って身をよじらせていた。真夜中過ぎの急変だった。

 慶士郎はすぐに救急車を呼び、私は暴れる佳奈の体を押さえつけていた。わなわなと震える彼女の手は、全身の熱に反して血液を抜かれたように冷たく、真っ白になっていた。その事実は私の心を締めつけ、焦りと拍動を強くさせた。

 大雪のせいか救急車は中々到着しなかった。いや、仮に到着したところでなにができるというのか。

 私は何度も佳奈に呼びかけ、落ち着かせるよう尽力した。それから、私にできることはないか、どうしたら楽になれそうかなど、少しでも症状が和らぐ方法を模索した。

 佳奈は目の前にいるのが私なのかどうか、分かっていないような目で泣いていた。

 私の問いかけに呻き声で反応すると、虚空を見上げたまま、答えた。


 ――「死にたい」、と。


 それが、佳奈がこぼした望みだった。


 ――「もう、嫌だ、いやだ」


 ――「殺して、ころして」


 ――「熱いのは、嫌。嫌……っ」

 

 ――「ねえ、キャシー、キャシー」


 ――「そこに、いるんでしょう? ねえ、キャシー……」

 

 ――「もう……嫌……っ」

 

 ――「キャシー、お願い……もう……」

 

 ――「こんなの、嫌……死にたい、死にたい」


 ――「殺して……早く、殺して……っ」

 

 ――「キャシー、ねえ、キャシー……っ」


 涙まみれの、焦点の定まっていない眼差しが私を捉えていた。

 私の力が弱まると、佳奈の暴れる手が私の唇に当たり、シーツにぽたりと血がこぼれた。

 ――殺してくれ。

 脳裏に蘇る、凄惨な光景。

 あの時の私は、どうしただろうか。どのようにして死を与えたのだろうか。

 ああ、そうだ――銃口を定め、引き金を引いて、あるだけの銃弾を浴びせた。

 そのうち、声は途絶えてくれた。銃声によって掻き消されたのだ。

 ――ああ、でも、ダメだ。

 今の私には、銃がない。

 いや、銃だけではない。

 両親も、恋人も、子供も、最後の愛情さえ取り上げられて――、

 私の脆弱な手のひらには、空っぽの熱だけが取り残されていた。



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